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阪神・淡路大震災の体験談をお聞かせ下さい

阪神・淡路大震災の体験談をお聞かせ下さい 今日、1月17日は阪神・淡路大震災が起こった日で、毎年(とりわけここ関西地域では)ニュースなどでそのテーマが取り上げられます。 が、常にインタビューする対象者や、報じる体験談などは「神戸」であります。 確かに被害が一番多かったので、それはそれでよいのですが、神戸以外のかた(たまたま出張で大阪にいた、等も含めて)、 ようするに、いったいどの辺りのエリアまで、どういう影響を与えていたのか、色々な方の生の体験をおききしたくて質問させて頂くことにしました。 また、インターネット(匿名)だからこそ言える、というようなお話も歓迎です。 そのときお住まいだった地域(おられた場所)と建物の種類(築30年の木造家屋、など)とあわせて 教えて下さい。

みんなの回答

noname#109751
noname#109751
回答No.3

姫路市在住です。 震度は4ほどでしたが、電車が止まった為学校は休みになりましたし、自宅(築15年ぐらいの2階建て)の本棚や食器棚から物が落ちていました。 それと、信じられないかもしれませんが地震の来る5分くらい前に飼っていた犬(近所の犬も含む)がやたら吠えていました。それと同時ぐらいだったかと思いますが、地鳴りのような『ゴー』という音を聞きました。 あれ以来地震にはとても敏感になりましたし、怖いです。

  • doorakanai
  • ベストアンサー率27% (758/2746)
回答No.2

ちょっと質問とずれていますが 実家は大阪 あの時は九州に住んでいました。 朝出勤したら会社の人が 「実家大丈夫か?」「何のこと?」「大きい地震があったらしいぞ」 テレビでは、関西滅亡かと思う程の恐ろしい映像が流れ 淡路島の南端に住む祖母、明石と和歌山の海沿いに住んでいる友達 大阪に住む友達と大阪中心部の実家に電話をかけまくりました。 2日後、やっとつながって 祖母の家と明石の友人は、壁にヒビが入った程度 和歌山の友人は屋根瓦が吹っ飛んだだけで 津波もなく(海沿いだから津波が心配だった) 大阪の埋め立て地に住んでいた人は、地盤沈下がひどかったらしい。 姉の頭には本が落ちて来て、母に至っては気付かず寝てたらしい。 目ぐらい覚ませよ テレビとラジオで死亡者、行方不明者の名を読み上げるのを 知った名前を読まれないように祈りながら聞いていました。 何も分からない、電話もFAXも繋がらない2日間が怖かった。 当時仮設住宅が神戸にたくさん建てられ、用が済んだ仮設住宅は 今では安い賃貸住宅になっているらしいです。 そんな神戸の友人の家賃は2万。破格。

117sinsai
質問者

お礼

明石市で壁にヒビ、和歌山で屋根瓦が吹っ飛ぶ! 私が思った以上に広範囲まで影響あったのですね・・・ 電話がつながらない状態のときは、本当にっ辛かったですよね。 宝塚におばあちゃんたちが居たので、本気で最悪のことを覚悟しました。 電車も動いていないし、車は道路がパンクしていたので(それに救急車などが優先で、一般車は通らないように言われていたし)、私たちもどう動いたらいいのか分からず・・・ 叔父がバイクで宝塚へやっと行けたのですが、電気、ガス、水道すべてアウトではありましたが、命には別状ありませんでした。祖母は「昨日の空襲で、全部やられてしまったー」と「震災」のことをずっと(いまだに)「空襲、空襲」と言っております。昭和20年に神戸で大空襲にあったときと重なるものがあるのでしょうね・・・ 

  • asebi-0806
  • ベストアンサー率39% (1265/3233)
回答No.1

遠く離れた関東圏からですが良いでしょうか。 あの日、私は読み始めた本を最後まで読んでしまって徹夜してました。 朝になると1歳2カ月の子供が目を覚ましたので、背中におぶって、ラストを読み切ってしまおうと家のなかをウロウロ歩き回りながら読んでいました。 すると、関東の生まれ育ちで地震には慣れっこの私でも、「おっ、ちょっと大きいな?」という揺れを感じました。 特別被害があったわけではありませんが、戸棚のものがちょっと落ちたりしました。 何せ地震は日常茶飯事という感覚しかありませんでしたからさして気にせず、地震速報を見ることもなくその後すぐに本を読み終えて、眠気に任せ、子供と一緒に一寝入りしました。 1時間か2時間、仮眠をとったあとにテレビをつけてビックリ! テレビにはまだヘリコプターから撮影した上空からの映像しか流れてませんでしたが、いったいどこの国のどこの都市だろう?!と思いました。 日本で起こっている事とは、しばし信じられませんでした。 言いようのないショックでしたね。 阪神地区には親戚縁者も友人知人と言える人もなかったので、まるで他人事ではありましたが、そこで何が起こっているのか、想像さえできませんでした。 後日の報道で悲惨な現場を目にして、すっかり地震慣れしてしまっている自分の感覚を危惧しました。 いつこんな目に遭ってもおかしくなかったのかも知れない…と。 背におんぶしていた子供は高校生になりました。 この15年の神戸の復興の様子には励まされ、人間の底力というものを見せつけられました。 報道を見るたびに命を落とされたたくさんの方々のご冥福を祈ると共に、次は自分が住んでるここかも知れないのだと、気持ちを戒め毎日を悔いなく過ごして行こうとしています。 それにしても、東海地区の防災意識の高さはすごいそうですね。 ぜひこの関東でも見習っていくべきと思います。

117sinsai
質問者

お礼

ありがとうございます。関東でも、ですか・・・ そんな遠いところまで地震の揺れは伝わっていたのですね・・・   初めて知りました。 大変誠実で、こころある回答を下さり、本当にありがとうございました。 私自身はそのとき大阪府堺市の祖母宅に泊まっており、経験したことのない揺れで(ずっと関西に住んでいるため地震じたい経験がありませんでした)、スプリングコイルのベッドの上で、ぐわんぐわんと揺さぶられながら、ベッドから落ちないように左右に手を広げ、ベッドに仰向きでしがみついて揺れがおさまるのを待ちました。15秒と報道でききましたが、私には1分くらいに思えました。  揺れが終わった直後、祖母が家族の名前を点呼するように叫ぶように呼び、確認しました。 家には7台程テレビがありましたが、2台のテレビがテレビ台から落ち、ひとつはテレビ画面のガラス板が落ちました。落ちなかったテレビも(揺れの影響で)その後 波線が入ったり、調子がおかしくなりました。 台所の食器棚はダイニングテーブルのところまで倒れ、ダイニングテーブルにもたれるように45度の角度で止まったまま。 堺市では死者やけが人はなかったはずですが、兵庫県(神戸市、宝塚市、西宮市)には親戚、友人、先生、たくさん住んでいたので、そのときも今も他人事ではありませんが、堺市の状況としては、家の中の物々が落ちたり、壊れたりする程度のお宅が多かったようです。 両親が外国へ行っていたので大阪市内の自宅は誰もいませんでしたが、同じような感じだったのではないかと思います。その親は何度も祖母宅に国際電話をかけたそうですが、電話回線はしばらく使えませんでしたので、親は我々の安否を確認することもできずに、とてつもなく心配したそうです。 (当初、外国では認知度の観点からかOSAKAで地震が起こったと報じられたこともあり、なおのこと心配したそうです。ちなみに兵庫県宝塚市には母方の祖父母、親戚がおり、とにかく心配という言葉ではすまなかったと思います。それは堺市にいた私も同じく・・・) 余談ですが、そういえばしばらくたつと、いきつけの楽器店から「ピアノ調律」を震災の特別じたいということで、半額でおこなうと案内がありました。多くのおたくでピアノが揺れ、調律を必要としていた時期で、私もお願いしました。 甚大な被害にあわれたかたで、私の質問などがお気に障るようなことがありましたら、大変申し訳ありません。 最近日本にやってきた日本に詳しい外国人のお友達との間でこんな会話があったんです。 お友達 「KOBEの地震はすごかったらしいね」 私   「そうなの。うちは食器われた程度だけどね」と話すと、 お友達 「え?君はOSAKAでしょ?なんで揺れたの?また別の地震?」 地理的知識として兵庫と大阪が隣であることは知っていても、実際にどのあたりまで地震の影響があったのか、この「震災」の大きさ、与えた影響の大きさなどまったく認識していないようで・・・ そういえば、私もたとえば京都はどんな感じだったのかいまだに知りませんし・・・ 私も母になり、現在小学生の子供たちが震災のことを色々と質問してきます。 大きな被害ではなくとも、この大きな地震のことを、少しでも記憶が鮮明なうちに、教えて頂きたいなと思い、投稿させて頂きました。

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