それでは ブッダのさとりとは何だったのか
以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。
【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html
わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。
☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。
空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。
みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。
慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。
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☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。
そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。
【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。
ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】
【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】
次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。
○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html
☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?