• ベストアンサー

親鸞再考

 《信仰》という一点に絞ります。次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。  ▲ (《歎異抄》 第一章) ~~~~~~~~~~~~~~~~  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。  そのゆゑは、罪悪深重(じんじゅう)・煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと 云々。 http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/ (検索で最初に出ているので) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一番の知りたいところは   (A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。  ☆ です。言いかえれば   (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。  ☆ です。《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。   (C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。  ☆ と疑われます。なお   (D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。  ☆ と単純に受け取ります。

noname#80116
noname#80116

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ctaka88
  • ベストアンサー率69% (308/442)
回答No.14

これは回答ではありませんが、 >(A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》-と切ってしまっているので  以下、「そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。」という疑問になってしまうのではないでしょうか。 ここは「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、」までがひとまとまりでこれについては 第十一条に「念仏申さるるも如来の御はからいなり・・」とあるように、「念仏まうさんとおもひたつたこころのおこる」のも「弥陀の誓願不思議」のうちに含まれているのですから、衆生(人間)からのはからいはあり得ないと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ctaka88さん ご回答そしてよきアドバイスを寄せていただきありがとうございます。  まったく おっしゃるとおりだと読み改めました。その説明は 直前の補足欄に述べましたので よろしかったら ぜひ目をとおしていただきたく思います。  そして そこには なお課題があるかにも思いましたので つづってみました。いま ふたたびみたび考えなおしてみますと こういうことになるでしょうか? すなわち  ▲ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき  ☆ この場合に 次のように解釈することになるでしょうか。  〔なお 訂正があります。誤 おもひたつたこころ → 正 おもひたつこころ です。すみません〕。  ○ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと≫ その《不思議》に着目しつつ ≪ 信じて ≫ どこからか なぞの力を与えられてのように 非思考なる心の伸びを感じ これを促され その受け取り=受け容れ=自覚のあとに ≪ 念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき  ☆ と読むべきでしょうか。  わたしの感覚では 神と変わりないように思えるのですが どうなのでしょうか。そして 他の宗派の信仰形態や如何に? という課題も 見え隠れします。  ありがとうございました。たいへん おそわりました。よろしければ 今後とも おしえてください。

その他の回答 (31)

noname#117439
noname#117439
回答No.1

いつもどうも、primeapeことポケモンのオコリザルです。 信仰が議題なのでなるべく脇役に回りたいです。 私の経験です。 人を信じようともがく中から狂気に蝕まれたとき、助けてくれたのが純粋な光であり、名を呼ぶならアマテラスさんでした。これは神など絶対に対して無頓着だった私からすれば意外なことで、信心の末にたどり着いた境地とも案内ともいえません。 弥陀の誓願不思議が当時の言葉で表す、自らの信仰の発見であるならば、当初は絶対にたどり着くことを求めた信仰のありようではなかったと思いますが、このような神秘体験は思いがけない絶対の発見であったのではないかと推測します。 日本人は信仰の中で「絶対」と言う言葉の使い時を知らないのでしょうね。私も純粋な光が絶対の存在であるかどうかには関心がありませんので確かめようともしません。私は以前に自らの心の究極の姿について、「その背中は自らの存在に疑いを持ったことがないので、疑問めいた問いかけに答えようが無い」と、表現したことがあります。同じことが見出した光に言えるなら、これは絶対ゆえにもちえる特徴ではないかとは考えます。 でも、絶対の存在は運命に対して道案内をくれることがあります。それに頼らなければ足元がおぼつかない場合に限ってですが。そういうのもはからいといえるかもしれませんね。 今回のお話は私との談話室にすると面白みがないですね。 最近仏教徒さんも影が薄くなってさびしい限りですが、ご意見を伺いたいところです。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。こちらこそ いつもどうも。ご回答をありがとうございます。  そうですね まづ  ★ 最近仏教徒さんも影が薄くなってさびしい限りですが、ご意見を伺いたいところです。  ☆ よね。ひとつには  ★ 日本人は信仰の中で「絶対」と言う言葉の使い時を知らないのでしょうね。私も純粋な光が絶対の存在であるかどうかには関心がありませんので確かめようともしません。  ☆ というようなことが 影響しているかと思われます。思われますが 同じく ひとつには けっきょく 世界の舞台では 通用しないのではないかと思います。逆に 日本以外の世界が 《絶対》などということを 声高に言いすぎであり そんなことは 日本人には通用しないよと言えるといいのですけれど。――おそらく 両方が 歩み寄る必要があるでしょうね。  ★ 神など絶対に対して無頓着だった私からすれば意外なことで、信心の末にたどり着いた境地とも案内ともいえません。  ☆ おそらく 一般的には 信仰は 非思考と言うがごとく 或る日どこからともなくやって来るのだと思います。それは たとえば たとえ信仰に関する本を読んでいたときであっても その読書とは一たんかけ離れて やって来るのではないかと思います。一般論ですが。  だとすると 《これを信じるなら 救われる》というような思考と意識とがあるとき――はからいがあるとき―― それは 信仰だとは言い難いのではないかと考えます。  ★ でも、絶対の存在は運命に対して道案内をくれることがあります。それに頼らなければ足元がおぼつかない場合に限ってですが。そういうのもはからいといえるかもしれませんね。  ☆ とおっしゃるように 《はからい》は 向こうから来るのであって こちらから努めることではないと わたしも思うのです。  というような出で立ちで 親鸞再考をもくろみました。  《談話室》と言うのはよくないらしいですが 思いついたことなど出てきましたなら どんどん お寄せくださいとお伝えするとともに みなさんからも ご投稿をお待ちします。  * けっきょく 世界との交流において この信仰の類型的なあり方は 明らかにしておくべきだと思うのですが いかがでしょうか。

関連するQ&A

  • 浄土真宗 自殺について

    信心を持ち南無阿弥陀仏と念仏を行えば 阿弥陀如来の本願により、無間地獄に落ちず 極楽浄土に往生できる。と言うのが、 浄土真宗の教えかと思いますが 信心を持ち、念仏を唱えながら 自殺した場合でも「後生の一大事」から救い出され、 往生できるのでしょうか?

  • 「一念発起」の意味

    阿弥陀如来への信仰をもっただけ(信心発起)で、 念仏を一度唱えただけ(一念発起)で往生が決定する。 だからそれ以後の念仏は、往生を求めての念仏ではなく、往生決定にたいする報恩念仏である、という話しを伺ったのですが辞書に掲載されている意味のイメージが強く合点がゆきません。一念発起の意味を改めてお教えください。

  • 浄土真宗における菩薩について

    蜂屋賢喜代という人の四十八願講話という本に41願の「わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。」の説明で、「他の国の菩薩というのは、信心決定した人のこと。信心決定すれば、体に障害を負うことはない」と書いてあったのですが、これは暴論じゃないですか?「そうなっているので仕方ない」と書いてありましたが、私の知り合いに、信心がハッキリしていても盲目になったお婆さんがいます。その人は救われないということでしょうか?私自身も、耳が遠く、医学的にこれから聞こえなくなる可能性がありますが、そうなったらこの信心は嘘ということになるのでしょうか?そうなると、「誰でも等しく救う」という弥陀の誓願は嘘になり、障害のないものを救うというものになってしまうと思うのですが… 親鸞聖人も愚禿抄の中で 本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり と仰っていますが、これは比喩表現なのでしょうか?

  • 親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?

     1. たとえば 次のように言っています。  ▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~  2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。  3. だとすれば アミターバ・タターガタの《他力》については いちいちわれわれ人間が考えることはない。と言っているはずです。  4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。  5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行やあるいは思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。  6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。  7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう?  8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう?  9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?  9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?    9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?  10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?  11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか?  12. たとえば:   ▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~  12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ       いつくしもうと思う者をいつくしむ。      (出エジプト記 33:19~ローマ書 9:15)  12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み      〔弟の〕ヤコブを愛した。       (マラキ書1:2-3)  12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ      かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。       (ローマ書 9:18)  12-4.  神は すべての人が救われることを欲したまう。       (テモテ第一書 2:4)  12-5.  風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8)  ~~~~~~~~~~  13. このあと 《だから 言わんこっちゃない これこれなのだ》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。  自由なお考えを待っています。

  • 親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?

     しかも これを わがシントウの《神ながらの道》にひとしいと仮説して問います。  1. たとえば 次のように言っています。  ▼ (親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審(=疑問)あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~  2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。  3. だとすれば アミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)の《他力》については いちいちわれわれ人間が詮索し考えることはない。と言っているはずです。  4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。  5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行や思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。  6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。  7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう?  8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう?  9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?  9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?    9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?  10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?  11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか?  12. たとえば:   ▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~  12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ       いつくしもうと思う者をいつくしむ。       (出エジプト記 33:19 / ローマ書 9:15)  12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み      〔弟の〕ヤコブを愛した。      〔しかも母の胎内にいるときにすでに〕       (マラキ書1:2-3)  12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ      かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。        (ローマ書 9:18)  12-4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。        (テモテ第一書 2:4)  12-5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8)  ~~~~~~~~~~  13. このあと 《だから 言わんこっちゃない。やっぱし こうぢゃないか》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。  14. たたき台として示し得た内容について そのすべては シントウないし《日本的霊性》とよぶべきことをも等しく表わすものと思っています。  15. このシンラ二ズム(親鸞思想)は 老荘思想や儒教とは・そして仏教とさえも基本的に異なると考えます。《はじめ(アルケー)》を立てないところです。アミターバ・ブッダを立てていますが――神を立てていますが―― その《義ないし思考または純粋理念》〔なる観念〕から自由な場におのれを置いているからです。これが 神ながらの道であると信じます。  みなさん 思いっきり自由なお考えをどうぞ。遠きを慮り つつしむことこそが 自由なのだというお考えもあるかも知れませんが。

  • 東本願寺でおかみそりを受けたいのですが親鸞会の母が反対します

    私の母は親鸞会に30年以上入信しています。先日、私は、東本願寺でおかみそりを受けたいと母に話しました。ところが、「母は本願寺は死んだら助けるけれど親鸞会は、生きている間に幸せになれるので、(信心決定、絶対の幸福というそうですが)本願寺なんかでおかみそりを受けるな。」といいます。「親鸞会の考え方こそ親鸞聖人の教えを正確に教えている」といいます。さらに古くからの母の友達という親鸞会の先生は、「本願寺はおかみそりという形だけの儀式によって仏門に入ったように見せかける。」などといっているそうです。私としては生きている間におかみそりを東本願寺で受けて法名を手に入れ、大谷派の門徒として教えを聞いていきたいと思っています。どのようにすれば、母に理解してもらえるのでしょうか。  また、母曰くおかみそりを受けた人は100万円単位の出資を本願寺にしなければいけないとか、お寺の行事に全部出なくてはいけないとか言っています。また、初詣も行ってはだめだと言っています。実際におかみそりを受けたことのある方や大谷派の僧侶の方のご意見を伺いたいです。  同じ浄土真宗なのにこんなに考え方が違うなんて不思議でなりません。どちらが正しいのか私にはわかりません。教えてください  

  • そこまで菩提心が問題なのか?

    ~~~~~~~~~~~~ 法然は,また十二章「釈尊、定散の諸行を付属したまはず。ただ念仏をもつて阿難に付属したまふの文」においては,観経に説く「菩提心」に関し、次のように言う。 発菩提心とは,諸師の意不同なり。天台には即ち四教の菩提心あり。謂はく蔵・通・別・円これなり。 つぶさには止観の説の如し。真言には(中略),華厳には(中略)、三論・法相に,おのおの菩提心あり。 つぶさにはかの宗の章疏等の説の如し。また善導の所釈の菩提心あり。つぶさには疏に述ぶるが如し。発菩提心その言一なりといへども,おのおのその宗に随つて、その義不同なり。(中略)願はくはもろもろの行者,一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求めむ人,おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。たとひ余行あしといえへども,菩提心をもつて往生の業とするなり。 この文に関する限り,法然は「善導の所釈」の浄土門に固有な菩提心の存することを認め,同時に聖道門・顕密諸宗の菩提心についても、これを全面的に否定する如き立場をとつてはいないのである。しかし同章の後段において,法然は再び菩提心否定の立場を明確にする。 答へて曰く,「仏の本願を望むに、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と云ふ。定散の諸行は本願に非ず。 経中に「定散を説くことは,念仏の余善に超過たることを顕はさむがため」に過ぎず,したがって 「菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心なき者は,即ち往生すべからずと」考えることは誤りである。菩提心を含め「定散は廃せんむがために説き、念仏三昧は立たせむがために説く」のが経の本意である。法然において,菩提心は往生業としては,究極「余行」として位置づけられる。法然のこの菩提心観は,その思想の中核をなす本願念仏説を構成する契機である。しかしそこに,明恵から大乗仏教の基本的立場に反するとの批判がなげかけられる理由がある。明らかに菩提心は大乗仏教一般の基本をなすものであり,このことは中国・日本の浄土系思想において一貫した思想的伝統であった。しかるにこれを法然は否定したのであり,ここに法然浄土教の独自性と,同時に問題が存する。 菩提心に関する一考察 ――明恵・法然・親鸞の所説をめぐって―― 熊田健二 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2587/1/al-no57p001-017.pdf 5~6ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ 私はもうokwaveに参加したくないのです。 中国人や韓国人にとって日本の浄土教の菩提心の解釈など、どうでもいいでしょう。 いやみばかりいってくるようですが、そんなに気になるならpdfを読めばいいでしょう。 批判したいならpdfの作者にすればいいでしょうが。 本当に嫌になる。

  • 歎異抄を読んで

    歎異抄を読んで、気になっていた文が有りました。 第五条 自分の父母のために 念仏をするのではない。 ならば、 お葬式で「盛大に行う葬式100万円、家族で行う葬式30万円」 執り行う葬儀は、極楽浄土への死者への往生の違いでしょうか? 第六条 師と弟子ではなく、ともに信仰の道を歩むものどうし。 寺院で階級の上下が有り上納金を納めるのは、師弟の差があるの ではないでしょうか? 後序① 信心する者には、上下・優劣がない。 死者の戒名に序列上下・優劣があるのは、お布施の多い少ない? 以上三点の質問をお答え願えませんでしょうか。 

  • 特殊絶対性仮説をデザートにどうぞ

     一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実の生活となるのか?   これにこたえる必要があります。  普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。  これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。  要するに:   ・名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない      ・有る神のほかに無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。      ・普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――つまり信仰――は そこから得ら    れる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他    人に説く宗教 この宗教とは〔信仰は〕 何の関係もない。  さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は その実践において 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。  ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出る これが その根幹としての内容です。  非思考ゆえ 無根拠においてです。  これが 基本として説明のすべてです。  ご批判を自由にどうぞ。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。