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法隆寺と唐招提寺

現在大学院院試の勉強で、法隆寺金堂と唐招提寺金堂の平面・意匠・構造の観点から比較しようとしています。 ここで源流となった大陸の建築様式に注意しながら比較しなければならないのですが、源流は異なるのですか? 私はどちらも朝鮮経由の中国が源流だと思っていましたのでどうしてもこの視点から比較できません。 どうかお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.2

>現在大学院院試の勉強で、法隆寺金堂と唐招提寺金堂の平面・意匠・構造の観点から比較しようとしています。 ここで源流となった大陸の建築様式に注意しながら比較しなければならないのですが、源流は異なるのですか? 私はどちらも朝鮮経由の中国が源流だと思っていましたのでどうしてもこの視点から比較できません。 どうかお願いいたします。 法隆寺は一度消失し、7世紀末ごろに再建されたことが発掘の結果証明されています。消失以前の建築は、回廊に囲まれた中に、南北線上に前に塔(仏舎利塔・スツーパ)、後ろに金堂の四天王寺様式だったようです。これに対して再建された現在の法隆寺は、東西線上に西に塔、東に金堂という法隆寺様式に変化していますが、飛鳥の様式の一形態をとっているとされています。また、四天王寺様式は別名百済様式と言われ、百済の影響が見られます。これは、厩戸皇子(聖徳太子)のブレインに百済僧観ロク、高句麗僧恵慈などの朝鮮半島出身者の存在があったことが影響しているのかもしれません。さらに、現在の金堂の柱はエンタシス様式ということは有名なことです。 さて、塔と金堂の関係を書いたのはご存知のこととは存じますが、初期仏教の信仰の中心が仏-具体的には仏舎利にあり、その仏舎利を収めていたとされる(仏舎利)塔が寺の中心にあったのが古い形式と言われているからです。それが徐々に中心からはずれ、東大寺に至っては、回廊から外に出て、門の左右に装飾物のように並ぶようになります。このように塔と金堂の位置関係により様式および建築年代が分かるので、老婆心ながら付け加えさせていただきました。 さて、現存の法隆寺金堂ですが、南北朝様式で建築されていると言われています。これに対して唐招提寺金堂は寄棟造で建てられ、和様建築の起点とされています。また、講堂は平城宮の朝集殿を移築したものと伝えられています。 これも老婆心になりますが、基準の尺は何尺を用いたのでしょうか。また、基盤は掘立柱を用いているのでしょうか。このようなことも比較検討の中に入るものだと思います。 少し長くなりましたが、参考までに。 院試での健闘をお祈りします。頑張ってください。

sibukuro
質問者

お礼

四天王寺式は百済様式という別名もあるのですね。 法隆寺にこれほど朝鮮がかかわっているとは思いませんでした。 大変参考になりました。 ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.1

唐招提寺は、唐から直接日本にやってきた鑑真のために建設された寺院です。建設に際しては、当時の唐の典型的な寺院の様式が、鑑真の言うとおりに採用されたでしょう。いわば 「唐の寺院をリアルタイムでコピーした」 様なものであったはずです。 「私はどちらも朝鮮経由の中国が源流だと思っていました」 と言うご見解は、少なくとも唐招提寺には当て嵌まらないでしょう。 後は、大学院に進もうと言う方なのですから自分でお調べ下さい。

sibukuro
質問者

お礼

日本建築史図集をもう一度読んでみましたら、鑑真が唐から直接輸入したことが書いてありました。 肝心な手元にあった資料の調べ方が雑でした。 ありがとうございます。

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