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- 中二病にはワクチンがありますか?
成す術がない。 君たちは選択できない。 赦されざる者ども。 赦さざる者ども。 君たちは同時に両者である。 雷鳴はいかなるくびきを不実に打ち込むのか。 実在する妖精 ときわたりの世麗美だ。 余談だが51歳の男性であることを留意してくれ。 えっとね、私の持論の神の存在証明のとっかかりは、唯一にして絶対なる神という命題を暫定的に肯定して、その神の本質の中から人間が交霊術で接触可能な神の片りんを精霊と定義している。 しかしキリスト教圏から見て野蛮な宗教は聖霊相当と接触するとそれを神だと素朴に認める。 この場合の聖霊という定義は、実質的に人間シャーマンが降臨させた、人と親和性があり人に好意的な人格神だ。 唯一にして絶対なる神が、人間に対して好意的かは未確認だね。 神の存在証明はしたがる理由だよ。 宗教がキリスト教でないなら、関心を払わないほうが身のためだ。 えっとね、全く真偽のほどが不明でもこの質問の前提になる日記から引用、 ーーーーーーーーーーーーーーー 遊んで汗を流して、今、世麗美がローマの母から聞き出した。 無理心中が成立しないで自爆するように一人で死ぬようになったのがキリストが根絶した19世紀で、ローマの母は新約で十分にイエスを敬愛して聖人の最もを広める新約キリスト教を成立させた。聖書編纂期に和解を示した。 しかし帝国とは、民衆に誠意を見せると民衆を堕落させるのだと19世紀に冷酷な破綻を演出しなければならなかった。 この文脈だと、ミカエルのことはとても大切に扱ってくださいと、影武者で父親役の「しげちゃん」に伝言をしているようだ。 交渉している世麗美にね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー キリストちゃんたちは、殺してその肉を喰らうと金持ちになれる価値を発生させるんだよ。 それが19世紀以降のキリストで、それは無意味に死ぬことだと神にみなされている。それは世界の神々の総意に等しい了解で、キリストとは救世主という風説の真逆で、天界で唯一救済が必要なヘタレなんだよ。凄すぎるヘタレで実に厄介だ。 人の常識と違うのが明白だ。 誰か、神に物申して十分にキリストは価値があると延命を試みるか。 延命するのは何者か? 実に不毛な重商主義だよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 4月6日は、新約キリスト教を束ねるローマの最高神とようやくつくよみで人間存在が意図をうかがう局面に到達した。 こういう働きで大活躍するかわいい存在が、からかさお化けだよ。 かなりきつい口上で私は挑発的にふるまったが、開示された情報を読み解く限り「悪魔召喚」とまで言ったのは詫びを入れないといけない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー また、退屈なビョーキの話だ。 唯一にして絶対なる神というのが、実はローマの主神という人格神であったということは、「神の存在証明」という命題は私の完全勝利で陥落したという事だよ。 西洋の神の本質への探究として命題になった「神の存在証明」の今までの研究とは、天界や天国と言って神の世界に関する世界観の形成が主力で、実際は神の本質にはあまり成果がないんだ。 その点は「みんな」という言い回しを正しい用法で説明しながら、自我存在と超越存在の対比として説明している。 まあいいや、人類的に疫病となったこの惨劇とあやまちのワクチンは、今後副作用緩和を考える段階で、最後まで天使であることを全うした孝行者の「ラファエル編」を本格的に仕上げて、かなり挑発的で喧嘩腰だった過去の詫びのつもりにするよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 過去に書きなぐった日記はここまで、 私は人間存在に仏性に相当する地上の聖霊 世麗美を内包する。 「妖精さんでちゅ」 この結果変則的な交霊術で内容の片りんに触れた中二病妄想日記だ。 どういうことかというと、「唯一にして絶対なる神」という危惧されるアンノウンをシャーマンとして交霊術で確認すると、必然的に少なくても私の力量では「唯一にして絶対なる神」という看板で売り出している人格神として認知される。 看板に問題がある模様で、拍子抜けだ。 歴史時代に西洋の信仰を支えたのは「キリストなる聖霊の宿り」をもたらす天啓を運ぶ存在で、それはイエスの聖霊ではなく、ローマの聖霊なんだ。 そして「唯一にして絶対なる神」とは初動観測では、キリスト教に語られない「ローマの主神」である人格神だよ。 さて以上が皆様に相談したい私の病気です。 暖かく慰めたり、励ましのお言葉を期待します。
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- 書き損じた原稿の問題点を添削してください。
下記テキストは個人的な哲学研究ノートをアマゾンかどこかで電子出版するつもりで書いた廃棄原稿です。 3回目の試作品です。 何か突っ込みをお願いします。 ちなみに5枚のテキストがあり、冒頭の1枚以外は補足欄で追加します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1章「自我とは何か 無我とは何か」 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば大先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人は他者と共感したり、心を通わせることができる。 その明白な各個人の体験を論理的に裏付けるための、過去の仮説が自我論だ。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 書物からも、他者の言質に大きな感銘を掻き立て、自己の規範として取り入れる。それが教えを受けることだ。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 無欲という美徳は、望みが確固とした自己の望みであり欲望ではないことだ。 多くの場合に、人は欲望の犯す過ちを警戒するあまりに、自らの望みすらかき消そうとする。 内面において、自己の核質たる自我と別に構成する人格の全容は社会性ある人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは一人で生きていない巖然たる事実の前に避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 この自我論は、論理的たたき台としての「自我仮説」同然だ。 その学説はいわば「人間玉ねぎ論」だ。 人格を総括したのが、仏教でいう本来の我のことを指す。 その自己から、玉ねぎの皮を一つ剥がすと、自我になる。 もう一つ剥がすと霊になる。 さらに剥がすと神になる。 おおむねこのような想定から生まれた学問上の研究手法であり、論理だ。 これは同じ時代に世界について考察した「原子論」と同一だ。 どんどん分割していくと、世界の最小単位に到達する。 そちらは、はるか後世に証明されて、現代の物理学が成立している。 原子論は、おそらく世界を研究するために編み出された。 世の中に対して、自覚や理解に到達する事が命題であり、古来から宗教では、その宗教の世界観として扱われた命題から派生した研究課題である。 しかし物理学は、細分化では成果を上げたが、伝統的な世界観は、宇宙にまで拡散しさらなるなぞへの挑戦が始まっている。 いわば古代の原子論などの分割型学説は、原子の発見には貢献しても、本来の目的である世界観については解明していないのだ。 本来の命題の意義である世界観の確立は宇宙への探求で結論は遠のいたという印象があるが、それは錯誤であり、紀元前の世界観は徒歩で旅行できる範囲の地理的な探求だった、その範囲は現在完全に踏査されて地球上の多くの地理的特徴は全容が理解されている。 過去の世界観の命題に関していえば、もはやいったん完成して、宇宙観という命題は過去に想像できなかった新たな命題だと切り分けて判断したほうがいいだろう。 そうすると、歴史上の人類の宿題はいったん片づけたからこその研究だと理解できる。 同時期に同様の手法の仮説的予言である自我論も、結論することに同様の危惧があり、自己の精神を自覚する場合には、人格についての自覚についてだ、したがって人間玉ねぎ論の研究は、総括的な自己の自覚と研究するほどかけ離れていく類の専門家向け学問の探求なのだ。 世界観と並列して命題化された自我仮説では、人格をいったん解体するという仏陀の修行が必要だ。 そして人間を玉ねぎ化して探求することは、掘り下げるほど自己の核心を深めると同時に分割化するほど総体としての自己の社会基盤への理解からかけ離れる性質があり、一般的に需要のある自己の存在についての学問とはかけ離れていく。 原子論の成果は宇宙論まで拡大するとまだ成果の途上だ。 自我とは、解明してもそれで自己の存在が確立するとは限らない。 むしろ自覚した自我を中心に自己の社会性を再編成して、それにより人格を再構成する手続きが必要になる。 人と人がお互いに理解しあえてこそ、人間としての自己を理解したことになる。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格を取り払い、自己の本質を見極めよという宗教的な命題なのだ。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我の流布の前に、それを仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調なのだ。 ところが現代では、無我イコール自我が無いという定説にすり替わり、その重大な錯誤から発展した迷走から、仏典編纂時期には命題と宗教活動が、「無」という教えが形骸化していた。 そして、仏教徒が「無」の代わりに命題としたのが「空」である。 これは仏典が書物として編纂される時期には進行していた変節で、したがって仏典とは末法に編纂され、形骸化していた「無の悟り」に関しては、伝承された事実について、片鱗が記述されるのみである。
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お礼
早速有難う御座います。 何かこういう状況をみてくると、一生懸命やっている方にはたいへん申し訳ないのですが、歴史や残っていくものは 1. 政治などでは何か、衆愚政治は斥けられないのかなとか 2. 人気や評判って、いつでも大きな力だけれども、大事なものが落ちていっているのかな。私達はおちていったものにどうしたら、出会えるのかな とかを長く考えてきているのですが。
補足
1. 小泉政権や民主党のこともそうかも知れませんが、寧ろいまの私達の考えや歴史をつくってきているものではどうでしょうか? 2. 自分自身としては、人の観念や意識って、所詮紡ぎ作業に終始していると惟うのです。 だから歴史学って、自然科学のように又は、経済学のようには事実性が非常に恣意的に近いといっては、ご叱責とご反発を戴くことになりましょうか。つまり御用学者とか、政権の正史編纂ばかりではなく。 そうともいえるものではない、という研究上の制約というものがあるものでしょうか?