ここまで条件が揃っていながら植民地化されなかった史実を考える

このQ&Aのポイント
  • なぜ日本は列強の植民地にならなかったのか、その理由を探ってみました。
  • 要因として、英国の戦略上の利益、火力の差、幕府の政策転換、日本の資源、そして幕府倒壊と明治維新のタイミングが挙げられます。
  • これらの要素が組み合わさった結果、日本は植民地化を免れたのかもしれません。
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ここまで条件が揃っていながら植民地化されなかった史実をどう考えたらよいのか。

過去、この歴史カテゴリーで何度も繰り返された質問に、日本はなぜ列強の植民地にならなかったのか、というのがあります。 私見ですが、植民地化される条件としては揃い過ぎている気がします。それは下記の通りです。ですのでならなかった方が不思議なくらいです。ここまで条件が揃っていながら植民地にならなかった史実を一体どう考えたらよいのでしょうか、教えて下さい。 (1) 英国はロシアの南下政策を食い止めるために極東に橋頭堡を築く必要があったのではないか。英国は香港を得たがそれより北の日本の港の方が地政学的にはより有利なのではないか。事実クリミア戦争はトルコでの不凍港を求めるロシアとそれを阻止する英国等との衝突だった。この戦争にかまけていたので極東には進出しなかったという説には疑問を感ずる。むしろ敵の背後を突く作戦もあったのでは。 (2) アヘン戦争やアロー号戦争で鉄製蒸気機関船やアームストロング砲等圧倒的な火力を有していた英国東洋艦隊をもってすれば、清よりも当時の日本を相手とする方が簡単だったのでは。薩英戦争や下関戦争では列強側の勝利に終っているし、薩英戦争ではもしフランスの仲介がなければ日本は間違いなく英国の植民地になっていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89 (3) 異国船打払令を出していた幕府は、アヘン戦争での清の敗戦の結果、天保13年には薪水給与令を出し、コロッと方針転換した。さらにその11年後の黒船来航により翌年には開国した。鎖国などあってなきに等しい。またこれが捕鯨基地目的の米国船でなく、英国東洋艦隊だったらどうだっただろうか。 (4) 当時、日本は主に金を産出する資源国であり、英国が清の銀を狙ったのと同様、列強が日本の金を狙っていたとしても不思議はない。 (5)薩長を英国が、幕府を仏がバックアップしていたが、幕府倒壊と明治維新が早く片付いてしまったから列強が付け入る隙がなかったという説には疑問を感ずる。むしろ自分達の援助のおかげなのだから領土や港をよこせ、といいがかりを付けてきても不思議でない。アヘン戦争は、自国の密貿易という犯罪を相手国が認めないといいがかりをつけ、挙句の果てに起した戦争なのだから、列強にしてみればどんな口実でもよかったのでは。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • teccrt
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回答No.12

まだ回答を受け付けている様子ですので、コメントさせていただきます。 (1)日本が極東の一番東に位置したことが幸いしたのではないでしょうか?つまり、英国にとってロシアの南下政策を食い止める必要があったとはいえ、バルカン半島、黒海、イラン、インド亜大陸、中国、沿海州と並べた場合、ロシアにとっては首都に近い西側に不凍港を持ちたく、また英国の自国の利権を守る観点でも、西側に持たれることの方が悪影響が大きかったので、極東はお互いに優先順位が低かったはずです。日本にとっては、地理的な要因で近代国家に生まれ変わる時間的猶予が与えられた格好になったのではないでしょうか。 (2)火力・戦力について言えば、経済的な観点から言って割に合わなかったということではないでしょうか。1回の戦闘に圧勝しても、その後放置していれば相手は反撃のための準備をしますから、それができないよう、一定の兵力を現地か近くに常駐させる必要があります。兵力はその食事・給与、武器や戦艦はそのメンテナンスやメンテナンスを行う港の整備など、兵力維持のために必要な経費は馬鹿になりません。イギリスにとっては、アヘンの密貿易で確たる収益を上げていた中国はその経費をかけてでも維持すべき地域だったのでしょうが、日本からはそれだけの収益を上げておらず、兵力を常駐させる経済的価値がないと判断されたので、懲らしめ程度の戦闘で済んだのではないでしょうか? (3)については、仮定の話なので答えにくいですが、(1)の地理的要因と(2)の経済的要因でイギリスにとっては艦隊を派遣して脅迫することはできても、植民地化するほど優先順位の高い地域ではなかったということなのだと思います。艦砲射撃で一方的な戦いは出来ても、それだけでは幕府および諸藩の占領はできません。(4)についても同様です。金の魅力と、その権益を得て維持し続ける(対日本と、対他欧米列強という2点において)ためにかかる兵力維持費用を天秤にかけて、割に合わないという判断だったのでしょう。 (5)については質問者様と意見が相違します。僕としては、「日本の国力(人材・技術力・経済力・情報収集&分析力)が(意外にも)強かったために、欧米の理不尽な要求に対して不平等条約下でも植民地化されなかった」と思っていますが、戊辰戦争における幕府と新政府における消耗が少なくすんだことも、国力維持に大きく貢献したと思います。 また、日本対イギリスという1対1の関係だけでは厳しかったでしょうが、欧米同士で牽制し合っていた状況も無視できません。薩長に肩入れしたイギリスがもし領土割譲などの理不尽な要求をした場合、新政府はフランスやアメリカやロシアに、「武器調達などのイギリスとの取引を止めてあなたと取引してあげるから、イギリスの横暴に対抗してくれ。」と持ちかけることもできたでしょう。アヘン戦争について詳しくは分かりませんが、あんな言いがかりをつけても他の欧米列強が直接介入をしてこないという裏を取った上での行動だったと思います。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。非常に理路整然としたご説明で、お蔭様でだんだん分かってきました。 疑問点が2つあります。まず、(2)で、回答者様のおっしゃる「懲らしめ程度の戦闘で済んだ」との点です。回答者様は私が質問文に掲げておいた、Wikipediaの薩英戦争のページはお読みになられましたでしょうか?確かに現実には薩英戦争は回答者様のおっしゃる通り「懲らしめ程度の戦闘」で終結したわけですが、そこに記されている英国側の軍事戦略(但し実行は断念)を読む限りにおいて、英国はまさに「本気で」戦闘をすることも考えていたようです。すなわち、関門海峡、大坂湾、江戸湾の封鎖による日本の海上封鎖と、京都、大坂、江戸占領計画があったということです。もっとも最後にある、天皇や将軍を別の場所に移してゲリラ戦になることを想定して断念したという記述は、私にはあまり説得力がないように感じますが、それはさて置き、懲らしめ程度の戦闘で終結したのはあくまでも結果論であって、薩英戦争や、さらに詳しく言うならばその契機となった生麦事件や東禅寺襲撃事件を契機として本格的な日英戦争の勃発とその結果としての植民地支配という可能性はゼロとは言い難かったのではないでしょうか。 次に、(5)で「日本の国力……が…強かった」と回答者様はおっしゃっていますが、果たしてそうであったかは疑問です。ご存知の様に当時は尊皇攘夷派と開国派で国論が二分されていました。もし日本国民全員が、あるいは少なくとも政治支配階層である武士・貴族の全員が海外の情勢に精通していたならば、例えば全員が勝海舟並の知識を有していたならば、少なくとも攘夷などという無茶な考え方は出なかったのでは、というのが私の考えです。井伊直弼も桜田門外の変で暗殺されることなどなかったでしょう。例えば孝明天皇は攘夷派でしたが、それは異国人とはどのような人種かというご下問に対し、側近が、娘の生き血を飲む(実際はワインを飲むことなのですが)人間でございますと答えたのを真に受けていたためだと言われています。当時は一握りの人間に情報が偏在していていたとしか考えられません。 (字数制限の関係でこの欄に書ききれませんでしたので、補足欄に続きを書きました。)

se_tutoie
質問者

補足

この様な状況下では、仮に正確な情報が存在していたとしても的確な情報分析が行えたかどうかは疑問ですし、少なくとも組織の末端に至るまで、外交上の重要な意思決定とそのプロセスが正確に伝達されていたとは言い難い状況にあったのではないでしょうか。

その他の回答 (12)

  • hakusyon1
  • ベストアンサー率43% (55/126)
回答No.2

 植民地化されなかった理由はひとつではなく色んなことが重なってならなかったんだと思われます。 つまり質問者様がおっしゃられるように、植民地される条件は揃いすぎているとしても、同じように植民地化されなかった条件も揃いすぎているのではないでしょうか?植民地化されるための条件を捨て去って、一度クリーンな頭で植民地化されなかった条件の方を考えてみてはどうでしょう。結果としては、植民地化されなかったわけですから、そちらのほうを一度考えてみれば、今まで見えなかったことが分かるかと思いますよ。  個人的なことを言えば、恐らくは日本のような島国よりも国土のでかい清の魅力的で、そちらのほうでの利権争いにある程度めどをたてたかったということも一因かなぁという気もしないではないです。  >1 クリミア戦争で日本にやってくるのが遅れたというのはあるやもしれません。かまけていたのでこなかったわけでないと私も思います。  >2 先にもチラッと述べましたが、私の思うところでは、日本など清の付録程度だったんだと思います。付録とは言え、利害関係があるでしょうから。。。間違いなく英国の植民地になっていたかもしれませんが、ならなかったのは他国との利害関係の上でそうはならなかったのでは?質問者様の言われるフランスとか。。。  >3 「鎖国などあってなきに等しい」ということと、植民地化とどう関係があるのか理解できませんでしたが、鎖国体制がほころびをみせていた時期ですよね?鎖国体制と幕府が揺らぎが見え始め、右往左往してた時期だと理解しているのですが。。。また英国東洋艦隊は来なかったわけで、米国船だったわけですから、植民地化される条件としては薄くないでしょうか?  >4 狙っていたかもしれないとは思います。  >5 なんだかんだ言っても、戦争を避け戦争よりも前に日米和親条約を締結して開国したという要因はないでしょうか?それにならって他国も条約を結ぶわけですよね?仮に一年後に再来日したペリーに砲撃でもして、形だけの鎖国体制であったとしてもそれを続けようとしたのなら話は変わってくるかと思いますが。。。あと個人的には天皇制の存在もあるかと思います。政治権力の道具とされたりした時期もあったやもしれませんが、政権が変わっても天皇制は変わらないという土壌が少なからず要因としてあるような気もします。  いずれにせよ、植民地されなかった史実の考え方は、質問者様がよく分かっていることだと思われますので、もう一度考えを整理して反対側の視点で考えてみるとよいと思います。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 国土の大小と植民地としての魅力度の相関関係はそれほど大きくはないと思われます。豪州もニュージーランドもともに英国領でしたが、回答者様のロジックでいけば資源国で国土もでかい豪州を取れば、ちっぽけなニュージーランドは植民地にしなくてもよくはなりませんか。 それと確かに英国東洋艦隊は来なかったわけですが、その理由が分かればこの疑問も解消される気がします。清国からわが国までそう遠くはないですし、例えばアヘン戦争を片付けてその足で日本にやってくるとかいうことも可能だったのではないでしょうか。 日本の天皇制を侮辱するつもりはありませんが、清朝にもちゃんと皇帝はいましたから、あまり関係ないのではないでしょうか。例えば、強引に天皇を退位させるとか、あるいは後年、日本が満州で行ったような傀儡政権にしてしまうとか、方法はいくらでもあるような気がします。

  • Barmin01
  • ベストアンサー率31% (101/320)
回答No.1

どう考えても史実はかわりませんが、何かしらの理由はあるはずです。 一番有力だと思うのは、日本の侍が恐ろしかっただと思います。 ペリーの来航当時は植民地にする気でいっぱいだったと思いますが、植民地にするには上陸する必要があります。白兵戦で侍と戦闘を行うのが恐ろしいので、懐柔策をとっていたのだと思います。その後は日本も軍事力を備え始めたので、倒しきれなかったんだと思います。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 その種の回答は以前も見かけました。ただ、新渡戸稲造の『武士道』が欧米諸国に紹介されたのは明治になってからですし、本当武士の怖さがそこまで伝わっていたかどうか。それともう1点、わが国に武士道あればかの国には騎士道もありますし、仮に武士との白兵戦となっても、列強の持つ射程距離の長い銃を用いれば勝算はあると考えていたとしても不思議ではありません。いわば長篠の合戦での、武田方=日本、織田・徳川方=列強と考えてみたらどうでしょう。 清国(中国)と異なり日本は島国ですので海岸線が長く、まず鉄製蒸気機関船で包囲した上でアームストロング砲が火を噴けば、射程距離の短い当時の日本の大砲では応戦し切れなかったと思います。

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