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ズバッと行くやり取り

このコミュニティでもよく感じることなのですが、ある質問に対して、極端に言えば(yes or no)の解答が正しいような場合でも、いろいろ尾ひれを付けて、肝心の質問からずれまくった展開になるような回答をよく見かけます。一般社会にも非常に多くようです。そういうのっていうのは、肝心の「的」を得た受け答えというのは、非常に少ない。 こういう一般風潮は、いいことなんでしょうか悪いことなんでしょうか?そこにはどういう心理的傾向が潜んでいるのでしょうか? 私が思うに、国語力の低下、保身、相手との距離感をつめない、誠意がない、かっこつけたいなど感じます。もし、ストレートに「的」ばかり射っていたら、神経おかしくなるでしょうか。もし全社会的に「的」を得る社会になれば(人間の脳構造でも変わらない限り無理かもしれませんが)どうでしょうか?

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noname#80116
noname#80116
回答No.12

★こういう一般風潮は、いいことなんでしょうか悪いことなんでしょうか?そこにはどういう心理的傾向が潜んでいるのでしょうか? ――明らかに 悪いことです。ただ 無効の考えや行ないが 一般的に優勢となり有力となっている情況では この悪いことが 普通であるように受け取られてしまいがちですし 悪いとは見なされなくなってさえいるものと思います。 ひとことで その原因は 《魂が そもそも 弱い》ことにあります。  この場合の《魂》とは 感受性と言うとよいと思います。感性一般が すでに 鈍くなっているという意味です。  これが 《心理的傾向》でもあるのですが 要するに 心の志向性が 真直ぐではなくなっているという意味です。それは 止むを得ずのものであっても うそをつくことが 原因です。ひとつ嘘をつけば 素直な心の伸びが 曲がります。そして 魂が弱くなっていきます。 ★《国語力の低下、保身、相手との距離感をつめない、誠意がない、かっこつけたいなど》 ――この中では 《保身 / 誠意がない / かっこつけたい》が原因であり結果であると考えます。さらにひとつの筋として挙げるとすれば 《魂の弱る》につれて 《虚勢》をつける必要に迫られるということではないかと考えます。つまり《かっこつけたい》が いちばんではないでしょうか。 原因が納得のうちに受け容れられ 人びとが 考え直すならば 少しづつ 変わっていくのではないでしょうか。 あと 《ズバッと行くやり取り》とは 黒白をつけることとは別です。黒白をつける必要がないというずばりの回答がありえますから。  また 質問じたいには現われていない周辺の事情や その人の意識情況などなどについて 考慮すべきだということも それが 《ずばり》の回答そのものであると考えるべきです。  そのような質問者の内面にまで立ち入っていいのかが 問題であるなら そのこと自体について説明することが すばり回答の内容となります。   ですから 《肝心の質問》は どこまでも《肝心の質問》でありつづけます。《肝心》をはづさないこと また はづすのなら その理由を明らかにすること こういうずばり回答が 望ましいでしょう。

garcon2000
質問者

お礼

「ありがとうございます。 私もご主張の点を危惧するものです。 そして、こういう種類の人間たちが増えていくとか、育ちつつあるとか、量産される社会はどんなにいやだろうなあと。 白黒付けない回答さえ、ズバリを貫くべきであるということも、全く賛同いたします。私は底まではと思っていたのですが、やはり同質の問題ですね。 ズバリが何かと理由を付けて忌避される理由は、「ズバリ」魂の弱さにあったのです!

その他の回答 (15)

noname#50219
noname#50219
回答No.16

天文学者の件では、子供が何を答えてほしかったのか、恒星の今の姿は見ることはできないのか。と言う質問に、見えません。と答えることは科学的意見としてはきっぱりとして正しいと思います。しかし、子供心に答えたことになるかはわかりません。見えるかもしれないと言うことと、見えないと言うことと、どちらがよかったのかはわかりません。もっとほかに、相応しい答えがあったのかもしれません。 私ならば、あなたは見たいと思いますか?と、尋ね返したかもしれません。この子が、質問を通して、どのような答えを見つけたいのか、その手助けをしてあげたいからです。 知りたいことにはっきり答えるのがよいときもあろうかと思います。しかし本当には、彼の知りたいことと言うのは、彼自身に納得されねばならないことであり、その人自身が本当に納得するためには、その人自身によって答えが見出されるのが、最もよい形だと思うのです。ですので、私は、彼が、彼のためにあるような、ぴったりの答えを見つけれるようにしていたいと思うのです。

garcon2000
質問者

お礼

この子供の質問が、私の当時の疑問とぴったり一致していまして、遠くの恒星の「今」の姿(というか光)が本当に見えないのか?まぁ理屈ではそうなんだろうが、「今」が見えないなんてことがあるのか!?という、非常な興味関心があったので、あ、こいつも!と思ったんですね。だから、「見えるかもしれない見えないかもしれない、宇宙は広いし高速は有限なんだかんだ・・・」と続けられて時間とられて、果ては答えがあったのかどうかわからないというのは、一番やめてほしいことだったんですね。なので、回答者さんの感性ではそう思うが、その子にとってはどうかというのが確定しようがない。 なので、とりあえず、「的」を射抜いてやることが大事なのではと感じるんです。

noname#80116
noname#80116
回答No.15

BRAVO !! garcon2000-san !! はしゃいで すみません。

noname#80116
noname#80116
回答No.14

緩急を使い分けるのは ズバッと行くやり取りです。 勝負事として ものを言うことは ズバッと行くやり取りではありません。その口調などが ズバッとしているように見えるかも知れませんが 答えがズバッと行っているかどうかは 別です。

garcon2000
質問者

お礼

スタイルの問題もあるのでしょうが、本質的には「ズバリ」が基本だということを大事にした方がよいのではないかと。 たしかに、ご指摘の点は考慮するべきですね。

noname#50219
noname#50219
回答No.13

誰とキャッチボールするかによって、投げる球は変わって当然だと思います。子供とキャッチボール(つまり会話)をするなら、それ相応のボールコントロールをします。こともはボールの投げ方を知りませんが、誰に向かって投げるのかは知っています。そのボールがてんで外れた所に飛んでいったとしても、誰もそれを咎めません。巧く受け取れなくても、同じように、それを咎める人など居ないでしょう。ですので、子供は繰り返し、巧くボールが投げられるようになるように、納得できるまでキャッチボールを続けられます。その結果、きっと巧く、相手にボールが渡るようになることだと思います。この場合、剛速球である必要はないでしょう。 このような場合のコミュニケーションでは、相手を圧倒するような剛速球も、それを弾き飛ばすようなホームランも、別にいりません。 もし剛速球や、強打が必要なコミュニケーションがあるというならば、それは闘争心、闘争を愉しむ心から来ているといっていいと思います。 剛速球を受けれないというのは、そもそも普通であり、そんなことができるのは、よほど、プロ並みに、ボール遊びに精通している人たちぐらいです。そのようなことを楽しむならば、それはそれで否定はされないけれど、その剛速球を、誰しもに受け取れというのは無理を強いています。普通のことばで、十分に人は、満足できると思います。特別な競争心を抱かなければ。 ただ、人が投げかけたことばの本当を聞かず、的を外したということだけを、もしくは受け取れなかったことだけを見て、その人を非難するとするならば、キャッチボールは楽しくないものになると思います。 相手に向かって投げたことばが、巧く伝わらなかったり、相手の投げかけたことばを巧く受け取れ無かったりしたことを、咎のあることばで否定されるとどうでしょうか。誰でも、もうあの人と(ほんとはしたいのだけれど)キャッチボールはもうやめようかなと、思ってもおかしくないのではないでしょうか。 キャッチボールの本来の目的は、自分の本心がひとに伝わることであり、ひとの本心を受け取ることであるのだから、ことばのコミュニケーションにおいて、ひとを思いやったことば、やさしいことばを用いるのは、自然なことです。 (もし単に、最強の剛速球で相手を打ち負かしたい、と思うのであれば、それはただの闘争心から来るものであり、相手のことを思いやった故の事ではないでしょう。) 人のことば、本心を知ると言うのは、そういうことではないでしょうか。 普通の意味で、上手にキャッチボールをする人と、名勝負を展開するプロ選手との違いは、そのしていることが、勝負事か、そうでないかの違いなのだと思います。そして、やはり勝負事の果て、究極においては、人は勝敗を超えた何かを手にすることは間違いないと思います。それは、正真正銘、真正面からの真剣勝負が、けして相手を傷つけることを目的としたものでなく、自分の精一杯の渾身のものを、相手を無条件に信じて投げきる、そしてそれに、真っ向から立ち向かうことで、誠を果たす、その時に得られる究極の味わいは、日常で、普通の人がされるキャッチボールで得られるそれと、何も変わらないように私は思います。それは、相手が、自分の全てを、受け止めてくれる、自分も、相手の全てを受け止める、その自信と、信頼とを確立することであると、私はおもいます。 言葉がつたなくとも(ボールがよたよたでも)、伝わりたいと言う心は、本物だと私は思います。 誤解が一杯あったとしても、人を解ろうとする心は、本物だと思います。

garcon2000
質問者

お礼

長文ご回答、ありがとうござます。 ご回答を読んで、かなり「精神論」的アプローチをされていると思いました。 それ自体は大事な方法であるのですが、平行して「技術論」も結構重要なのではないかと思っているしだいです。 つまり、要るか要らないかわからないような詮索とか配慮とかすること字体はいいことでしょう。しかし、それによって肝心の議論の要点とか、疑問の要点がぼけてしまう。人間せいぜい集中できる時間って限られているわけで、なにか空疎な会議のように焦点が拡散してしまっては、全くの時間浪費に終わってしまうこともありえる(天文台職員がいい例だと思う)そこで、とりあえず、相手が誰であろうと、その質問とか議論の「的」をまず射る。そこからはじめたらいいんじゃないかということです。それが、相手を混乱させたり傷つけるということは、また余計な配慮ではないだろうかと(もちろん受け止めるのにかなり心的エネルギーを要することとかはおいておいてです) ご回答者様のように、真摯に議論されようという姿勢の方ばかりならいいのですが、中には方便のために議論をはぐらかすという手法で的をはずすのだという姿勢も大いにあるので、その区別を付けるのが難しいことだと思うのです。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.11

間違ってたらすいません。ご質問者様はとかく明確な回答を欲しているのではないのかなあと漠然と思ったのです。「黒か白か」というような決定的に二分する回答を欲しているのな気がするのですが。私の性格もそうなんですけれど最近「グレーの部分」の真実というのもすんなり受け止めてくれました。もう生か死かくらいの勢いで二項対立の一方を求めなければ気がすまなかったんですね。 >肝心の「的」を得た受け答えというのは、非常に少ない あるテーマに対して具体的で高尚な回答を求めるにはやはり専門家の意見に求めた方がよいと思うんですよね。でも専門家以上に素晴らしい回答もたくさんありますよね。私も周りに人が、特に哲学者などいないので、特に哲学カテゴリではもう感服するばかりです。 回答というのは人生そのものでしょう。その人の精神とか魂のレベルに準拠した回答を求め続けるの過程が人生。でも回答は自分で出さなければならない。 >ズバッと行くやり取り ズバッは気持ちいいかもしれないけれど、納得してもやっぱりご質問者様も探究心が旺盛だと思いますのでそれ以上にそこが着火点になってまた探求したくなるのでは?と思います。 私もこのコミュは3年くらい利用しているのですが自他共に「ああ自己満足やってんな~」と思います。でもそこがバーチャルな空間である以上彼らの回答について無責任であることを責められないんですよね。 ここはマナーについては厳しいので信用できて利用しやすいんですけれど品にこだわる一方でその枠組みがある意味小さいんですよね。ケンカや議論やるとすぐに削除、つまり検問というやつですよね(これもサイトの悪口であって即削除対象という(笑))。 人は皆他人の不幸をみて自分の仕合せを確認したがるのは人情ですから、回答して「がんばってください」と言いながらほっとしているかもしれない。もちろん、私もたがわず、自分と同じ問題である他人の質問に寄せられるよい回答を読んで自分が励まされたり、分からなかった答えが見つかったりすることもある。たかがネット、されどネットだと思います。だから自己満足の世界なんです。私は何かひとつのテーマについて考えるとき、相対的なものがあればレスポンスもあるから刺激になってさらに考えることのきっかけになる、と捉えてます。私にとってここは動くノートというか。 >いろいろ尾ひれを付けて、肝心の質問からずれまくった展開になるような回答をよく見かけます。 ここは作文や論文発表の場じゃありません。たとえば「てにをは」がなってない怒っているいう人もいますけれどそれと同じようなことです。だって素人であることはサイトがすでに許している。 たとえば改行しないことを指摘する人もいます。確かに読みづらいですよ。でもそれが「モテない悩み」とどう直結するのか分からない。上で述べたような差別するツールに使われているかもしれない。それは「国語」カテゴリでする回答が妥当じゃないですか。そういうときってやっぱりネットって人のウラが見えるなと思う。ペルソナを被ってない分匿名性を被ることによって。 参考程度に利用すればいいんじゃないですか。でもその中で人生を変えるような回答もあるかもしれない。実際死ぬ思いで投稿する人もいるでしょう。そういうリアリティがバーチャルを超えて、たとえば「今週妻が浮気します」という本なりドラマに変化して一般化される。そしてさらにある種の夢(バーチャル)を見せてくれる。それでよいのではないかと。 >いろいろ尾ひれを付けて、肝心の質問からずれまくった展開になるような回答をよく見かけます。 こうした心理もちょっと近いかなと。つまり指摘です。 自分の問題を「住人」に投影してしまうこと。いちばんヤバイです。サイトが批判を徹底して禁止しているのはあながちそれを阻止するためでもあるかもしれません。現実のその人の弱点がモロに反映されてしまいます。そうすると見えない相手(バーチャル)と独り相撲をとっていくことになり、結局傷つく。それが生の自分が反映されていることに気づけばいいのですがハマってしまっている人は、気づきすら恐れてさらにここに復讐しにくるという悪循環に陥っているんです。 難しく考えないで参考を濾過してご自分のオリジナリティに化学変化させればよいと思います。

garcon2000
質問者

お礼

長文ご回答、ありがとうございます。 ご回答の趣旨の「玉虫色」「グレー」をもっと寛容にということなんですが、それ自体は賛同します。ただ、時と場合によってで、それを適用しない場合の方がはるかに多いのではないかと思うわけです。その方法論を拡大しすぎ、あまりにも散逸の方向に逃げている議論が多すぎないだろうかと。 もちろん、世間一般の風潮について質問したんで、このサイトのことに限るつもりはないのですが。 つまり、参加姿勢がなっていない。もちろんエゴやリラクゼーションに利用するネットですが、それは度が過ぎる。あまりにも散逸になるよりも、なんとか人の流れに沿うべきなんではないかと。精神構造があまりにも孤立してるのではないかという気がするのです。 ズバッというくということは、それで綺麗に完結し、新たな行動に移るのに、心残りがないという平静な状態です。しかし、また玉虫色の回答から深みにはまるというのは、非生産の方が多いのではないだろうかと。もちろん、枝葉から何かつかむことはあります。しかし、それはラーメン屋に入ったらカツどんが出てきたが結構上手かったのでカツどんの通になってきたというようなものです。 つまり、質問者の質問自体が稚拙でも、それにあわすべきだ、付き合うべきだという考えです。 >たかがネット、されどネットだと思います。 人情は大いに現実的な事象ですが、勤めて拡散しないことがそっち方面にもいい影響を与えるのではないだろうか? 自己満足の世界としても。 極論すれば、いかに悪文でも、質問者の質問(それがアホなものでも)の的を得ているものならば、いかに名文で質問を悪意であるいは作為ではぐらかしているものよりも、よっぽどいい点を上げたい。 あらを探して、国語がなっていないというのは、まさに「心が成っていない」証拠ではないかと共感します。 つまり、最後の段のご主張も含めて、この「教えて」や一般の議論は、分を守って理性を守って参加すべきだと感じます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.10

人はなぜ質問をするのか、ということに留意してみれば、必ずしもズバッが最良の回答形態とばかりは言えないかもしれません。 質問とは、ある事象などに関して理解を拡げたいという願望でしょうが、その質問の前提となっている思考がどのようなものであるのか、と回答する側が気になることもあるでしょう。 つまり、この「前提」を斟酌して(立ち入って)回答しようとする。 この場合、質問者自身が予め自らの質問内容に対して十分な検討や練り込みを行なっている場合には、「要らぬことはいいから要点だけ答えてくれ」という心境になるはずです。 しかし、「質問した前提自体について自分でも再検討したほうが良いのかもしれない」と質問者自身が考えるきっかけになる場合もあるように思われます。 ズバッと回答した場合、その回答によって質問者は一応納得はするでしょう。 ただ、その納得から(回答者の意図している)本質が導き出されるだろうか、という懸念が(回答者に)生じる場合、スバッと答えることを躊躇する。 そして、まず、質問に対する前提部分を埋めようと尽力(あるいは余計なお世話)をすることになる。 この質問者に対する懸念が不要のものである場合は、質問者に対しての非礼にも当たりますから、当然質問者は面白くない。 しかし、この懸念が的中している場合には、質問者にとって必ずしも無駄な尾ひれとばかりは言えなくなる。 というようなことではないでしょうか。 かくして、状況や相手にかまわず安全策を取ろうとする人も出てくるわけですが、それはそれで為り余れる現象ということで、否定されるべき性質のものとは言えないように思います。 天文台職員が安全策を講じた理由としては、良いにしろ悪いにしろ小学生に対する配慮があったからで、ただ完結させる注意力に欠けていた、ということになると思います。 このへんは潔癖性と寛容性のバランスということになるのでしょう。 >全社会的に「的」を射る社会になれば・・・ :それはそれですっきりした社会になるかもしれませんが、「>ストレートに」的を射ることで解決できるような質問より出ない(必要としない)社会ということになるでしょうから、それがどうかという問題になってくるでしょう。 保身や不誠実、かっこつけ、もったいつけ、などの具としても使用される手法でしょうが、これは使う人間が卑しいというだけの話でしょう。 しかし、一概に否定するだけでは意味がありません。 こうした卑しさを強制するような仕組みが社会にあればこそで、そこをないがしろにしては語れない問題と言えるかもしれません。 少なくとも肯定することは本音としてあり得ないはずですが、生身の生との関係でどこまで現実化していけるか、ということになるのでしょう。 この回答も的を射るとまでいかずとも、せめてかすってくれてるといいのですが。  

garcon2000
質問者

お礼

すばらしいご回答、ありがとうございます。 私の質問への「配慮」と適度な拡散性、そして本質はきっちり抑えられている、これ以上はないご回答です。大変手ごたえがありました。 やはり、生の人間社会ですから、虚飾も配慮も必要でしょうし、用はまったくバランスのわけでしょうが、頭の回転とか誠実さの欠如あるいは、人生の重みで疲れたりして、つい本質をはずしても、特にこんな子供相手のような利害のない場合は、非常になおざりにしてそれでも由という風潮がまかり通っていて、そういう平均的な出来でよしということになってしまっている。 社会力学?的にそんな状況なのかもしれません。

noname#80116
noname#80116
回答No.9

No.7です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★本当はおかしいことがまかり通っているのではないだろうかと考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この現実から出発してください。 われわれは夜から歴史を始めます。闇であるという認識が まづスタートラインです。 その限りでは そもそも わけの分からない無効の考えや振る舞いが 既成事実として――なんらかの権力・権限の影響のもとに――有力となっています。ぎゃくに 有効の考えや行為が これら無効の有力の下に 無力となっています。 無効が有力であり 有効が無力です。 無力の有効を保ちつづけることが 哲学の徒です。時として この有効性が 現実となって日の目を見ることがありますよ。 有効でふつうの考えを述べると 無効であるのに有力となっている体制(《空気》?)の下に生活している人びとは 《怒り狂って》噛みついて来ます。このことをはじめに織りこんで われわれは発言せねばならないようです。 でもわたしは ずばりものを言うようにしていますが。 (現実を 蔑視し過ぎた発言内容になってしまいましたか?)

garcon2000
質問者

お礼

大変勇気の出るご回答、ありがとうございます。 とにかく、いいお言葉です。 >有効でふつうの考えを述べると 無効であるのに有力となっている体制(《空気》?)の下に生活している人びとは 《怒り狂って》噛みついて来ます。このことをはじめに織りこんで われわれは発言せねばならないようです ここなんて最高です!いやー生きるって怖いですよね。甘く考えすぎていたようです。

noname#50219
noname#50219
回答No.8

悩みがあるからだと思います。

garcon2000
質問者

補足

と、言いますと? やはり、心が弱っているんでしょうね。 剛速球はちょっと取れないよと。

noname#80116
noname#80116
回答No.7

次のような思索が残されています。参照しうるもののようです。 《的を射たこたえを出す人びと》のことを 《あなたがた》が指し示していると捉えてよいでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 真実がどのような労苦によって見出され 誤謬を避けるのがどれほど困難であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 敬虔な心の清澄さによって肉の幻想を征服するのがどんなに稀な 成し遂げがたいことであるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 内なる人間の目がその〔義の〕太陽を見ることができるように癒されるのが どれほどの困難を伴なうことか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 神についてほんのわづかでも知りうるようになるためには どれほどのため息とうめきが必要であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 同じ誤謬によって欺かれたことのない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 (アウグスティヌス:『基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論』2.2――『著作集・7』 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ でもわたしは ずばりものを言うようにしていますが。そうでなくっちゃ 《社会》とは言えないからです。

garcon2000
質問者

お礼

ズバッとものを言うというのは、かならずしも相手を傷つけることとは限らず、もちろんそういう状況もあるがそうでないこともはるかに多いわけで、恒星の例などその典型ではないかと。いろいろ虚飾に満ちた説明をしたいとか間を持たせたいとかかっこつけたいとか分けわかりませんが、誠実に人の求めに応じられるのに応じないという傲慢さこそ、ひとの「怒り狂い」を買うに等しい行為ではないかと。それがあまりにも世の中に少なくなっているので、ほとんどの人が麻痺している。本当はおかしいことがまかり通っているのではないだろうかと考えます。

noname#78143
noname#78143
回答No.6

日本語の構造として結論が曖昧になるのはよくあることです。 今に始まったことではありませんし、いちいち気になるような シュチュエーションがメディアなどで出会う機会が少なかった だけでしょう。 つまりあなたはフランス語でしゃべるように「はい」「いいえ」 の意思表示の答えをはやく聞きたいのでしょう? あなたがなぜなんだろう?と思ったりマイナスの印象をもつと いうことは、社会に悪影響を与えてるでしょうね。 あなたも社会の一員なんですから。

garcon2000
質問者

お礼

回答者さんの回答も、私の気分を害するということで、社会に悪影響を与えておりますね。私も社会に一員ですので。 日本語とかドイツ語の問題ではなく、相手の質問を把握してこたえる気があるのかという問題です。そのはぐらかしと不誠実はどう考えたらいいのかという質問意図さえわかってもらえませんでしたでしょうか? メディアでもこのように感じることがしょっちゅうあるので、いろいろ似た状況が思い出されるという感じです。

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