仏教の「空」と「諸法無我」の違いとは?

このQ&Aのポイント
  • 仏教の「空」と「諸法無我」には、微妙な違いがあります。般若心経で説かれている「空」は、この世は一つであり、全てのものが空であることを意味します。一方、法華経で説かれている「諸法無我」は、この世の法則や現象は互いに関係し合っており、一つのものが独立して存在しないことを表します。
  • 両者は逆説の関係にありますが、同じ真理を表現しているとも言えます。経典は異なるものですが、同じ真理を伝えるために言語化されたものです。また、「空」も「諸法無我」も、悟りから得た真理を人々に伝えるための表現であり、「方便」とも言われています。
  • 最終的に、仏教の教えは個人の考えや納得に委ねられます。どちらの概念を重要視するかは個人の自由ですが、仏教の教えを深く学び、自ら納得できるかどうかを見極めることが重要です。
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仏教:「空」と「諸法無我」の違いを教えて下さい。

気になって眠れません・・・ 般若心経で説かれている「空」 法華経で説かれている三法,四法印の内の「諸法無我」 両者に違いはあるのでしょうか? それとも同じものなのでしょうか? まだ法華経以外の経を学んでおりませんし 法華経自体も学んで日が浅い私の勝手な安易な解釈ですが 空・・・・・・この世は一つである 諸法無我・・・この世のものは繋がっている(関係し合っている) 両者は逆説の関係ではありますが同じでいいのです・・・・・ね? 経は違えどもともと同一人物にによって説かれたものですから 同じであって当たり前だと思うのですが どちらも真理であり真理で無いですよね? まず悟り真理というのを言語化でしている時点で 「空」も「諸法無我」も悟りから得た真理を人々に伝えるために言語化した表現、「方便」なのでしょうか? 結局は自ら考え自ら納得できるかが問題なのでしょうが・・・

noname#43773
noname#43773

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • eienn
  • ベストアンサー率16% (77/462)
回答No.1

同じでしょう。 この世の全ては、縁起により成り立つもので、本質は無に限りなく近い。だから絶え間なく変化するし(諸行無常)、それらに執着することは、苦しみを生むのです(一切皆苦、四苦八苦)。 ご明察の通り、言語表現には限界があります(釈尊自身がそうおっしゃっていますし、だからこそ釈尊は説法時に、言葉を慎重にお選びになりました。) 人から人への伝聞は、個人の理解力の差により、限界があるのです。 「その人のレベルでしか理解できない」と誰かが言っていました。 ようは、長い道のりということです。 悟りを開くものは、あと数千年現れないそうですし。(迷信?) 仏の道を絶え間なく精進すれば、今は理解できないことも、いつか理解できる日が訪れましょう。 駄文失礼。合掌。

noname#43773
質問者

お礼

そうですか同じですか。わかりました。 やはり言語表現には限界があるのですね。 なるほど釈迦自身もそうおっしゃっているのですか・・・ 私の疑問に答えてくれるeiennさんはもっと深い事をお考えなのでしょう。 私ももっと物事を深く考え本質を捉えられたらなと思います。 eiennさんありがとうございました。 非常に参考になりました。

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