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カロリング朝とローマ教皇について

jk7の回答

  • jk7
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回答No.3

・ピピン3世は何故ラヴェンナを教皇に寄進したのか? →ピピンは、もともとメロヴィング朝の臣下でしたが、クーデタで政権を握り、カロリング朝を開きましたよね。 これでフランク王国の宮廷や民心は動揺したわけです。 しかしこの時、後に呼ばれる西欧世界の精神的支柱であったローマ教皇が、「強い者こそ王たれ!」と言って、ピピンのクーデタを支持したのです。 ローマ教皇としては、西ローマ帝国滅亡以来不在となった、軍事的・政治的指導者を探し求めていたときですから、このようなコメントを発したわけです。 逆にピピンとしては、これでフランク王国における政権安定が約束されたわけですから、ローマ教皇に恩返ししたわけです。 それがラヴェンナ地方の寄進です。  当時ラヴェンナ地方は、ローマ教皇を悩ませていたロンバルド族の勢力範囲だったのです。 ・何故レオ3世はカール大帝に戴冠をしたのか? →上にも書いたとおり、当時のローマ教皇は、西ローマ皇帝にかわる新たな軍事的・政治的指導者を探していました。 なにしろ教会は、グレゴリー1世以来の布教活動によって、精神的指導者としての地位を確立していましたが、政治的・軍事的権力は全くありません。 かといって東ローマ皇帝に保護を頼むということは、当時教会の首位権をめぐって対立していた相手コンスタンティノープル教会の下につくことになってしまいます。 このような状況下、フランク王国ではクローヴィスのアタナシウス派(カトリック)への改宗、カール・マルテルによるイスラム勢力の侵攻阻止、ピピンのラヴェンナ地方寄進、カールの異民族の侵入阻止など、メロヴィング朝からカロリング朝にかけて、ローマ教会との関係を深めながら、後にいう西欧世界への領土拡大と安定を果たしたわけです。 そして気づいてみれば、フランク王国が東ローマ帝国に対抗できるほどの大勢力に成長していたわけです。 カールは、決して西ローマ皇帝になりたいとは思っていなかったのですが、ローマ教会にとっては、キリスト教の発展のために治安維持が必要不可欠であり、コンスタンティノープル教会との首位権争いに勝つために大きな政治的・軍事的権力者が必要でした。 そこでレオ3世は、クリスマスの日にカールを呼び出して、本人の意志とは関係なく、いきなり戴冠したのです。 ・西ローマ帝国は既に滅んでいるのに、どうして教皇がローマ皇帝権を与えることができるのか? →キリスト教の教会は、ヨーロッパ世界において唯一信仰を認められた宗教で、それを公認したのがローマ帝国です。 つまり、ローマ帝国が東西分裂する前から、ローマ帝国とキリスト教教会には緊密な関係があったわけです。 そしてカール戴冠の時は、別にフランク皇帝でも良かったのですが、当時の感覚で皇帝=ローマ皇帝(西ローマ皇帝)だったのです。

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