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第一次大戦の主要国動員数(師団数)

日露戦争時日本は17個師団のみ編成しましたが、10年後のヨーロッパ列強は100個師団くらい編成しているようです。どうしてこれほど差があるのでしょう。

noname#41852
noname#41852
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  • ベストアンサー
  • cdsdasds
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回答No.1

日露戦争時の日本は自国の防衛と遠征軍を組織したわけですが、自国の防衛に大きな兵力を必要としてしていたわけではなく、また、戦争の相手方のロシア本土での決戦は当初から想定していませんから、ロシアの、のちの満州地域駐屯部隊と戦える軍事力があればよかったわけです。 当時の日本は国力がヨーロッパ列強よりもかなり弱いですから、必要最低限の軍事力しか用意しなかったわけです。 それでも、停戦時には国家予算破たん寸前ですからこれでも頑張った方ということになります。 それに対して第一次世界大戦はヨーロッパ主要国の国土を奪い合う戦いで、海外領土での戦いもあるわけですから、どの国も戦争に投入できる精一杯の兵力を拠出することになります。 国力の差と本土決戦のため本気度が高いからということだと思います。

noname#41852
質問者

お礼

国力と本気度の差が出たということなんでしょうね。よくわかりました。

その他の回答 (2)

  • yakyutuku
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回答No.3

 どうしてもこうしても日本は国民を根こそぎ徴兵して、めいいっぱい師団を作ったわけじゃないからです。海を越えて敵地に侵攻するわけですから、必要な戦力、補給に見合った戦力を用意するだけです。ついでにいうと第二次大戦より前は、国民のうち徴兵されるのはごく一部です。イギリスだって徴兵制がはずされた時期もあるし、島国なんてそんなもんです。  また日露戦争は、どう制海権を取るかが第一ですので、日清戦争以来ひたすら海軍の拡張に明け暮れてから戦った戦争です。当時の政府が問題としていたのは師団の数より戦艦の数です。陸戦主体の第一次大戦と、海戦が主役となる日露戦争での比較は無理があると思います。

noname#41852
質問者

お礼

動因の姿勢が違うといえるんでしょうね。日本の人口も総少なくなかったわけですし。

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.2

基本的に知りべきことが二つあると思います。 まず師団規模は各国・各時代によってまちまちで 一定ではないので、 師団の数だけでは軍の規模を比較できません。 師団の人員は同じではありませんし、 師団の編成内容や、編成単位の違いもそれぞれの軍隊で 顕著にありますから、詳しく見ないと比較など不可能です。 次に、師団数が増えなくても、頻繁に兵員が補充されていた場合、 兵員の数は師団の定員の何倍の数にも及びます。 特に日露戦争がこれにあたり、師団が少なくても動員数は多いことは 普通ですから、これまた師団数による比較ができない理由になりますね。

noname#41852
質問者

お礼

いろいろ厳密に比較しないとだめなんでしょうね。日露戦争は現地調達要員が多かったのでしょうか。

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