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先験的とは?二種類の「先験的」について

Transzendentalの訳語には「超越論的」の他に【先験的】という訳語があり、アプリオリの訳語もまた『先験的』だと聞きます。この二つは別物のようですが、どのように違うのでしょうか? 私の理解では、Transzendentalの訳語の【先験的】というのは、世界の探求の仕方として「経験に先行して経験によらず解明する」ということであり、アプリオリの訳語の『先験的』というのは、世界に対する知識として「経験に先立ってすでに備わっている、知っている」ということ、つまり、かたや探究の方法、かたや知識の獲得された経緯、なのだと思うのですが、二つの「先験的」の違いは、これでよいのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#31811
noname#31811
回答No.9

お礼文ありがとうございます。 補足いただきましたが、後者のほうです。 坂部先生が仰っていますように事実問題ではなく権利問題を扱うということは、ーーより広く言えば活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定して構造を明らかにしようということでそれが先験的(超越論的)方法という意味です。

koumori44
質問者

お礼

こうやって質問することは、答えを聞くことはもちろん、質問を書くこと自体でも、相当勉強になっていいですね。重ねて御礼申し上げます。どうもありがとうございました。

koumori44
質問者

補足

>後者のほうです 後者といいますと、つまり、 「先験的方法」すなわち「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」 という風に、両者がすなわちの関係である、という事であり、だとすると 「広く言えば活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定する」 という事が超越論的方法で、その方法によって 「理性、認識の範囲と可能性を定めた」 という風に両者が別々であるわけ「ではない」のですね。 だとすると私の理解とはちょっと違いました。まあ、私はカントというより、一般的な言葉遣いとして先験的、超越論的、という言葉を考えていたので、そこの差かもしれません。もしくは「権利問題として」という私の言葉遣いが問題かもしれません。

その他の回答 (9)

回答No.10

#4~#6です。 そうですね。#8で引用してくださったように、 > > 「先験的(超越論的)な方法によって探求する > なんてことはひとことも言ってません。 と書いてはいけませんでした。大きな誤りがありました。 ご指摘ありがとうございました。 #6の回答で言いたかったのは、 > 「先験的(超越論的)な方法によって探求する、というのは、先天的(アプリオリ)な認識、事柄について探求する、という意味である」 という文章を見て、質問者氏が「先験的な方法」という「方法」を、あたかも実体的なもののようにとらえていらっしゃるのではないかという印象を受けたのです。 そこで、そうではないのだ、と。 「Aという方法によってBをあきらかにする」という論証の手続きを行うためには、まずAという前提が確実であることが求められる、ということが言いたかったのです。 もし、質問者氏が#9でおっしゃっておられるように 「活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定して構造を明らかにしようとする」 という意味で質問者氏が「先験的な方法」をとらえていらっしゃるのでしたら、 > 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 は何ら問題ではないと思います。 失礼しました。 そうしてご指摘くださいましてありがとうございました。 自分の理解の不備を見つけることができました。

koumori44
質問者

お礼

でも、とりあえず、ここまでですでにとても勉強になりました。私としては、二つの先験的という言葉についての疑問がかなりクリアになりました。お答えいただくことはもちろんのこと、質問すること自体もとても勉強になるという事を知りました。かさねてお礼申し上げます。どうもありがとうございました。

koumori44
質問者

補足

いえいえいえ、こちらこそ、本当にありがとうございます。 仰るように、 >「活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定して構造を明らかにしようとする」 という意味で「先験的(超越論的)な方法」という言葉を捉えれば、 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 は、問題ないとお考えですか。私も問題ないと思っていたのですが、 しかし、むむむ、するともしかして、お二人の回答は意見が割れているのでしょうか?? とりあえず「先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」を「理性、認識の範囲と可能性を定める」という事と、まあ、大体同じようなこと としておきますと、かたや 「先験的方法」という方法によって、「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」をしたということではなく 「先験的方法」すなわち「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」である。が正しい というご意見、かたや 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 は問題ないというご意見、 はて、どうなんでしょう・・・

noname#31811
noname#31811
回答No.8

no7ですが重要な個所が抜けておりました。 坂部先生はこう仰っておられます。 「カントは、理性批判の哲学の根本の方法として先験的方法を採用する」 失礼いたしました。

koumori44
質問者

お礼

たびたびどうもありがとうございます。失礼だなんてとんでもありません。参考になります。できればもう少しお考えを聞いてみたいのですが、気が向いたらぜひよろしくお願いします。

koumori44
質問者

補足

カントは、観察の結果、認識は、事実、こうなっている、という事を主張したのではなく、こうなっていなければ認識は成立しえないのだから、認識はこうなっているに違いない、つまり権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事をしようとしたみたいですね。 ただ、ちょっと表現力がなくてうまく私の疑問を伝えられる自信がありませんが、たとえば 「呼吸法によって精神を集中させた」 というとき、 「呼吸法」という方法によって「精神を集中させること」を行った、 ということであり、 あくまで「呼吸法」と「精神を集中させること」は別の事だと思います。 だから「呼吸法」すなわち「精神を集中させること」 という事にはならないと思います。 同じ具合に、 >カントは、理性批判の哲学の根本の方法として先験的方法を採用する という場合、 「先験的方法」という方法によって、「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」をした という事なんでしょうか。 それとも「先験的方法」すなわち「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」である。 という事なんでしょうか。

noname#31811
noname#31811
回答No.7

NO1,2です。 先験的方法について言及してなかったので、坂部恵先生の文章をご紹介しておきます。 「これは認識の発生的な事実問題(quid facti)を問うのではなく、認識を認識たらしめる認識の可能性の権利の根拠(権利問題 quid juis)を扱う。すなわち人間理性のアプリオリな認識を、ーーより広く言えば活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定することによって、その構造をーーあきらかにしようとする方法である。 ご参考にしていただければ幸いです。

回答No.6

> 「先験的(超越論的)な方法によって探求する、というのは、先天的(アプリオリ)な認識、事柄について探求する、という意味である」 これはちがっています。 まず、カントは > 「先験的(超越論的)な方法によって探求する なんてことはひとことも言ってません。 「純粋理性批判」という書物の目的は、わたしたちの認識のうちの先天的な形式を見いだすことによって、わたしたちの認識の条件とその範囲を確立することです。 ちょっとこの部分、原文を見てみましょう。 わたしが参考にしているテキストは河出書房新社版高峯一愚訳『純粋理性批判』ですが、岩波文庫だと少し訳がちがうと思います。 B25のところです。 -----B25からの引用--- わたくしは、対象にではなく、対象を認識するわれわれの認識の仕方に、この認識の仕方が先天的に可能であるはずのかぎりにおいて、これに一般に関与する一切の認識を先験的と称する。このような概念の体系は先験的哲学と呼ばれるであろう。 ----- こうやって自分がやろうとすることをあきらかにしたあと、そこからつぎのB26で、この『純粋理性批判』という書物で、自分がいったい何をしようとしているのかがつづいていきます。 ---B26からの引用---- われわれがこの研究を本来理説と称することができず、単に先験的批判とのみ称しうるという理由は、この研究が認識そのものの拡張を意図するものでなく、もっぱら認識を是正することのみ意図し、あらゆる先天的認識についてそれが認識の根拠として価値があるか無価値であるかを識別するための試金石を与えるべきものであるからであり、これこそまさにわれわれが今取りかかっている仕事である。 ----- >「先験的(超越論的)な方法によって探求する のではなく、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする、ということです。 ここをくれぐれも、絶対に、まちがえないでください。「認識そのものの拡張を意図するものでなく」って言ってるでしょ? カントの議論のすすめかたは、「わたしたちはそれを使って何ができるか」という方法をとりません。もっと厳密にやっていきます。 カントの議論のポイントは、下でもちょっと書いたのですが 「そもそもそうした認識の対象と、認識そのものを同時に成り立たせている条件があるのではないか。 それを成り立たせている基本的な条件や構造は何なのか。」 それをあきらかにする、ということなんです。 「事柄について探求する」、っていうのは、まずその事柄がそこにあることを前提としなきゃいけませんよね。そういうこととは全然ちがってる、って、おわかりいただけましたでしょうか。

koumori44
質問者

お礼

たびたび返答ありがとうございます。ただ、ちょっとよくわからなくなりました。むずかしいですね。

koumori44
質問者

補足

ghostbusterさんのお答えしたいただいた内容は、 「カントは、ある事柄や対象や世界がどんな風に認識されるか、という事ではなく、 認識というものが成立するためにはその前提条件として認識の先天的な形式はどうなっていなければならないか、 また、その先天的な認識の形式からして、先天的認識がどこまで可能といえるのか、 という事を述べた。」 というような事ではないでしょうか。それは私もそうだと思うのですが、 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 という言葉づかい自体おかしいとお考えなのでしょうか? こちらは私は問題ないかと思っていましたが。

回答No.5

あちゃ、#4の回答、本のタイトルがちがってました。 中山元『思考の用語辞典』(筑摩書房)でした。 これには弟分もいて、『高校生のための評論文キーワード100』(ちくま新書)。「高校生のための」ってタイトルにあるんだけど、これがなかなかどうして、です。 ただ、哲学史的な視点となると、兄貴分のほうにかなり分がありますが。 ということで、訂正まで。

koumori44
質問者

補足

質問の答えのみならず、勉強の方針、本の紹介までしていただき、ありがとうございます。大変勉強になります。 さて、先験的、超越論的、アプリオリ、などといった言葉は、使いはじめはカントとしても、今ではカントを離れ、様々な文脈で使われているようですね。私としては、カントが厳密に何をいわんとしたか、という事ではなく、そういった、さまざまな文章の中でよく出てくる言葉として、「先験的」という言葉が、おおまかなニュアンスとして、どんな具合に使われるか、ということを知りたいと思っています。 そういう訳で、できれば、もう一度ききたいのですが、先ほどのお答えだと、 >「先天的認識(アプリオリな認識)についての認識」が「先験的(超越論的)認識」 との事でしたが、確かにそれはそうだと思うのですが、だからといって、一般的な言葉遣いとして、 「先験的(超越論的)な方法によって探求する、というのは、先天的(アプリオリ)な認識、事柄について探求する、という意味である」 といったら、それは間違いですか?私は、なんとなく、それは間違いだと思っていましたが。

回答No.4

補足欄、拝見しました。 理解の方向としてはまちがってない、と思います(わたしもそこらへんのお姉ちゃん(ん?)、というかおばちゃん(トホホ…)というか、なので、回答者の方から「これって~ですね?」といわれて、そうです、とか、ちがってます、とかなかなか言えないんです)。 カントの場合、言葉をそれぞれに定義づけながら、おそろしく精緻な論理を組み立てていきます。 だから、まるで単語帳を作るみたいに、言葉をひとつひとつ押さえていかなければなりません。ほんと、わたしも単語帳ではないけれど、そんなノートを作りました。 そのとき気をつけなきゃいけないのが、カントが使っていない言葉を、なるべく使わない、ということです。とくに、それ自身、定義が必要な別の言葉を持ってこない。 わたしたちは日本語で思考しますから、どうしてもその日本語が持つイメージに引きずられがちです。 この"Transzendental" というのは、カントが「認識を可能にする条件」として作り上げた造語ですから、まったく新しい概念です。 いっぽうで、これは"transzendent" (超越)という語から来ている。そうしてこの語をさかのぼると……というふうに、ひとつの言葉は西洋の思想史の脈絡から来ているわけです(ここらへん、もし興味がおありでしたら、中山元の『思想の用語辞典』を見てみてください。この本は言葉から思想史をたどっていく、大変おもしろい本です)。 ところが「超越論的」という字面を見ていると、それだけで、何か、ある種のイメージが湧いてくる。「先験的」とは全然ちがうイメージでしょ? このスゴそうなイメージよりも、淡々とした「先験的」(なるほど、経験に先立つから先験的か、みたいな)のほうが、わたしは個人的に好きなんですが、でもやはりのちの実存主義とのからみでどうしても「超越論的」と言ったほうが、うまくいく。だから、これから回答するときには気をつけることにします、じゃなくて、話がそれた、何が言いたかったかというと、日本語の「超越」という語に、引きずられないことです。 もうひとつ、とりあえず入門書でも何でも良いから、カントの思想の全体をいったん頭に入れておいて、まるでGPSで自分の位置を確認するみたいに、この部分は、全体のどのあたりにあるのか、たとえば「先天的認識が可能であるかどうか」という議論は、西洋の思想のなかでは、どんな位置にあって、カントの思想のなかではどのあたりにあって、『純粋理性批判』のなかではどのあたりにいる、という位置を確認しながら読み進んでいくといいと思います。このおおまかな見取り図を頭の中に持つと、グッと理解が進みます。 忘れないでほしいのは、それぞれの言葉の理解は、全体の理解に応じてしか、深まっていきません。「カント単語帳」はつねに修正され続けるものになるんです。 だから、「先天的認識」というのはどういうことだ、「物自体」ということはどういうことだ、「現象」とは、と、しっかりわかって先へ進みたい、という気持ちはものすごくよくわかるのですが、『純粋理性批判』を読んでいくことは、マリオがステージをひとつずつクリアして、最終的にクッパを倒すみたいにはいかないんです(ああ、あまり知的ではない喩えを使ってしまった…)。 とりあえず、いまのところは「この言葉はこれぐらいの感じ」「この言葉とこの言葉が対になっている」(ア・プリオリとア・ポステオリ、総合判断と分析判断、物自体と現象……)というあたりでとらえて、読みながら修正を続けていく。そのぐらいのつもりでいたほうがいいと思います。 入門書とか、解説書とか、図書館へ行ったら、カントならずいぶんあるはずだから、いろいろ読んで、あ、この人の言ってることはピンとくる、みたいな人をさがして、その人を道しるべに、とりあえずはおおまかな見取り図を頭の中に作ってみてください。 何か要領を得ない文章になりましたが、そんな感じで(笑)。

koumori44
質問者

お礼

返答、ありがとうございます。出来ればもう少し教えていただきたいのですが、よろしければお願いします。聞きたい内容は、NO.5のほうの、この回答への補足欄に書きました。

回答No.3

簡単に答えてしまうと「先天的認識についての認識」が「先験的認識」ということになります。 ただそのまえにちょっと整理をしておきましょう。 まず、a priori は「先天的」と訳されます。だけど、最近は訳さず、「ア・プリオリ」とそのまま表記されることのほうが多いのかもしれません。 Transzendental は「先験的」あるいは「超越論的」と訳されます(最近はもっぱら「超越論的」と訳されることが多いのですが、わたしはちょっと昔の岩崎武雄のテキストで勉強したので「先験的」という言葉のほうがなじみがいいからこっちを使っちゃってるんですが。ただ、このふたつの訳語のもとは、まったく同じものです)。 「先天的」と「先験的/超越論的」はまったくちがうものです。 ちょっとまぎらわしいので、ここから「先天的」はア・プリオリ、「先験的」は「超越論的」と記述することにしよう(ああ、めんどくさい話です)。こうすると、まったく別物、という感じがしてきますね(笑)。 まず、『純粋理性批判』というのは、わたしたちが「それ」と思っているものはなんであるか、そうしてどうして「それ」がわかるのか(どうすればわかるのか、ではなく、どんなふうに「それ」がわかるのか)をあきらかにした本です。 わたしたちが通常「「それ」は××だ」と認識できるのは、さまざまな経験によるものです。 まず、わたしたちが「それ」と認識しているものは、「それ」そのものではありません。目にうつる「それ」であったり、話で聞く「それ」であったり、ふれたり、においを嗅いだり、味わったりするわたしたちの感覚を通してふれる「それ」でしかありません。 そうしてまた「××だ」という認識、その認識そのものは、いったいどうやって可能になっているのでしょうか。 そもそもそうした認識の対象と、認識そのものを同時に成り立たせている条件があるのではないか。 それを成り立たせている基本的な条件や構造は何なのか。 そういうことを考えるために「超越論的」という言葉を作りだしたわけです。

koumori44
質問者

お礼

ghostbusterさん、はじめまして。 哲学の話はむずかしくてよくわからないことが多いのですが、 こうやってお答えいただくと、大変参考になります。 どうもありがとうございます。

koumori44
質問者

補足

冒頭の >「先天的認識についての認識」が「先験的認識」 のうち、 >「先天的認識」 をくわしく説明したものが、 >そもそもそうした認識の対象と、認識そのものを同時に成り立たせている条件 >それを成り立たせている基本的な条件や構造 ということでよいのでしょうか。また、 >「先天的認識についての認識」が「先験的認識」 >「先天的」はア・プリオリ、「先験的」は「超越論的」 ということからして 「アプリオリな認識についての認識が、超越論的認識」 ということを仰られているのでしょうか。

noname#31811
noname#31811
回答No.2

お礼文ありがとうございます。 この場合のアプリオリは知識とか判断の確実性を性格づける概念だと思うんです。 例でいえば、カントの言うアプリオリな分析判断、アプリオリな綜合判断、アポステオリな綜合判断などのアプリオリ、アポステオリです。 つまりアプリオリは経験では論破されない先天的必然性を意味しており、アポステオリは蓋然性を意味していると思います。 私も素人で人に教える立場にありませんが、興味がありましたので回答させていただきました。

koumori44
質問者

お礼

richlandさん、返答ありがとうございます。 >経験では論破されない先天的必然性 というようなことをアプリオリの方の『先験的』 >「経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づける」 というようなことをTranszendentalの方の【先験的】 ですか。なるほど。 この二つはどちらも「経験では論破されない」「経験的世界を超えつつ」という風に「経験によらずに、経験に先立って」というような共通のニュアンスがあるのでどちらも「先験的」という訳語になっているだけなのかもしれませんね。 (いやでも、「経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づける」という事のうち、>「経験的世界を越えつつ・・・・」はTranszendentalのもう一つの訳語の「超越論的」という訳語の方がしっくりきますし、どちらかというと後半の>「(経験世界の)成立の可能性を条件づける・・・」という部分の方が「先験的」という言葉と密接に関係している感じがしますので、「経験的世界を超えつつ」という事から先験的という訳語になったのではないような気もします。) でもまあ、ともかくアプリオリの『先験的』とTranszendentalの【先験的】は、やはりニュアンスがかなり違うみたいですね。 とても勉強になりました。いろいろどうもありがとうございました。

noname#31811
noname#31811
回答No.1

>「経験に先行して経験によらず解明する」ということであり >つまり、かたや探究の方法 といのはカントで言えば理性批判、フッサールで言えば現象学的還元といった先験的方法を指していると思われます。 問題はこの先験的方法の先験的という意味ですが、これは経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づけるという性格を指すのだと思うのですが如何でしょうか?

koumori44
質問者

お礼

richlandさん、はじめまして。素人が独学で勉強しているので、疑問を誰かにきくことができずに困っておりました。お答えいただき、どうもありがとうございます。

koumori44
質問者

補足

>経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づける なるほど、Transzendentalの方はどうもそんな感じみたいですね。 もう一方のアプリオリの方は、どうなんでしょうか? やはり同音異義語なんでしょうか?

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  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。

  • 書き損じた原稿の問題点を添削してください。

    下記テキストは個人的な哲学研究ノートをアマゾンかどこかで電子出版するつもりで書いた廃棄原稿です。 3回目の試作品です。 何か突っ込みをお願いします。 ちなみに5枚のテキストがあり、冒頭の1枚以外は補足欄で追加します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1章「自我とは何か 無我とは何か」 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば大先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人は他者と共感したり、心を通わせることができる。 その明白な各個人の体験を論理的に裏付けるための、過去の仮説が自我論だ。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 書物からも、他者の言質に大きな感銘を掻き立て、自己の規範として取り入れる。それが教えを受けることだ。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 無欲という美徳は、望みが確固とした自己の望みであり欲望ではないことだ。 多くの場合に、人は欲望の犯す過ちを警戒するあまりに、自らの望みすらかき消そうとする。 内面において、自己の核質たる自我と別に構成する人格の全容は社会性ある人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは一人で生きていない巖然たる事実の前に避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 この自我論は、論理的たたき台としての「自我仮説」同然だ。 その学説はいわば「人間玉ねぎ論」だ。 人格を総括したのが、仏教でいう本来の我のことを指す。 その自己から、玉ねぎの皮を一つ剥がすと、自我になる。 もう一つ剥がすと霊になる。 さらに剥がすと神になる。 おおむねこのような想定から生まれた学問上の研究手法であり、論理だ。 これは同じ時代に世界について考察した「原子論」と同一だ。 どんどん分割していくと、世界の最小単位に到達する。 そちらは、はるか後世に証明されて、現代の物理学が成立している。 原子論は、おそらく世界を研究するために編み出された。 世の中に対して、自覚や理解に到達する事が命題であり、古来から宗教では、その宗教の世界観として扱われた命題から派生した研究課題である。 しかし物理学は、細分化では成果を上げたが、伝統的な世界観は、宇宙にまで拡散しさらなるなぞへの挑戦が始まっている。 いわば古代の原子論などの分割型学説は、原子の発見には貢献しても、本来の目的である世界観については解明していないのだ。 本来の命題の意義である世界観の確立は宇宙への探求で結論は遠のいたという印象があるが、それは錯誤であり、紀元前の世界観は徒歩で旅行できる範囲の地理的な探求だった、その範囲は現在完全に踏査されて地球上の多くの地理的特徴は全容が理解されている。 過去の世界観の命題に関していえば、もはやいったん完成して、宇宙観という命題は過去に想像できなかった新たな命題だと切り分けて判断したほうがいいだろう。 そうすると、歴史上の人類の宿題はいったん片づけたからこその研究だと理解できる。 同時期に同様の手法の仮説的予言である自我論も、結論することに同様の危惧があり、自己の精神を自覚する場合には、人格についての自覚についてだ、したがって人間玉ねぎ論の研究は、総括的な自己の自覚と研究するほどかけ離れていく類の専門家向け学問の探求なのだ。 世界観と並列して命題化された自我仮説では、人格をいったん解体するという仏陀の修行が必要だ。 そして人間を玉ねぎ化して探求することは、掘り下げるほど自己の核心を深めると同時に分割化するほど総体としての自己の社会基盤への理解からかけ離れる性質があり、一般的に需要のある自己の存在についての学問とはかけ離れていく。 原子論の成果は宇宙論まで拡大するとまだ成果の途上だ。 自我とは、解明してもそれで自己の存在が確立するとは限らない。 むしろ自覚した自我を中心に自己の社会性を再編成して、それにより人格を再構成する手続きが必要になる。 人と人がお互いに理解しあえてこそ、人間としての自己を理解したことになる。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格を取り払い、自己の本質を見極めよという宗教的な命題なのだ。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我の流布の前に、それを仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調なのだ。 ところが現代では、無我イコール自我が無いという定説にすり替わり、その重大な錯誤から発展した迷走から、仏典編纂時期には命題と宗教活動が、「無」という教えが形骸化していた。 そして、仏教徒が「無」の代わりに命題としたのが「空」である。 これは仏典が書物として編纂される時期には進行していた変節で、したがって仏典とは末法に編纂され、形骸化していた「無の悟り」に関しては、伝承された事実について、片鱗が記述されるのみである。

  • 自閉症児の統語論について

    初めまして。 私は現在、大学にて英語学(統語論)を専攻している者です。 このたび、卒業論文を書くにあたり自閉症スペクトラムの言語発達を統語論からの視点で研究していきたいと考えています。 しかし、先行研究を探していく中で見つかるものは語用論的な視点のものばかりであり、(対人認知やコミュニケーションの障害という自閉症児の機能障害から考えて当然のことではありますが。)大変困惑しております。 現在のところ ・「いく」「くる」等の動詞の言い間違い ・共感獲得表現助詞「ね」の欠如 等しか見つかっておりません。 また「助詞の言い間違い」との指摘も挙げられておりましたが、ご存じの通り日本語の助詞は非常に数が多く、また間違いを犯してしまう助詞やその役割を特定することができませんでした。 さらに上記の例はご覧のとおり日本語話者による発話の失敗例であり、英語を母国語として使用する話者の研究を見つけることができませんでした。 まだ探索が足りないことは充分自覚しており、自身でもこれらの内容を扱う先行研究を探すつもりではありますが、 「母国語として英語(文の構造上、助詞を用いることがなければ他の言語でも構いません。)を使う自閉症児が、発話においてどのような失敗をするか。(統語論的・文法的な知見から)」 「日本語話者の自閉症児が、発話においてどのような失敗をするか。(特定の助詞や用法等、統語論的な知見から)」 についてお答えいただきたく思います。 ちなみに発達障害についても大変興味を持っており、独学ながら自閉症スペクトラムの特徴等の知識は持ち合わせているつもりではありますが、まだまだ未熟な点も多いため様々な視点からご意見をいただきたく思います。 長文、駄文を失礼致しました。 どうぞ宜しくお願いいたします。

  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?