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哲学であるかそうでないかのラインについて

reikasuzuの回答

  • reikasuzu
  • ベストアンサー率30% (4/13)
回答No.13

哲学するとは根本的に考えて、従来の考え方を批判し、新しい考え方を発見することだと思います。 哲学史の歴史とはそのような出来事によって成り立っていると思います。 だから哲学は自己批判の契機をはらんでいる。 従来の哲学者はこう考えたけれど、そいつらみんな間違ってる、と説得的に言えた人が大哲学者。 逆に言うと、哲学の世界では、大哲学者以外はみんなごみ、というひどい考え方もできます。 大学で哲学を研究している教授などは基本的にごみだらけ、ましてや学生などごみにも数えられないとする見方もあります。 およそ大学でまともにものを考えられるはずがない、というニーチェや 学者というは永遠に読まれないために永遠の読書を続けているというショーペンハウアー(か、もしくは彼が引用してた哲学者、忘れました)は正しいと思います。 というわけで、真の意味で哲学的に思考できる人というのは一世紀に世界で数人単位です。 彼らこそ、真に哲学とは何か、という問いに、哲学とはこういうものだ、と答えられた人達だと思います。 およそ哲学的手法を深く学び、大哲学者について知見を深めたひとほど、その大哲学者を根本的に批判した別の大哲学者にこけにされるようです。 哲学とは何か、とは危険な問いです。 そう問うている人の哲学自身が問われるからです。 もしその人の「哲学」が過去の大天才の言ったことの集積でしかなかった場合、それがたとえ数十年の努力の賜物であっても、後の哲学者によって、その人がバカにされること必至です。 ましてやギリシャ語かラテン語、さらにはヨーロッパ系言語を2つ以上習得し、哲学史に登場するビックネームを原書で読み、かつ重要参考書もよみこなしてもいない場合、 ビトゲンシュタインのような例外的存在でもない限り、哲学とは何か、という問いをたてることは不可能だと思います。 哲学とは何か、とはだから危険な問いだと思います。 とてもそんなこと恐ろしくて口にできません。

noname#19008
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 哲学者について語ることは誰にでもできます。 ただそれを真から理解できるかは人によりけりだと思います。 大哲学者になるためには哲学を学ばなければならないわけですし reikasuzu さんが、ごみと言われる方にも指導していただかなければその一端も垣間見れてこないような気もするのですが。。。

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