• ベストアンサー

学生時代に習ったのかも知れませんけれど。

昔の大名は一万石以上を言ったとうろ覚えしています。  加賀百万石等とも言いますが、一石とは具体的にどういう意味もしくは何を指すのでしょうか? お分かりになられる方がおられましたらよろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#113190
noname#113190
回答No.3

一石は180リットルで、人間一人が1年間に食べる量に相当します。 1日に食べる量が取れる田を一坪、1年では一反という単位です。 尚、細かいことを言うと、1万石以上の直臣(将軍に直接仕える武士)を大名といい、大名の家臣で万石以上の武士は陪臣といって、大名とは言いません。 1万石以下の直臣で、将軍に目通りできるものを旗本、出来ないものを御家人といいます。

ringo1969
質問者

お礼

ありがとうございます。ではよく時代劇なので『百石をつかわそう』などといいますが何をくれるのでしょうか? お米1年分ですか?それとも人間一人が1年間に食べる量を作れる農地でしょうか?

その他の回答 (3)

  • tachiuo
  • ベストアンサー率32% (92/279)
回答No.4

 石(こく)は体積の単位で、1石=10斗(と)=100升(しょう)=1,000合(ごう)=10,000勺(しゃく)=100,000才(さい)です。体積の単位としては、180リットル(ドラム缶くらい)ですが、米の重量としては約150kgです。主食が全て米であるとした場合の一年間に一人が食う量が大体1石で、江戸時代の田なら、1反(段)=約1,000m2の標準収穫高です(今の3~4分の1の収穫高ですね)。  以上は、単位の基礎知識ですが、もう一つ知っておくべきことがあります。1万石の大名の収入は1万石ではありません。全部取ったら領民が死んでしまいます。五公五民などと言われますから、収穫の半分を年貢に取られているかのように思われていますが、実際には三割程度です。しかも、この1万石とは、あくまでも課税基準であり、実際にはもっと多くの収穫があり、当時の農民は現代人が思っているほど貧しくはなかったという研究もあります。  なお、これは「歴史」カテゴリーが適切かと存じます。

ringo1969
質問者

お礼

そうですか!よく理解出来ました。本当にありがとうございました。 専門家の方ということですが貴重な知恵に感謝です。

  • B-rapid
  • ベストアンサー率33% (368/1098)
回答No.2

体積の単位です。 今でこそ、米の取引単位は重量ですけど、江戸時代は体積単位を使っていました。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3_(%E5%8D%98%E4%BD%8D)
ringo1969
質問者

お礼

ありがとうございました。勉強不足で恥ずかしいです。

  • fitzandnao
  • ベストアンサー率18% (393/2177)
回答No.1

大辞林 第二版 (三省堂) こく 【石/斛】< (1)体積の単位。米穀などを量るのに用いる。一石は一〇斗。約180リットル。かつて、大名・武士の知行高を表すのにも用いた。

ringo1969
質問者

お礼

ありがとうございました。面積ではないのですね。参考になりました。

関連するQ&A

  • 一石

    加賀百万石っていうように、昔の単位ですよね、「石」っていうのは。そこで質問なのですが、一石は何リットルくらいなのでしょうか。一升瓶10本分とか100本分とかって話は聞いたことがあるのですが。 よろしくお願いします。

  • 教えて下さい

    加賀百万石ってよく耳にしますがそもそも百万石ってなんですか?  また一石を現代で言えばどのくらいになるのでしょうか?

  • 加賀百万石 戦国大名

    加賀百万石という言葉があり長い大名行列をしていたそうですが、米が多いと有力な大名なのでしょうか。米は食べたらお腹いっぱいになるだけで、戦国武将の強さと関係ないように思うのですが。

  • 戦国大名の国力(石高)について

    江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。 戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

  • 前田利長

    前田利長は何故あっさり家康の加賀討伐の脅しに屈したのでしょうか? 確かに 父利家ほどの実力者ではありませんが加賀100万石の領主だし 利長が豊臣恩顧を掲げて打倒家康を宣言すれば 上杉などの周辺の諸大名は従ったと思うのですが

  • 丹羽長秀の領地について

    賤ヶ岳の合戦後、丹羽長秀は秀吉に協力した功により、越前・若狭・加賀南部2郡が与えられ、100万石以上(一説には123万石)といわれる大大名になりました。そこで私の疑問なのですが、この100万石という数値はどこからきているのでしょうか。秀吉の太閤検地によれば、越前は約50万石で若狭は8万5千石、加賀は約35万石です。加賀のうち北部2郡は前田利家の領地ですので、丹羽長秀の領地は南部の江沼・能美2郡で石高は約14万石余になるはずです。(関ヶ原合戦の直前の加賀南部2郡は山口宗永が江沼郡大聖寺6万石余、そして丹羽長重が能美郡小松12万5千石を領地としていました。しかし丹羽長重の12万5千石のうち4万石は加賀北部の石川郡のうち松任城周辺の土地にあたるため、能美郡の石高はその4万石を差し引いた約8万5千石であると考えられます。その6万石と8万5千石を足した約14万5千石が加賀南部2郡の石高になるのではないか。)それらを足すと、50万石(越前)+若狭(8万5千石)+14万5千石(加賀南部2郡)で約73万石になります。仮にその直前まで領有していた近江のうち滋賀・高島2郡(2郡で10~15万石程度か?)を足したとしても80~90万石程度です。小説やドラマ、歴史の本を観ていて疑問に思いました。これらの石高の数値の誤差がでる理由について、説明だきる方教えてください。よろしくお願いします。

  • 丹羽長秀の領地について

    賤ヶ岳の合戦後、丹羽長秀は秀吉に協力した功により、越前・若狭・加賀南部2郡が与えられ、100万石以上(一説には123万石)といわれる大大名になりました。そこで私の疑問なのですが、この100万石という数値はどこからきているのでしょうか。秀吉の太閤検地によれば、越前は約50万石で若狭は8万5千石、加賀は約35万石です。加賀のうち北部2郡は前田利家の領地ですので、丹羽長秀の領地は南部の江沼・能美2郡で石高は約14万石余になるはずです。(関ヶ原合戦の直前の加賀南部2郡は山口宗永が江沼郡大聖寺6万石余、そして丹羽長重が能美郡小松12万5千石を領地としていました。しかし丹羽長重の12万5千石のうち4万石は加賀北部の石川郡のうち松任城周辺の土地にあたるため、能美郡の石高はその4万石を差し引いた約8万5千石であると考えられます。その6万石と8万5千石を足した約14万5千石が加賀南部2郡の石高になるのではないか。)それらを足すと、50万石(越前)+若狭(8万5千石)+14万5千石(加賀南部2郡)で約73万石になります。仮にその直前まで領有していた近江のうち滋賀・高島2郡(2郡で10~15万石程度か?)を足したとしても80~90万石程度です。小説やドラマ、歴史の本を観ていて疑問に思いました。これらの石高の数値の誤差がでる理由について、説明だきる方教えてください。よろしくお願いします。

  • 石高について

    石高が具体的に想像できません。時代ごとで石盛がことなることは理解できるのですが、例えば加賀百万石や慶長年間の30万石とは、玄米にして何表にあたるのか、米にしたら何表になるのか、金額にしてどれくらいなのか、などの具体的なものを教えていただけませんか。時代ごと、地方ごとでその意味は異なるとは思うのですが、概略だけでも掴みたいと思います。

  • 1石ってどれくらい

    こんにちは。つまらない質問です。昔の大名の禄高を表す単位として「石」がありますが、「石」ってどのようにして算出したんでしょうか?

  • 大名の石高と藩士の数

    江戸末期で、276の藩があり、1万石から50万石以上の大名が存在したと理解します。そこで、例えば1万石とか2万石の大名というのは、何人くらいの藩士を抱えていたのでしょうか。 又これら藩士の数は、ほぼ石高に比例するのでしょうか。