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武田信玄の「人は城 人は石垣 人は堀」後世の創作ですか

武田信玄の有名な言葉 「人は城 人は石垣 人は堀. なさけは味方 あだは敵なり」 というのが 実は、後世の創作だったって聞きました それではなくても「後世の偽作」と言葉もあるし。 その文章、かなり好きだったことですが、、 「武田信玄が話したことではなくて、本当は後世(江戸時代?)の作品」という主張、本当ですか

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回答No.2

■武田信玄が引用した言葉とされていることから、信玄関係を調べる。『武田信玄の知恵袋』(鈴木健二著 講談社 1987)には、『甲陽軍鑑』に信玄の歌として紹介された。信玄の政治姿勢の基本。『孫子』の五事の備えをモットーとしていた。『改訂甲陽軍鑑』中(磯貝 正義・服部 治則/校注(史料叢書) 新人物往来社 1983)には、「人は城人は石がき人は堀情けは味方あたは敵なり」を信玄公の歌とある人が云ったとある。『無敵・武田軍法の研究』(土橋治重著 PHP研究所 1983)には、信玄の歌かどうかはっきりしないとある。 また、次のような説もあります。  「人は城、人は石垣、人は堀」とは、信玄の業績を江戸時代になってまとめた甲陽軍鑑の一節です。実際に信玄がこのような言葉を口にしたかどうかは定かではありませんが、信玄は人こそが国の基であると考え、甲陽軍鑑の一節を地で行くような領国経営を行ないました。信玄在世中、甲斐国内に新たな城が一つとして築かれることがなかったのは有名な話です。甲斐は国土全体が山で囲まれ、それ自体が一つの巨大な城郭のような地勢をしていました。この地理的条件を十二分に活用し、信玄はその在世中に一度として甲斐に敵軍を侵入させることがありませんでした。 どうも後世・江戸時代になってからの創作のようですが、信玄の戦略、政治、思想をこの言葉に言い表したものか、信玄自身が発言したり詠ったものを、「甲陽軍艦」という書籍に纏めたのかどうかは定かではありません。

ressise
質問者

お礼

まことにありがとうございます

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  • jk7
  • ベストアンサー率18% (46/247)
回答No.1

記憶違いでなければ、信玄が話したのではなく、信玄が詠んだ和歌の一部だった気がします。 それにしてもセンスのない和歌ですが…。 信玄が和歌をたしなんでいたかは不明ですし、後世の創作と考えられているのは事実です。 実際には本人が言ってない発言が、あたかも本人が言ったように後世に伝えられているということは、よくある話です。 例えば「板垣死すとも自由は死せず」とか「待て、話せばわかる」(犬養毅が射殺される直前の言葉)など。 ちなみに言葉でなくても、「武田24将」も江戸時代に創られていますし、それに対抗して創られた「上杉25将」も江戸時代に入ってからのことです。特に「上杉25将」は、架空の人物まで入っていてひどいものです。

ressise
質問者

補足

良かったら、「後世の創作だ」に関する根拠も紹介していただけば、 もっとありがとうございます。

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