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生きていたいと思えない

僕は今大学4年生なのですが、最近は毎日「生きていたくない」とばかり考えています。そう思うのには理由があります。 まず、何をやってもうまくいかないのです。今は就職活動中なのですが、全くうまくいきません。色々とスキルアップを試みても、いっこうに効果が表れません。恋愛もうまくいかず、22年間で女性とお付き合いをしたことがありません。そして交通事故に遭ったり、悪質な業者に騙されたりと、過去を振り返れば不運なことばかりです。 また、前に楽しめたことが楽しめなくなりました。前は音楽が好きでバンドとかをやっていたのですが、今はそれほど楽しめなくなりました。ギターを毎日弾くほどだったのに、最近はギターを触るのが面倒になりました。それはいけないと思い、他に興味のあることに手を出したりしたのですが、まるで自分が自分じゃないみたいに熱中できないのです(以前僕は興味のあることにはすぐ熱中してしまっていたんです)。友人とのコミュニケーションも少なくなり、一人で過ごす時間ばかりになりました。 生きていてもちっとも楽しくありません。いいことなんて何もありません。いったい何のために生きているのか考えてしまいます。やらなきゃいけないこと、前は普通にできていたこと、みんな億劫に感じます。そして自分にはいいところなんて何もないダメ男だと思うようになり、毎日心が絶望感みたいなもので支配されています。何をやってもうまくいく気がしません。 自殺も考えたことはあるのですが、考えていたら親の顔が浮かんで、一人泣いてしまいました。そして自分の夢のことも考えてしまいました。生きていたくないと強く思う一方で、心のどこかでは生きることを望んでいるのかもしれません。 僕はどうしたらいいのでしょうか?絶望感に満ち、何も楽しめなくなった今、なんのために生きていけばいいのでしょうか?または生きていくべきではないのでしょうか?

  • camcam
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  • Syo-ya
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回答No.23

お返事ありがとうございます、再度の7です。 事故の件は大変辛いと想いますが、感情論を抜きにして考えないといけないところなんです。 私情をはさまないで「自然の法則」として理解して欲しいんです。物理です。 感情論で言えば、誰だって事故には遭いたくないし健康で平和に愉快にすごしたいんです。 私だってアメリカの大富豪の家に生まれて、派手に贅沢に何不自由なく暮らしたかったです。 でも、徹底的に冷酷なまでに人生を物理的な法則として、客観的に考えれば、やっぱり原因があるから結果があるんです。 蜜柑の樹からは、蜜柑しかなりません。 蜜柑から林檎が成ることは、絶対にないんです。 もし異例があるとしても、それにも、100%、原因があるんです。 自然は、この法則を、絶対!!!にミスしないんです。 ≪ この世には偶然というものは無く ≫、全て必然的に相応の結果が出るように出来ているんです。 この単純明快な自然の法則で、我々の心も人生も、全部が出来ているんです。 ですから事故の件も非情に言えば、必ずその原因があったハズなんです。 しかし、それは前世においての原因だったかも知れないんです。。。。  ・・・と、いう話になるとオカルトチックになるので引くと想います^^  でも、我々が「生まれる」ということにも、必ず、原因があるとだけ覚えておいてください。 でも、結果が出たからといって、それは、終わりではないんです。 むしろ始まりなんです。 階段を一段上がったら、それまでと違う景色が現われた・・・・というだけなんです。 この意味、通じますか?? 人生に起こる全ての出来事は、進化、成長のためのプロセスなんです。 蜜柑の種をまいたら、実がなるまでに、時間がかかりますよね? 自然は、時期=経過=プロセスを経ないと成長できないようになっているんです。 >>自分の力だけではどうにもならない「結果」もあるのではないでしょうか? もう、階段を一段上がってしまったのですから、後戻りは出来ませんよね。 それでも「この階段じゃなきゃ嫌だ!」と頑張っても良し、別のルートに変えても良しです。 「結果」を受けてどうするか? が「人生」であり「冒険」なんです。 人生の真価は、ここにあるんです。 これをするために生まれてきたようなものです。^^ No.23さまが、 >>。「私が集めた知識が他の誰かの役にたってるんだ」「私の経験が同じ経験をしてる他の人の役に立ってる」・・・・・なんとも不思議な感覚でした と、おっしゃっています。 これはキリスト教でいうところの「求めよ、さらば、与えられん」なんです。 私も質問者様の1000倍は「死にたい」と願って生きてきたんです。 世間も親も、私に対して虐待はするけれど、誰も助けてはくれないんです。 だから、ずっと、ものごとの本質というか、心から納得のいく真理・真実を求めて続けていたんです。 そうしたら、いつの間にか、核心にまでたどり着いてしまったんです。 そうして、自分が本質を伝える人に””成って””いたんです。 (まあ、伝わっているか解りませんがね・・)  パンの作り方を一生懸命理解・学習した人は、パン屋に”成る”でしょ?  一心不乱にギターの練習をした人はギタリストに”成る”んです。  これが「求めよ、さらば、与えられん」です。   「望むもの」が与えられるのでは無いんです。    その人が抱えている原因に相応しいものに”成る”んです。    つまり、我々、一人、一人が「原因(種)」であり「結果(実)」なんです。    この意味、通じますか・・・?? 心の中で、至上の曲を求め続けていれば、その人の心の中に、その人にとっての至上の曲が芽生え出すんです。 求めたから、与えられたんです。(簡単でしょ?) ”成る”といったほうが、より解りやすいと想います。 質問者さまが絶望するのは、正しいです。 絶望したということは、確実に階段を昇っている(成長している)という証拠なんです。 さあ、では、次に、何を求めるか?です。(なにに”成る”か?)です 練炭を求めれば、自殺者に”成り”ます。 アルコールに救いと癒しを求めれば、アル中患者に”成り”ます。 ギャンブルに求めれば、破産者に”成る”かも知れない。 ぐれて喧嘩に明け暮れれば、不良に”成り”ます。 言い換えると、人生に無駄なモノなど、一つもないんです。 障害さえも、人生の肥やしになるんです。(ヘレン・ケラーもそう言ってます) 上↑のほうで、≪ この世には偶然というものは無く ≫と書きました。 この人生で起こる全ての出来事が、必要なものばかりなんです。 全てに必然性があるんです。 あとは、そこから何に成るか?が、自然から問われているんです。 「あなたは、何になりたいですか???」と、自然が問いかけているんです。 「あなたに相応しいあなたに、いつだってしてあげますよ」 「あなたが成りたいのなら、私は、いつだって完璧にお手伝いしますよ」 ・・・と、自然が言ってくれているんです。   わかりますか? 「私たちは、自分の想うとおりの人間に成っているんです」 これは、ビジネスの成功哲学の中でも言われていることです。 その秘密は「原因があって結果がある」です。 超~~単純なんです。 この簡単な理屈に「私情」をはさんでしまうから、人生が複雑になってしまうんです。 >>気づいて・・・どうすればよいのでしょうか? 気づき続けるだけでいいです。 査定も、否定も何もしないで、ただ淡々と自分の中の自然の動きを観察し続けてみてください。 心の動きも100%、自然の法則に従って働いています(因果、縁起、無常) この自然の動きを観察し続けるだけで、自然による他律的な支配から、自律的に自然を支配する側になれるんです。 こちらの#4を読んでみてください。 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1800783 ・・・ちょっと、長くなりすぎましたね、ここらで止めましょう^^; PS No.23さま、身に余るお言葉に感謝しています。 お互いに、自然の不思議なやり方に翻弄されつつも、これからも頑張っていきましょう!

camcam
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。しかもこんな長文で・・・ まず始めに誤っておかなければなりません。申し訳ございませんでした。 正直なところを申しますと、僕は最初に回答者様の意見を拝見したとき、「小難しいような意見言ってるな」と思いました。しかしご意見をいただくにつれ、次第に意味を理解し、素晴らしい意見であると思うようになりました。そして自分は愚かであったと実感しました。今までに述べた「ダメ男」なる愚かさでなく、何か全く別物の愚かさを感じました。うまく表現できませんが、「結果の出ない自分」ではなく、「悪い結果の原因を作っている自分」に腹が立ちました。 >この意味、通じますか・・・?? >わかりますか? 深いご意見ですので、100%ではないかもしれませんが、回答者様が僕に伝えたいことは概ね理解できたと思っております。というより理解できるように”成った”んです。僕が自分にとって必要な意見を求め、その意見の意味・本質を知ろうとしたからです。当たり前のことですが、できていませんでした。 >気づき続けるだけでいいです。 悪い結果の原因に気づいた時、その原因を消すための行動を起こす必要はないのでしょうか?あるいは、本当の意味で原因に気づいたときは、無意識に行動が起こる(起きている?)のでしょうか?気づいた後にどうすればいいのか分からない僕は、本当の意味で気づいてないのでしょうか? URLも拝見させていただきました。 >自分以外の何かに頼る「愛」「安定」「心の平和」は、とてももろいものなんです。 最近は強い孤独感を感じておりまして、いつも何かに頼ろうとしてました。例え悪い結果ばかりで辛くても、「恋人ができれば、心の支えができさえすれば…」と、いつも考えていました。まさに「自分の心の安定を他律的に果たそうとしていた」のです、原因に気づく前に。愚かでした。愛の生産・・・、意識していきたいと思います。 >・・・ちょっと、長くなりすぎましたね、ここらで止めましょう いえいえ、もっとお話を聞かせていただきたいです。回答者様のご意見は、とても勉強になります。

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  • Syo-ya
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回答No.49

camさん。 >>難しいですね。 そうですね。たとえば、私は、ここ数年仏教のことしか考えていないんです。自分でもなんでこうなったか分からないんですが、たぶん1%の感動から『志』が生まれたからだと想います。宇宙創生のビッグ・バンと一緒です。バーン!という1%の感動という一発の爆発が、何十億年たっても広がっていくんです。それが99%の不断の努力です。 だから現在において完了しているイメージをして、嬉しい気持ち、喜びの気持ちで心が溢れれば、FEELの扉が開いてアイディア、ひらめきが湧いてきて、もっと、もっと推進力がついて、加速力、パワーが出てくるんです。ジミヘンが24時間ギターを手放さなかったのと同じです。計算も心配もしてないんです。 無心、無欲、無我、夢中なんです。 純粋、純心、綺麗な心なんです。 逆にTHINKして有心になると、計算高くなり、私利私欲も湧いて、保身に走り、利己的になり、アイディアも枯渇して、気弱になり、愛も弱くなり、・・・・結果、やる気もなくなるし、推進力も弱まってしまうんです。薄汚い、穢れた大人の心です。 だから理屈ぬきに≪子ども心≫ ≪遊び心≫ ≪素直な心≫でする現在完了のイメージが良いんです。 綺麗な心になること、そのために自分を律し続けることが、結局は、自分を救ってくれるんです。 大仁田厚氏の「千の傷 千の愛」って本も借りてみてください。 まあ、この人のやることは、あまりにも稚拙で辟易とするんですが(^^;)この人の「志」は見習うべきなんです。 この人もどん底まで落ちたんですが、背水の陣で望んだ有刺鉄線のプロレスと、マスコミを利用したセルフ・プロデュースだけで這い上がってきた人です。プロレス時代(FMW)に「無の境地」も体験しているみたいなんです。 「自分の中にあるものを全て吐ききってしまうと、無限の力が湧いてくる・・・」みたいな記述もありました。 この人の著書も、ほとんど読みましたが、「自分が何のために生まれてきたかわからない、だから知りたいんだ!」という、その純粋な気持ちだけで、今も生きているみたいな人です。どうやら、この1%の想いが、この人の全てに底通してるようです。 今、無料放送のギャオの「バラエティ」→「PRO-FILE」でもちょっと観れます。 「ドキュメンタリー」ではフジ子・ヘミングが観れます。 http://www.gyao.jp/ (完全無料です) >>なんか日本人のダメなところというか、愚かさを感じました これもズバリですね^^ 「対人恐怖症」というのは日本の風土病とも言われているそうです。 島国根性、農耕民族の特有の心の病気ではないかみたいなことも言われています。 特に日本は明治以降、西欧化に推移していく中で、精神的土台と近代化とのギャップが強く出ているような気もします。 あとfloさんとのやり取りの中で、  >そういう理不尽な現象もまた、大河の流れの中のある一点だと感じるんです。  >>失礼ですが、ちょっと引っかかります。 と、ありますが、仏教でも、お釈迦さまは悟りを開いたのに、なんで布教したの?という疑問があるんです。悟りを開いて、世界を達観する境地に達した人間ならば、「>そういう理不尽な現象もまた、大河の流れの中のある一点」という想いに達するわけですから、布教活動なんかしないハズなんです。これは確かに論理的には矛盾してて、辻褄が合っていないんです。ですから仏教では梵天に頼まれて布教を始めたというストーリーになっているんです(梵天勧請) ・・・で、私はこのように解釈するんですが、 floさんも達観していると言いながら、camさんの役に立とうしてらっしゃるように、心が安定側に向かった人は「愛(気)」が大きくなりますから、達観すると”同時に”、必然的に誰かのために働いて”しまう”んです。 穏やかな日の光が無意識のうちに植物を育ててしまうのと同じです。 本人は無自覚でも自然の摂理として、矛盾した機能を果たしてしまうんです。 逆説的に言うと「愛(気)」の弱く小さな人は、世間のことでぎゃーぎゃー騒ぐのに、自分の利益しか考えないという矛盾を抱えた人たちなんです。「住みよい社会を!」と達観できないのに、”同時に”手を貸そうともしない人々です。こういう正義の人たちが住みづらい世の中を作っているのかも知れないんです。 ピューピューと吹き荒ぶ北風が植物を枯らしてしまうのと同じです。 これも矛盾した機能を果たしてしまうんです。 で、これこそが#35の立川談志さんの言っていることなんです! この世の全てのことは二極構造、二律背反で成り立っているんです。 光あるところには、必ず、影があるんです(陰陽) パラドックスってやつを抱えているんです。 ・・と、こんな説明で通じるでしょうか? だから、これはfloさんには説明できない疑問だと想うんです。 なぜならば進化、成長を遂げて良い意味の自己矛盾を抱えた、ご当人だからです。^^ それが証拠に、floさんの心が穏やかになって、達観の境地に達すれば、達するほど、お父さんとの関係にも変化が生じているんです。 camさんは、この事実をどう受け止めますか? >>「完結している」と考えていたらいつまでも社会は良い方向に向かっていかないのではないでしょうか? >>良い社会を望んでこそ良い社会へ向かっていくのではないのでしょうか? ・・・と、この疑問も同じことですが、#33に   >でも、だからこそ、自律心が働くようになるんです。   >犯罪があるから警察が育つんです。   >犯罪なくして警察は育たないんです。   >仏教では蓮の華にたとえます。   >美しい蓮華は泥の中からしか咲かない(咲けない)んです。 ・・・と、書いたように、この世は二極構造だから何かが育つんです。 この場合だと「悪い社会」があるから「良い社会」が育つんです。 つまり「善」は「悪」なくしては育たないんです 逆にいえば「悪」は「善」のエサなんです。(まあ逆も真ですが) >>良い社会を望んでこそ良い社会へ向かっていくのではないのでしょうか? つまり、上記のような理由で、この世(社会)が完璧に善くなることは絶対に無いと、私は想っています。 でも、だからこそ! 社会を少しでも良くしたいと想ったら、私たち一人、一人が自律的な安定を果たすべきなんです。平和を声高に訴えて、自分以外の何かを変えようとするのではなく、まず「自分」が変わってしまえば良いんです。誰よりも、まず「自分」が進化、成長を遂げて、世事を達観し、同時に人助けをするような「愛(気)」の強い、大きな心の人間になれば、これほど世の中に対して貢献することはないんです。人類に対しても最大級の貢献です。だから克己修身して「完結している」と考えられるような心の安定した人が増えれば、相乗的に社会も良くなるんです。 >>そういう理不尽な現象もまた、大河の流れの中のある一点だと感じるんです。 このように現在完了でイメージ出来る心の大きい人たちが増えれば、本当に社会は良い方向に向かっていくと想うんです。 こんな説明で通じましたでしょうか・・?(^^; 結局は、われわれ、個人の心の問題に帰結するんです。 「心」が自律的に安定しているか? いないか? で全てが決まるんです。 仏教では不善の社会、不善の自分を超えて成長しよう!という志を【菩提心】というんです。 (floさんへの返信は別にします。)

camcam
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >だから理屈ぬきに≪子ども心≫ ≪遊び心≫ ≪素直な心≫でする現在完了のイメージが良いんです。 そう考えると子供ってすごいですよね。確かに少年時代って無我夢中というか、余計なことなんて考えずにひたすら物事に打ち込んでましたね。そこに迷いも心配もありませんでした。きっと心も安定していたと思います。少年時代は意図せずにそういう心の状態でしたけど、大人になった今は、意図してそういう心の状態にするようにしなければなりませんね。 >大仁田厚氏の「千の傷 千の愛」って本も借りてみてください。 この人は稚拙な行動ばかりが目について「どうなのかな」って思ってましたけど、成功した人ってやっぱり一般人が見習うべき何かを持ってる人なんですね。「自分の中にあるものを全て吐ききってしまうと、無限の力が湧いてくる・・・」ですか・・・、なんかいいですね。僕はいつも、自分の中に残しておこうとする人間ですからね。 >・・と、こんな説明で通じるでしょうか? >こんな説明で通じましたでしょうか・・? とても分かりやすい説明で、概ね理解できたと思います。世の中矛盾だらけですが、自然の摂理として「あるべき矛盾」もあるのですね。言われてみれば確かに、お釈迦様は布教する必要はありませんでしたものね。 社会の良し悪しも我々の心の問題に帰結するなんて、不思議というか興味深いというか・・・、世の中意外と良くできてますね。「物騒な世の中」とか「理不尽な世の中」とか、悪いところばかりに目が行きがちですけど、その悪いところを作っているのは人間の心なんですものね。

  • floating
  • ベストアンサー率45% (18/40)
回答No.48

camさん、 >今の僕の怖いものは「将来」です。オーディションを受けたんですけど、結果はまだ来てなくて・・・。もし落ちてて違う職についた場合、一生懸命その仕事をこなせるか心配なんですよね、自分のやりたいこととは違うことをやるわけですから。「人生つまらない」って思ってしまいそうな感じで怖いですね。 これは・・・今の私は自信を持って言えますが、落ちて別の職に就こうが、合格して音楽の道にいきなり進もうが、camさんが心を鍛え、真理を追究し続ける限り、まったく同じ結果になります。つまり、「人生を生きること」と「音楽をやること」は全くの同義です。 こんな分かったような分からないようなこと言われても(^_^;)、って感じだと思うんですけど・・・・これが私の実感なんです。 私、帰国してからずっと、全く自分の時間がなかったんです。まるで、「では、今まであなたが理解したことを、実際にできるかどうか、テストしてみましょう。」と言われているかのように、(具体的なことはちょっと書けませんが)次から次へ、思いもしなかったようなことが起こり、遊びに行くことはおろか、仕事をしたり、ゆっくり音楽を聴く、なんて時間や心の余裕すらなくて・・・毎日、悲鳴をあげてました。 理論的には今、自分の目の前にあること、自分に与えられたことを一生懸命やることが、自分のためになるし、ひいてはその経験が音楽にも加算されていくんだ、って・・・・分かってたんですよ。でも何ヶ月も何ヶ月も、音楽ができない状況が続くうち、頭ではわかってるのに、「もう一生音楽できないんじゃないか」と不安でどうしようもなくなってきたんです。同業者である(前お話した)当時の彼氏に「きっとこの経験が、音楽に生かされるよ」と励まされ、「うん、そうだね」と言いながら、心の中では「でもアンタは今仕事(音楽)やってるから、そんなこと言えるんだよ。」と、悪態をついていました。「自分のこと」をやってる人が羨ましくて、毎日嫉妬や悲哀と格闘してました。・・・・・私の中から次第に、真理に到達した喜びは薄れていき、「もうたくさんだ、もう嫌だ、死にたい」という思いがまた、頭をもたげるようになりました。 何度も言いますが、この頃には、理屈の上ではすべて、達観してた(つもりだった)んですよ。達観してたくせに、です。 だけど、辛い中でもやはり、私の底辺に頑張りたい、という思いがあるんでしょうね・・・・辛さが飽和状態までくると、ちゃんと答えがでるようになってるんです。 私はずっと、「自分のことができない」「自分のことをやりたい」って思ってきたけど、今私のやってることが「自分のこと」なんじゃないか?って、ある時ふと感じ始めたんですよ。そしたらまた、すごいスピードで、いろんな事が腑に落ちはじめたんです。一生音楽できなくても全然構わない、とまで思えるようになり、毎日が充実してきました。自分の望んだものではないけれど、自分に与えられたことに、気持ちよく集中できるようになったんです。そして気持ちよくやってるおかげで、心の切り替えも早くなり、結果的に仕事を再開する時間と心の余裕も生まれました。 そして今、「自分がやりたいこと」ではなく、「自分に与えられた事」を集中してやることによって学んだこと、の大きさ、またその「学んだこと」がどれほど密接に、音楽をすることと関わりあっているか・・・・それを日々痛感します。 まさにSyoさんが書いてらっしゃった >「貴方の仕事は何ですか?」と聞かれたら、「本当はミュージシャンになりたかったけれど、ダメで、今は不本意ながらxxやってます・・・」ではなくて、「これ!」です。 このことなんです。 ちょっと抽象的で、分かりにくいかも知れませんが要するに、それが何であれ、自分に与えられたものが「自分のこと」なんですよ。それが実感できると、不思議なことに、どんなことにでも、たとえそれがただの雑用であっても、そこにそれをやることの意義や素晴らしさを、感じられるようになるんです。 ・・・・・と言葉で説明するのは難しいですし、たとえcamさんが今、頭で理解したとしても、かつての私のように、望みどおりにならない自分の人生に対し、悪態をつくこともあるかもしれません。 けれども、camさんが真理を求めて努力し続ける限り、camさん自身の経験を通して、今私が言ったことを体感、実感されると思います。だから、心配はしてません。(^-^) >曲作り中って、自分との一体感というか、自分自身を感じることができる状態にありますよね。そして曲作りが終われば、自分から生まれたものが「曲」として形に残る・・・それもまた自分を感じることができます。 全く・・同感です。 (やっぱり、前世くらいで血縁関係だったような気がします。(笑)) Syoさん、 「声に出して読む般若心経」読みました。 この本、私が日本に戻ってこのサイトを発見した頃、Syoさんのある回答を目にし、Syoさんがその中で推薦されてた本です。 私は仏教については全くの無知でしたが、そのSyoさんの回答にものすごい共感を覚え(この時は鳥肌が立つような何ともいえない感覚におそわれました。)、この本を読んでみたいと思い何軒か書店をまわったのですが見つけることができず、その後の忙しさやなんかで、心の片隅に追いやられていました。 で、つい先日バスの待ち時間にたまたま寄った書店でその見覚えのあるタイトルと著者名をついに発見してしまい・・・「ええい!」と思ってまた買っちゃいました。昨日の夜、時間があったんで、袋から取り出して読んだんですけど・・・ 時間ができるまで待つ必要なかったです。あまりのすごさに、20分くらいで一気に読み終えてしまいました。 Syoさんが推薦してらっしゃった本なので、共感できる本であろうことは、ある程度予想してたんですが・・・その予想をはるかに超えたものでした。 ・・こう言ったら非常に傲慢でおこがましいのですが、それを百も承知で言えば・・・ 他人が書いたと思えないくらい、そこにもここにも、今までに自分が痛感したことや、到達した結論、さらには「こんなふうに感じるんだけど、思い切ってここに書いてみようかな?」と最近思っていたようなことまで・・・、全部、書かれてあったんです!(Syoさんも、こんな感じじゃなかったですか?!)もちろん私にはこんなに体系的、理論的に説明する力もないですし、新しい知識や概念もありましたし、実際この本の文面の背後にはとんでもなく大きい世界があるんでしょうけど、・・・とにかくどれもこれもが、くすぐったいを通り越して、痛いほど、この数年間の想いとクロスしてたんです。 すごいです・・・・・。これは本当に科学ですね! Syoさんが「お釈迦さまの教えは宗教とも呼べない」とおっしゃってるのが、今よくわかります。 camさんもいつか、読んでみてください。「この本、宗教のコーナーに置いてあるの、間違いだよなあ」って、きっと思われるとおもいますよ。 >真理って、何気ない些細なところに落っこちているんですよね。 万物に底通しているからこそ見落としがちだけど、そこに全ての答えもあるんですよね。 本当にそう思います。 それに、誰も皆、その真理をどこかで感じながら生きてるんだと想うんです。周りの誰かが、何気ない会話の中でポロっと吐いた一言に、真理が浮き彫りになって見えることって、よくありますし。 >でも、私に伝えられるレベルは、消防車の「はしご」みたいなもので、とりあえず、みんなが昇りやすいように、判りやすいように、目の前にまではしごを下ろしている程度なんです。 だから、今は大変感動していただけるかも知れませんが、知れば知るほど奥が深く、全てに底通しているがゆえに、これほど困難な道も無いんです。私もまだ入り口付近に居る身ですが、これは驚異の一本道だと想います。 あぁ、これは・・おっしゃってること、よくわかります(わかるつもりです)。 ・・例えば、ものすごく些細な日常のことでも、そのすべてにおいて実際「正しいこと」をすることは、非常に難しいです。でも、あえてそれをやる努力をして初めて知ることができる、その実行の奥深さ、みたいなものを感じることがあります。 その奥深さにも似たものなのかな、と・・・。 う~ん・・・独り言です。読み飛ばしてください。(^_^;) 宗教について・・・・ 私の親しい友人に、両親とも牧師さんだった女性がいるんですが、彼女が「JesusをPraise(賛美?)することはいけないことなんだ。PraiseすべきはGodだ。」とよく言ってるんです。その彼女も、教会というもののあり方に多くの疑問を抱いてる人です。 私はキリスト教の中身や歴史を詳しく勉強したわけではないので、あくまで私が外から見て感じたこと、憶測にすぎないのですが・・・・結局、宗教という名の下に、偶像崇拝をするから、どんどん本旨からずれていってしまうんだと思うんです。歴史の中で征服や支配の道具として使われたキリスト教でさえ、皆が幸せになるためのガイド、そのための知恵(=福音)を本旨として生まれたのではないか、と思います。Jesusが言いたかったのは、「俺を讃えろ」ということではなかったはずだ、と思うんです。たとえ「神を讃えろ」であったとしても、その「神」の意味、「讃える」の意味は、妄信的な偶像崇拝、とは違うものであったはずだ、と思うんです。 でもその偶像崇拝してる人たちや、そういう現象や事実さえも、それはそれでいいのだ、とこの頃感じるようになってきたんです。 この考えに至ったのは私、自分の父親を許せたことが大きく影響してるんです。 実は私、アダルトチルドレンという概念も、このサイトに来て初めて知ったんですが(このときもかなり衝撃でした)・・・、それに関するSyoさんの書き込みを読んで、かつて悔しい思いをしてました・・(今初めて言いますけど)。 「お父さんと同じような環境で、同じ思いをして育った人がここまで悟って、ここまで努力し、これほどの境地に達しているのに、何故お父さんは気付かないんだ?なぜ答えが目の前にあるのに、それを受け入れようとしないんだ?!」と、悔しくて悔しくてたまらなくなりました。もうかなりの歳ですし、大病をしたこともあって、このまま父が無念の思いで死んでいくのかと思うと、悔しくて涙が止まりませんでした。 だけど・・・一方で私は、一人ひとりの人生より大きい、・・・何といったらいいのか、「何かとてつもなく大きな流れ」のようなものを感じ始めていました。camさんへの返信のなかでも書きましたが、何一つ自分の思い通りにならない状況が続くなかで、自分の意志を超えた、何かゆっくりと動く大きな流れを感じたんです。・・理屈で説明できないのがもどかしいんですけど。 で、その流れを感じたと同時に「気付くべきなのになぜ気付かないんだ?」と父を責めること自体、お門違いなんだ、と思いました。父は、その大河の流れの、ある一点である父の人生、をその”一点”としての役目を全うしながら、全力で生きてきたんだ、と感じました。そこに不足を感じ文句をつけるのは、私の傲慢だ、と・・・思ったんです。 この気持ちの変化に伴って、今まで抱いていた「こうあるべきなのに」という他人や社会に対する怒りみたいなものが、一挙に薄らぎました。そういう理不尽な現象もまた、大河の流れの中のある一点だと感じるんです。その大きい流れのある部分を顕微鏡で覗いてみればやはり、そこでもここでも、必要あるところには、小さな気付き、革命の数々が起こっているのだ、と。そういうこと全部ひっくるめて、「完結している」のではないか、と想うようになってきたんです。 かなり脱線しましたが・・・。f(-_-) とにかく・・以上のように、私の発見の数々というのは、私がまだ弱い人間だからこそ、なされたものばかりです。(恥) でも逆に言えば、私の弱さが、強い私になるための手助けをしてくれてるんですよね。・・・不思議です。 最近、日々発見の嵐です。Syoさんの言葉を読み返すたび、いろんな事がどんどん腑に落ちていきます。 そして、私はSyoさんに教えてもらうということは、ここでの回答に始まったことじゃないです。 上にも書いたように、今までも、勝手にお世話になってました。 そのことも含めて・・・・・この感謝の気持ちは、とても言葉では言い尽くせません。<(_ _)>

camcam
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >こんな分かったような分からないようなこと言われても(^_^;)、って感じだと思うんですけど・・・・これが私の実感なんです。 まさに、分かったような分からないようなこと言われてもって感じです^^;)多分後になってから、「あの時このサイトで…」って感じになるのだと思いますが、やっぱり望みどおりにならないことに対して卑屈になってしまう気がします。自分のやりたいことではなくても、自分に与えられたことを全力で取り組めるようにしたいと思います。「ボートの外のこと」を気にしていたってどうすることもできませんからね・・・まぁ頭ではわかっちゃいるんですが、そうできるほどの心に筋力があるかどうかですねぇ。しっかりと心の筋トレをしたいと思います。 >そういう理不尽な現象もまた、大河の流れの中のある一点だと感じるんです。 失礼ですが、ちょっと引っかかります。悪い・悲しいニュースばかりの現代社会において、それを「大河の流れの中の一点」と考え、全て「完結」しているとするのは、今まで述べられてきた真理とは矛盾しているように感じます。悪い・悲しいニュースを、我々日本人が心のどこかで望んでいるからそれが頻繁に起こるのではないのですか?そこに革命があるのか疑問ですし、「完結している」と考えていたらいつまでも社会は良い方向に向かっていかないのではないでしょうか?良い社会を望んでこそ良い社会へ向かっていくのではないのでしょうか?不躾な質問で申し訳ございませんが、疑問はなるべく解決させたいので。

  • Syo-ya
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回答No.47

camさん。 >>これって向上心をなくすことにはならないんですかね? この切実な思いが「渇愛」です。が、欲目、欲望は向上心とは違うんです。 欲目、欲望は自分の側に何かを引き寄せようとするエネルギーの働きですよね。 (←不安定側)に働く力なんです。(No27の図) ドンドン「愛(気)」の小さい人間になっていくんです。 これは向上心ではなく、向下心・改悪なんです。 だって向上心というのは安定した心の人間になることでしょ? (安定側→)に働いてこそ、向上心・成長なんです。 現在完了でものごとをイメージしただけで、無くなってしまう程度の向上心・夢だったら、それは、その程度のものだったということなんです。 本当に心から喜んでやっているならば、心の安定に伴って、もっと、もっと、無尽蔵にパワーが湧いてくるハズです。 逆に、実は、単なる欲目だけでやっているならば・・・、心の安定に伴って消滅する想いなんです。 オーディションの合否で、貴方の幸福が決まるわけではないんです。 もし、貴方が主体性のある愛を生産し、自律的な安定を果たしていれば、喜びの気持ち・慈悲喜捨の心が溢れますので、必然的に強大な「愛(気)」を発する(オーラ)ようになりますので、ファンやスカウトが放ってはおかないんです。幸福のほうから舞い込んでくるんです。 我々の心の幸福度(安定度)が、将来へのカギを握っているんです。 以上のことを踏まえて、もう一回、ここまでを読み返してみてください。 「将来」が怖いのではないんです。 我々の心が不安定だから、すがるような気持ちでいるから、そのように感じる(錯覚する)だけです。 >>教育って、いつも歴史やら計算やら「事実」を押しつけるだけですよね。 同感です。 小欲知足の心を育むことこそ、本当の心の教育なのに・・・。 「生存競争」がある限り、これは終わらないのかも知れませんね。 生存とは、本来「共存」なんですけどね。 人間には本質が観えていないんです。(以下で、その説明をします) floさん。 >>信じなければ地獄に落ちると言われたり ヘレン・ケラーも『中世の厳格な神学は、いかに人間を軽蔑すべき罪の子として扱ったことでしょう、いかに世界を神の怒りに触れるものとして捉えていたことでしょう』『信じるものだけが救われるという自己中心的な思い込みがひたすら尊ばれたのでした』『「幾万もの民の上に呪いを降り注ぐ神学」「神の言葉」を呪いの言葉を変えた。』『無学な人々の弱みや、軽信性に漬け込んだ。』といって、強く批判しているんです。 たしかに、宗教は「抑止力」としても機能するので、人々が道徳的に生きてもらうために、このような工夫(最期の審判、原罪、脅し・・)がなされたのかも知れませんが、表現が違えば習慣が違ってくるんです。習慣が違ってくれば、結果も違ってきます。ですから確かに光る言葉は多々ありますが、私も支持しているワケではないんです。 ヘレンケラーは、まさにFEELの人ですから、この違和感が許せなかったのだと想います。 ちなみに彼女は神秘系で有名なスウェーデン・ボルグの新エルサレム教会を支持していたんです。 >>これは・・・・・・・・・・・すごいです。 観えてきましたか?! 『完璧』という言葉がぴったりだと想います。 でも、私に伝えられるレベルは、消防車の「はしご」みたいなもので、とりあえず、みんなが昇りやすいように、判りやすいように、目の前にまではしごを下ろしている程度なんです。 だから、今は大変感動していただけるかも知れませんが、知れば知るほど奥が深く、全てに底通しているがゆえに、これほど困難な道も無いんです。私もまだ入り口付近に居る身ですが、これは驚異の一本道だと想います。 なぜならば「真理」というのは「結論」なんです。 「結論」というのは、それ以上動かしようのない事実・真実ですよね。 たとえば「私は日本人です」といえば、これが「結論」ですから、それ以上動かしようがありませんよね。 科学の要件でいう「普遍性」「客観性」「再現性」「実証性」があるんです。 仏教でいう縁起、無常、無我・・・これらも「結論」なんです。 宇宙・生命の構造の本質が此処にあるんです。 ですから逆にいうと「最期の審判」も「地獄行きの脅し」もないけど、仏教には ”理論的な絶対性”があるんです。 獣のようなこの自分を、完璧なまでの精神科学の枠組みに収める必要があるんです。 その不断の努力・精進が不安定から、安定への道なんです。 だから我々も、かなり勉強しないと仏教的なものの見方というのはわかりません。 なんとなく解ったつもりでも、実は、もっと、もっと精密で・・・奥が深いんです(@@;   我々、凡人は「現象」という側面からものを”見て”います。   お釈迦さまは「本質」という側面からものを”観て”いるんです。   この差があるんです。 だから実は仏教ではキリスト教のような最後の審判をするような「神」は否定するんです。 本質レベルから見たら、そのようなものは存在しないという立場です。 「生きて死ぬ智慧」の般若心経というのも後世にできた新興の仏教(大乗仏教)の経典なんです。 だから最期のほうに「ぎゃーてー、ぎゃーてー」という真言が出てきますが、初期仏教ではこういう呪文の類も否定しているんです。あなたは自分でそれが素晴らしいものだと確認したんですか?、そうじゃなくって他人が善いというから、それを漠然と信じているだけではないですか?という立場です。 「自由」という言葉がありますが、自分で確認して、自分の判断に由って生きなさいというのが仏教なんです。つまりいつでも自分の眼で真理・本質だけを見ていなさいというものなんです。 だから神や真言、呪文、占い、祈祷・・のような形而上学的なものに由ってはいけませんということなんです。お釈迦さまの時代には、生贄を捧げたりする人たちもいたんです。今でも、神がかりした教祖を信じているとか、盲目の徒は多いと想いますが、それでは、ただ単に風が吹いたから飛ばされている<不安定な枯れ葉>と同じなんです。心は不安定に揺れ動いているままで、自由とは言えないんです。だから我々日本人が当たり前のように神社で祈るのにも否定的なんです。自分が原因を抱えているのに、神社で祈ったって無駄ですよという立場なんです。 xxさんが良い!と言ったから、これは良いものなんだ!では、奴隷(不自由)なんです。 マスコミがグッチのバッグが最高だと言ったから最高なんだ・・では情報の奴隷なんです。 逆に、俺が絶対と言ったら絶対なんだ・・も何の論拠もないんです。 だから本来の仏教は「あなたは、それを自分で確認したんですか?」という立場です。 偉い人が言ったからといって従うな。 伝統的なものだからといって信じるな。 みんなが善いという理由で信じるな。 逆に、みんなが悪いというから嫌うな。 真理の智慧で観て、自分に由って判断しなさい。という立場です。 これも、心が不安定な人には出来ない芸当なんです。 つまり、どこまで行っても「心の安定」「理性的に生きろ」が仏教なんです。 「独立自尊」「自律しなさい」「主体性を持ちなさい」・・・それが真理にも叶った”幸福への一本道”なんです。 ・・・そう考えると、ヘレンも言うような「神」の立て方をする宗教は”不安定への道”なんです。 最期の審判が怖いから良いことをする。神が居るから良い子にしよう・・では主体性の無い、不自由な枯れ葉と一緒なんです。 「自律的、主体性のある心の安定こそが幸福」という公式から観ても「神」というのは邪見という結論になるんです。 とても平等で公平で正論だと想います。  ※ちなみに初期仏教にも「神」という言葉は出てきますが、定義が違います。 だから、お釈迦さまの教えは宗教とも呼べないと想います。 「生命エネルギー論」「真理療法」・・だと想います。 だから、盲目的な信仰は必要としないんです。  もちろん「仏、法、僧」に対する信頼は必要とします。  患者が医者とその理論・技術を信頼するのと同じ理屈です。 般若心経は「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見・・」で始まりますよね。 「一生懸命修行して、ものごとの本質だけを観れるようになった」という意味です。 こちらの勝義諦の世界からものごとを観ているというような意味です。 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1881202 心が安定すると、実際に、こういうものの見方が出来るようになってくるんです。 で、これが「一元的なものの見方」ということなんです。(たぶん) たとえば「”人差し指”を明確に定義してください」と言われて、よく観ると、皮膚は繋がっているし、血管も、骨も・・全てが繋がっていて、「人差し指」など存在しないということに気づくと想います。「人差し指」というのは世俗レベルの真理であって、本質的側面から観れば、そんなものは無い。ということになるんです。 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1168207(こちらの10、11、14)  ※10に般若心経の「一切皆空」です。と書いているのは間違ってますね。。(恥) だから、人差し指を出されて「これはなんだ?」と聞かれたら「これ!」と答えるのが理想的なんです。 これが『 Don't Think Feel 』の世界です。 「貴方の仕事は何ですか?」と聞かれたら、「本当はミュージシャンになりたかったけれど、ダメで、今は不本意ながらxxやってます・・・」ではなくて、「これ!」です。 この一元的な見方が広まれば、肌の色が違うからといって差別したり、学歴、職歴、容姿・・・いろいろな差別偏見もなくなるハズなんです。 だって、差別偏見は、我々の心の中からしか生まれてこないんです。 世俗の概念を持ち込むから、分別から差別になり、貪欲になり、愚痴りたくなるのが人間なんです。 「世俗の概念」というのは、その時代によっても、個人によってもコロコロ移り変わる不安定なものですよね。 ちょっと前まではIT産業!と、もてはやされてたのに、今では、普通になっています。 つまり、ここにも「不安定なものに左右されるな、安定を求めなさい」という真理が隠れているんです。 絶対に移ろわない本質だけを見据えていないさいということです。 「移ろうものに追いすがるな」・・・世俗の価値観はもちろん、自分の生命にも執着するな、本質を悟りなさい。という意味です。 (ちなみに先に紹介した「不善心所」「善心所」の分類方法も、本質という側面から心を解析した結果のものなんです。ですから、ちょっと判りにくかったハズです。) #35でも紹介してます、京セラと第二電電(現:au)の創業社長の稲盛和夫さんも凄いんですよ。 経営で問題にぶつかっても、何をどうしたらよいか観えてしまうんだそうです。 この方は若いときに「生長の家」で真理を学んでから仏教に帰依し、今は臨済宗の僧籍も取得したんだそうです。 この人の著作物は数々拝読しましたが、ズバリ本質だけを端的に突いていて、もう・・圧倒的です。m(_ _)m カリスマ経営者と呼ばれています。 曲作りetcでも、この能力は活性化されると想いますが、坐禅瞑想etcで、もっと体系的に育てることもできるんです。 >>理解すると恐怖が消えるのは、この「理解」というものがそもそも「つながり、共通する何か」を通じてなされるもの、だからなんですね! >>経験というのは、自然という我々の意志を超える大きな流れと一体化して、はじめて生まれる。そういう意味では、気付く=気付かされる、ですから。 ・・・これらの言葉は、深く、深く考えさせられます。 真理って、何気ない些細なところに落っこちているんですよね。 万物に底通しているからこそ見落としがちだけど、そこに全ての答えもあるんですよね。 floさんは、きっと、それを発見する嗅覚があるんだと想います。(^^) ・・・と、ちょっと突っ込んだ話をしましたが、camさんも、是非、ご一考ください。 瞑想は、具体的に主体性、自律心を育てられる心の筋トレです。 図書館で借りてみてください(無くてもリクエストすれば取り寄せてくれます) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/250-8054312-6613868

camcam
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >向上心というのは安定した心の人間になることでしょ? (安定側→)に働いてこそ、向上心・成長なんです。 難しいですね。安定側と不安定側・・・、ベクトルの向きは真逆ですが、僕のような無知な人間にとってはどちらに向かっているのかさえ判別が困難です。己を磨くために努力しているのは間違いないですが、果たして欲望のためにやっているのかそうではないのか・・・。ただ「今のままではいけない」って、そういう思いがあってなんですけど、僕には「貪欲」って言葉がよくあてはまるような気がするんですよね。 何とか心を安定させなければいけませんね。将来が怖いというのも、自分の心が生んでいるものなんですね。 >「独立自尊」「自律しなさい」「主体性を持ちなさい」・・・それが真理にも叶った”幸福への一本道”なんです。 なんか日本人のダメなところというか、愚かさを感じました。飲み会とか何かに誘うとき、「みんなも来るよ」って誘うのは日本人だけで、それを基準にして行くか行かないかを決めるのも日本人だけらしいです。さらに悪いことをしたときとかに、「みんなもやっているじゃないか」と言うのも日本人だけらしいです。日本人には「周りと同じことがいいこと」っていう考えが植えつけられてますよね。奴隷というか、日本人に自由さはないですよね。日本の主な宗教は仏教だとか言われてますけど、仏教の素晴らしい考え方はちっとも日本人に(自分も含め)浸透していないんですね…。お葬式のときとかだけに仏教を持ち出すというか、なんか損しているようなきがしますね。・・・ちょっと脱線した感がありますが、僕自身いつも周りの意見と対立することがよくあるもので。多数派の意見にばかり賛同するというか、物事を客観的に見て合理的に考えることができない人ってすごく多いんですよねぇ。 >真理って、何気ない些細なところに落っこちているんですよね。 なるほど、僕には気づく能力がないからよく立ち止まってしまうんですね。消防車のはしごの話じゃないですけど、「こういうものがある」といのを教えてもらうことはできても、発見して活用できるのは自分だけですものね。心の筋トレ、頑張りたいと思います。

  • floating
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回答No.46

>でも曲を書くときはどうしても心がそれに奪われますね。1時間でも2時間でもひたすら、納得いくまでやってしましますね。没頭ってやつです。心奪われるじゃなくて、これがFEELって状態なのでしょうか?頭で考えてどうこうってわけじゃないので・・・、どうなのでしょうかね? どうでしょうね~・・・・人それぞれだと思うし、なんとも言えませんが・・・ 私の場合はだいたい、メロディーと歌詞、アレンジが全て、頭の中でほぼ同時進行で鳴り始めるんです。最初は大まかなイメージから始まって、だんだん個々の詳細な音が聴こえてくる、というふうに。何もないところに何かを創りだす、という感覚ではなくて、自分の中で鳴った音を、瞬時瞬時に捉えて物質化していく、という感じなんです。自分との一体感が最高潮に達する作業です(だと私は感じます)。 そういう意味では、Feelに近いのかな? もちろん仕事としてやっていく中では、時間の制約の中で数をこなさなきゃいけなかったり、「こういう感じの曲にしてほしい」という極めて具体的な依頼があったりするので、そういう時は自分なりの公式にあてはめて機械的、人工的に作る、ということも多々ありますから、いつもいつもこういう状態、ってわけではないですけどね。 いずれにしても、曲作りは楽しい作業であることには間違いないです。(^-^) >たぶん、私も似てると想うんですが「図で考える」というか、きっとイメージ思考をされていらしゃると想うんです。そしてイメージに論理がくっついて、初めて経験と知識がリンクするし、腑に落ちてくる そうです、そのとおりです。 Syoさんもそうなんですね。どおりで・・Syoさんのおっしゃることは本当に分かりやすいです。まるで体の中に染み入っていくみたいに違和感なく理解できます。 思うに・・多分camさんも、私たちと似たような思考をしてらっしゃるんじゃないでしょうか?一番最近のお礼欄読んだ時なんて、使う言葉から言い回しから発想まで・・・、昔どこかで血縁だったんじゃないかと疑ってしまいました。(笑) >(・・・と、此処で、ちょっと断っておきますが、(本来の)仏教というのは、入会・入信する必要も無いし、どこぞの新興宗教のようにご本尊を置く必要もないし、元々、そんなものも無いんです。≪日本の「坐禅」と同じで!≫、自分で勉強して、かってに努力すればいいんです。 どうか、此処を誤解しないでください。私は会員でも勧誘員でもありません。) もちろん了解しています。 それにSyoさんの言葉によって、様々な角度から真理をみることができるので、本当に学ぶところが多くて、感謝の念に絶えません。<(_ _)> そもそも宗教というのは人を幸せにするものでしょ?なら万人にオープンであり、人と人をつなげる(Unite)ものであって、入信しないものを裁いたり、人と人とを種別、分断(Divide)するようなものであってはならないはずだ、という思いを、私はずっと抱いてきたんです。 だから、Syoさんに出会い、Syoさんがその宗教のあるべき姿を体現してらっしゃるのをみて、本当に嬉しいんです。「宗教(dividing)色のない宗教(uniting)家」こそが、真の宗教家だと思いますから。 ・・・実は宗教に関しては、今まで様々な思いを経てきました。私は特に宗教を持っていないのですが、身近な人や周りの人の多くがクリスチャンだったことから、信じなければ地獄に落ちると言われたり(^^;)、分かり合えなくてもどかしい思いをしたことも幾度となくありましたし。それに宗教、というより宗教”団体”の極めて排他的、分離的な部分を目の当たりにしたので、いつも自分とは異質なものという感覚で・・受け入れることができなかったんです。 でも、真理にたどり着いてからは、宗教、特にキリスト教に対する考えも変わりました。その言わんとすることが分かってきたから。アメリカでは、牧師さんや神父さんのお説教の様子を収録して流してるテレビ番組がたくさんあるんですが、そんなのを聴いてても、真理を述べている言葉が、浮き彫りになって聴こえてくるんですよ。 やはり、宗教を超えて全てに共通する、一番底辺の部分に太く横たわる概念(=真理)、というのはあるんだ、ということを強く感じました。そうなると、宗教に対する恐怖や違和感、嫌悪感もなくなるんですよね。 やはり、他人の中に、自分と共通する何か(自分との接点、自分とのつながり)が見つかると、怒りや恐怖がなくなり、優しい気持ちにもなれますし、ひいてはこれが柳澤桂子さんの本にも書かれてる「ものを一元的に見る」ことにもつながるんだと思います。きっと、だから一元的に物事を見ることが、幸せに生きる、ということにつながるんですね。 昨日、Syoさんにご紹介いただいた「慈悲」の解説をプリントアウトして読んでたんですけど、読んでる間中、そのことをずっと感じていました。 >今度、カメラがあったら「カメラを通じて、私の歌がみんなの幸福のお役に立ちますように!」と、少女のように念じながらいくと上手くいくかも知れませんよ(^^;) やってみます。 今まで、恐怖でしかなかったものが、何だか楽しみになってきました。 と同時に、ちょっとこんな言葉を思い出しました。 Nothing in life is to be feared. It’s only to be understood. ”人生に、恐れるべきものなど何もない。理解するべきもの、があるだけだ。”・・・ちょっと訳しにくいんですが。 本当に・・・・・理解してしまえば、怖いものなんて何もないですね。 ・・・こうやって書いてると、どんどんつながってくるんです。 理解すると恐怖が消えるのは、この「理解」というものがそもそも「つながり、共通する何か」を通じてなされるもの、だからなんですね! 同じ経験をした者同士が分かり合えるのは、共通の経験があればこそ、ですものね。 なるほど・・・・すべてのものとのつながりの糸さえ見えれば(物事を一元的に見られさえすれば)、人間はほっといても恐怖や怒りから解放され、幸せになるようになってるんですね・・・・。 愛(慈悲喜捨)の気持ちを育てると、同時に「自分以外のものとの共通点・つながりを見つける」「一元的に全てを見る」力も育つ。だから自ずと心は安定への一途をたどるんですね。 これは・・・・・・・・・・・すごいです。

camcam
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >自分の中で鳴った音を、瞬時瞬時に捉えて物質化していく、という感じなんです。自分との一体感が最高潮に達する作業です(だと私は感じます)。 そういう意味では、Feelに近いのかな? それです、僕が言いたかったのは。曲作り中って、自分との一体感というか、自分自身を感じることができる状態にありますよね。そして曲作りが終われば、自分から生まれたものが「曲」として形に残る・・・それもまた自分を感じることができます。だからFEELかなって思ったんですよ。 >多分camさんも、私たちと似たような思考をしてらっしゃるんじゃないでしょうか? かもしれません。この間のお礼欄でも、知らないうちに「側面」という言葉を使ってて、なんか物事を立体的にイメージして考えてますね・・・言われてみれば。まだそのイメージに経験がくっついていないので、知識とのリンクもなくて腑に落ちない部分もあるんですけど、知識を得られただけでも素晴らしいことだと思ってて、ここへ質問してよかったと改めて感じてます。 >”人生に、恐れるべきものなど何もない。理解するべきもの、があるだけだ。”・・・ちょっと訳しにくいんですが。 本当に・・・・・理解してしまえば、怖いものなんて何もないですね。 今の僕の怖いものは「将来」です。オーディションを受けたんですけど、結果はまだ来てなくて・・・。もし落ちてて違う職についた場合、一生懸命その仕事をこなせるか心配なんですよね、自分のやりたいこととは違うことをやるわけですから。「人生つまらない」って思ってしまいそうな感じで怖いですね。・・・まぁこんなこと考えてるってことは、自分の心が「此処にない」ってことなのかもしれませんけど。

  • Syo-ya
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回答No.45

camさま。 >>まぁ色んなことを経験していくなかで、少しずつ繋がっていくのだと思ってます。 そうですね。 今、まだ若いのに「全て、わかりました!」と無責任な返答をしないだけ貴方は優秀です。^^ で、繰り返しますが、社会は人を簡単に茹であげる場所なので、たぶん自分でも気づかない間に、想いっきり脱線してしまうと想います。でも、30年後でも40年後でもいいですから、いつか此処を思い出して欲しいんです。敵は「自分の心」です。 floさま。 floさまのお話を伺っていると、本当に感激するばかりです。 >>今やっと立体的に見えてきました。 たぶん、私も似てると想うんですが「図で考える」というか、きっとイメージ思考をされていらしゃると想うんです。そしてイメージに論理がくっついて、初めて経験と知識がリンクするし、腑に落ちてくるので、本質だけをズバリと突くことができるんだと想います。 これまでにも「どんな行き止まりにも道をつけられる」とか、印象に深く刻まれるたくさんの言葉があって、心底に響きます。m(_ _)m >>確かに!ステージで歌ってる時って、概してどこかしらけてます。 >>逆に、よくなかったステージというのは、「想い」が先行するんです この差が生まれる原因もちゃんと在るんです! 「善い想い」では「悪魔(邪気)」が縮小し、「愛(気)」が強大に拡がります。が、 「不善な想い」は「悪魔(邪気)」が強大に拡がり「愛(気)」が縮小するんです。 よくなかったステージのときや、カメラが回っているときには、きっと、心の中で「不善な想い」がうごめいているハズです。 つまり、その心が原因となって、結果に現われているんです。 で、これを仏教では【善心所(浄心所 )】【不善心所】というんです。 あと、善でも不善でもない中立の心の状態を【同他心所】といいます。 で、これも心の状態ごとに分類して、全部で52種類に分類されているんです。 きっと、カメラの前で緊張する心の状態も、この中に見つかると想います。 http://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html あとは、これに気づくだけ!です。 人間万事、塞翁が馬と割り切れない「愚痴」は、まさに「moha(モーハ:痴)」ですよね。   だから、逆説的に「善い想い」だけを集中的に育てたら、   必然的に「悪魔(邪気)」が縮小し、「愛(気)」が強大に拡がるんです。   簡単な理屈でしょ? 私がSam&Daveを推薦した理由も此処にあるんです。 つまり、愛(慈悲喜捨)の気持ちを集中的に育てることで、心は嫌でも安定に向かうんです。 私はキリスト教のことは無知なんですが「汝の隣人を愛せ」とか博愛の精神が説かれている理由も此処にあると想います。 仏教には「慈悲の瞑想」というのがあります。 http://www.j-theravada.net/pali/key-catu-appamanna-citta.html 私はこのことに気づいたときも、鳥肌が立ちました。 これは精神科学です。 日本の心理療法にも「内観」という瞑想法があります。 感謝の念だけを集中的に育てる瞑想法です。 (ただ、虐待等をされてきた人には、出来ない瞑想だと想いますが・・・) (・・・と、此処で、ちょっと断っておきますが、(本来の)仏教というのは、入会・入信する必要も無いし、どこぞの新興宗教のようにご本尊を置く必要もないし、元々、そんなものも無いんです。≪日本の「坐禅」と同じで!≫、自分で勉強して、かってに努力すればいいんです。 どうか、此処を誤解しないでください。私は会員でも勧誘員でもありません。) でも、こうやって本来の仏教・瞑想の意義を知ると、地下鉄にサリンを撒いた人たちが、どれほど脱線した人たちだか判ってもらえると想います。だって、本当のお釈迦さまの教えは「たとえノコギリで斬られても心を乱すな・・」なんです。 >>でも常に「今、此処の自分」に気付く努力をしていれば、たとえ一瞬、心に隙ができてしまったとしても、極めて初期の段階で軌道修正ができるわけです。そうすれば、しょっちゅう止まったり行き詰ったりすることなく前進できる・・・。 これも仏教語(禅語?)で【無心】って言葉がありますよね。 【無心】というのも、自分以外の何かに心を奪われないという意味なんです。 心が一点に定まらない状態が【無心】なんです。 切り替えの早い状態とでもいいましょうか。 つまり何ものにも囚われ、こだわり、執着のない状態を言うんです。 対義語の【有心(うしん)】は自分以外の何かに心を奪われている状態をいうんです。   >>心の中で「もっと!もっと!」って、お客さんの反応を求めたり   >>「情熱が続かない体質」   こういうときは【有心】なんですね。。。><;   こんなときは、きっと不善心所が在ると想います。 心の中が慈悲喜捨の想いで溢れ、無心の状態になれば 「無欲の勝利」「無欲は大欲に似たり」「無一物無尽蔵」・・・となるんです。 >>でもその一つひとつに動揺する、ということがないですよね、そういえば。 >>単に事実だけを淡々と受け止めてる、って感じで・・。 これが無心、安定、集中力、善の心のパワーというものなんでしょうね。 邪魔が入るに入れない、付け入る隙を与えない状態でしょうね。 この精神が武道にも、仏道にも、勉強にも・・・・全てに通じるんでしょうね。 (私も自分でこうやって書いていて、大変、勉強になります) >>「常に謙虚でいろ」 謙虚という言葉を調べたら、これもやっぱり自己を律し続けなさいということみたいですね。 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B8%AC%B5%F5&kind=jn&mode=0&base=1&row=0 あと、#33に書いた(過去完了:改め)現在完了でイメージするということも心を奪われないためのコツなんですよね。 今、自分には、何の不足もない!とイメージすることで、不善心所から脱して、善心所になり「今、此処」を生きられるので、結果として望みも叶うんです。 集中力・注意力・精神力・愛・気・自律・安定・信頼・今此処・無心・・・と、言葉にするのは難しいですが、精神論にも論拠はあるんですよね。 で、これらが潜在能力も活性化してくれるので、途方もないパワーが湧いてくるんです。 たった、一本のこの道が、全てに通じている真理の道なんです。 camさまにも、いつか、思い出して欲しいんです。 しかし日本の教育には、これがないから営利や、利己的な快楽だけを追い求める「荒れる成人」になってしまうんですよね。このOKWEBも営利目的のサイトなので、いつ、我々の投稿が営利目的に利用されるか判らないという恐怖もありますけどね(彼らは「利用権」を主張してますのでね)。。。 今度、カメラがあったら「カメラを通じて、私の歌がみんなの幸福のお役に立ちますように!」と、少女のように念じながらいくと上手くいくかも知れませんよ(^^;)

camcam
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >仏教というのは、入会・入信する必要も無いし、どこぞの新興宗教のようにご本尊を置く必要もないし、元々、そんなものも無いんです。≪日本の「坐禅」と同じで!≫、自分で勉強して、かってに努力すればいいんです そうなんですか、知りませんでした。よく○○宗教への勧誘とか耳にするんで、仏教も入会だの入信するものだと思ってました。「信じたものだけが救われる」みたいなイメージがありましたからね、宗教には。 世界には色んな宗教がありますが、異なる宗教間の争いは絶えないみたいですね。己がどうあるべきか、どうするべきか、幸せへの道を説いたものが宗教であるならば、それは本来の姿ではないですよね。むしろあるべき姿と逆ですよね。宗教と言っても、「あぁしなさい」「こうしなさい」って言うのを実行しているだけで、結局は本質を知れていないように感じます。「心奪われている」とでも言うのでしょうか、本来あるべき姿を思い描けていないですよね。・・・と、本来のテーマから脱線しちゃいましたね。 >今、自分には、何の不足もない!とイメージすることで、不善心所から脱して、善心所になり「今、此処」を生きられるので、結果として望みも叶うんです。 これって向上心をなくすことにはならないんですかね?向上心を持ち続けないと、人間って成長できないものだと思って、またもやぶしつけな質問をしてしまいました…、すみません。 >日本の教育には、これがないから営利や、利己的な快楽だけを追い求める「荒れる成人」になってしまうんですよね。 全く同感です。教育って、いつも歴史やら計算やら「事実」を押しつけるだけですよね。人間はどうあるべきか、社会でどう生きていくべきなのかは全く触れませんよね。僕はもうすぐ学生を終えますが、持った疑問はそれです。学校って一体なんだったんだろうって。なんとなく就職してみたって、「俺、こんなんでいいのかな」とか「何の為にこんなに働いているんだろ」とか思って、「仕事する気になれない」とひきこもったり、「生きていてもしょうがない」と自殺に走ったりする人は後を絶たないらしいですね。不況というのも相まって、ここ数年の20~30歳台の死亡率のトップは自殺みたいです。・・・僕も自殺を考えたことありますが、結局は「人間、どう生きていくべきか」を知りたかっただけだったのかもしれません。

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回答No.44

あけましておめでとうございます。 昨年末からここで貴重な交流をさせていただいたおかげで、非常に充実した気持ちで新年を迎えることができました。<(_ _)> >回答者の皆様のご回答もある意味「絶対」だと思うのですが、どんな壁も乗り越えるのは自分自身ですから、これから色んな経験をしていく中で、自分なりの解釈を加えて変化していくものなのだと思います。 まさにそうですね。 camさんにとっての真実というのは、camさんご自身の経験なくしては、有り得ませんからね。 なんだか嬉しいです・・camさんの言葉が毎回少しずつ強さを増していくように感じられて。 >白ける能力が凄いんだと想います。 ・・・・思わず、机に突っ伏して爆笑してしまいました・・。 私これ、自分にすごく思い当たるところがあったので。(コンプレックスでした。) それに・・そうですね、確かに!ステージで歌ってる時って、概してどこかしらけてます。いい時ほど、そうです。お客さんの出入りや、表情なんかも全部見えてますし、モニターからの音が聴こえてなかったり、PAのアクシデントがあったり・・・でもその一つひとつに動揺する、ということがないですよね、そういえば。単に事実だけを淡々と受け止めてる、って感じで・・。 逆に、よくなかったステージというのは、「想い」が先行するんです。例えばその前のステージがすごくよかったとしたら、「あの時のあの感じを再現したい!」と知らず知らずの間に強く願ってしまってたり。心の中で「もっと!もっと!」って、お客さんの反応を求めたり。評判がよいと、その次はさらにすごいことをしなきゃ、みたいな気持ちでがんじがらめになったり。いずれにしても、そういう時はもうそれこそ、歌はヘロヘロ、焦ったりあがったりで、なにをやったか覚えてもない、っていう結果になります。 (あと余談ですが、私はカメラがダメで・・・・別に何百人お客さんが観てても平気で歌えるんですけど、カメラが一台回ってるだけでもう・・・魂を奪われてしまいます。(^^; ) Syoさんがおっしゃっているように、やはり何をしてても、この「心が奪われる」ことが敵なんだと思います。 何かに心を奪われると、その瞬間は「今、此処の自分」を生きられなくなる。これが、邪気を呼ぶ、隙をつくる・・・なるほど本当にそうです。心という自分の家が留守、空っぽになるわけですから、極めて侵入されやすい、荒らされやすい状態になるんでしょうね。 ショービジネスの世界にいるとよく「常に謙虚でいろ」というアドバイスを受けるんです。・・私以前はこれを、「向上心を持て」というふうに理解してて、結果、ヘタな向上心がかえって、舞い上がって落ち込んで、というパターンを助長してたんですけど・・・ この「謙虚でいる」ということは、つまりは「今、此処の自分を生きる」、ということなんだと、今確信しました。 実はここ最近、日常生活の中で、ずーっと意識して、実践してることがあるんですよ。 前にSyoさんが言われてた「愚痴を言わない」ことです。 これを実践する努力をしはじめて気がついたことは、ほんとにその最初の一言(愚痴)を口に出して言ったり、心のなかで繰り返しつぶやいたりしなければ、心はずっと平静でいられるし、そうすればその嫌なこと自体、すぐに忘れられるということです。最初の一言を言ってしまうから、感情が暴走して止まらなくなるのであって、客観的事実自体は、自分のもとに来ては去り、また別の事実が来ては去り、・・してるだけなんです。そこに意味をつけ執着するから、歩みが止まってしまうんですね。最近これがクリアに認識できるようになってきました。 ・・・これも結局、同じことですよね。愚痴を言うから心に隙ができて、邪気がはいる。だから嫌悪感情に拍車がかかり、暴走する。 考えてみれば、嫌悪感情に限らず、誰かに恋愛感情をもつ時も私はこのパターンです。「あの人が好き」って言った瞬間に、感情だけが暴走しはじめ止められなくなって、そのことに心をガッポリ奪われて不安定になり、辛くなる。 悩み事なんかも全部、これです。 心に隙ができるから、邪気が入って、不安になったり、悩む、思い詰める、という不安定な状態になり、あげく「死にたい」までくる訳で。もとをたどっていけば「今、此処の自分」を生きない瞬間をつくってしまうことから、すべては始まるんですよね。 でも常に「今、此処の自分」に気付く努力をしていれば、たとえ一瞬、心に隙ができてしまったとしても、極めて初期の段階で軌道修正ができるわけです。そうすれば、しょっちゅう止まったり行き詰ったりすることなく前進できる・・・。 ・・・とまた、ここまで書いてたら分かってきました。 私の「情熱が続かない体質」はここに起因していたんですね!今やっと立体的に見えてきました。 すぐしらける自分が原因でもなければ、自分に酔えない自分が原因でもなかったんだ。(私はこれが、芸術家になりきれない原因だとずっと思ってきたのですが) 「今、此処の自分」を生きる=Feel が弱いから・・・!!すなわち、心が奪われ、「今、此処の自分」を生きてないために迷いが生じ不安定になり、情熱を失ってしまってたんですね・・・!! この前理解したことと、やっとつながりました!! ・・・ほんとうに不思議です。 ひとつの言葉や文は、受け取る側の見方、感じ方によって、その意味が異なるし、また受け取る側の理解のレベルにともなって、何層にもその深さを増していく。 Syoさんの同じ一文が、また私に別のアドバイスをくれました・・・。本当にありがたいです。<(_ _)> >で、さらに坐禅瞑想をすれば、実際に脳が「ピカッーー☆!」とするんです。 これを体験したいんですけどね~・・・(><) (黒猫さんの質問のお礼欄&回答もあらかた、拝読しました。) 今まだ、そうなりたいと欲して焦ってるから(だと思います)、妙にうまくいきません。やはり、機が熟するのを待ちます。 過去に何度か、いい感じで、座って実況中継やってみたんですが・・・、ん~・・・言葉にするかしないか、の差だけで、あんまり普段静かにいる時の精神状態と変わらない、という感覚でした。10分か15分ぐらいしかしなかったし、時間が短かすぎるのかもしれませんね・・・。 ま、深く考えずに、焦ることなく挑戦し続けてみようと思います。 >「真理の教え&実践」・・これ以上のメンヘルは、この世にありません。 こんなものが2500年前からあったんです。私は、これに気づいたとき、感激したのと到達感で本当に泣いたんです。インドの方角を向いて合掌して泣きました。で、お釈迦さまが教えてくれたことは「青い鳥は、最初から、あなたの中にいるんだよ」でした(><; 外に求めて続けていたものが、実は内にあったんです。 本当に・・よくわかります。 私も、「外に求め続けていたものが、内にあった」、これに気がついたときには感激しましたし、信じられませんでした。 少しずつ、一つずつ、発見を繰り返しながらそこへ到達したので、どういう道筋で到達したか、はっきりと思い出せないんです。だけど、この数年は、嬉し涙を何度も流しました。 >未だに、信じられませんが、こんな世界があったんですよね。。。 今まで、誰も教えてくれなかったし、自分でも気づきませんでした。 そうですよね・・・・。 この実践(経験)そのものが師、だからでしょうね、きっと。 経験というのは、自然という我々の意志を超える大きな流れと一体化して、はじめて生まれる。そういう意味では、気付く=気付かされる、ですから。 私も、これに気付く(気付かされる)までに三十何年かかった訳ですけど・・・私にとっては超最短距離だったようにも感じます。どの経験(師)をとっても、この気付きに至るために不必要だったとは、到底考えられないです。 振り返るたび、ただただ・・・・すべてに対して、感謝の想いでいっぱいになります。 (自分がこんなこと言うなんて、昔は想像もしませんでした。(^_^)) すみません、恐ろしく長々と書いてしまいました。

camcam
質問者

お礼

あけましておめでとうございます。 ご回答ありがとうございます。 >Syoさんがおっしゃっているように、やはり何をしてても、この「心が奪われる」ことが敵なんだと思います。 僕はいつも心が奪われてばかりですね。ちょっとしたことに腹を立て、好きな女性には気持ちばかりが先走る・・・本当に心を鍛えなければいけませんよね。色々勉強して、瞑想もきちんとやりたいと思います。 でも曲を書くときはどうしても心がそれに奪われますね。1時間でも2時間でもひたすら、納得いくまでやってしましますね。没頭ってやつです。心奪われるじゃなくて、これがFEELって状態なのでしょうか?頭で考えてどうこうってわけじゃないので・・・、どうなのでしょうかね? >ひとつの言葉や文は、受け取る側の見方、感じ方によって、その意味が異なるし、また受け取る側の理解のレベルにともなって、何層にもその深さを増していく。 全くその通りだと思います。理解したと思っていても、時間をおいて読んでみると違った側面が見えたりして、深さを増していきますね。そしてその深さには底が無いというか・・・、不思議ですよね。―だからなんか最近はすごい歌詞を気にするんですよね、人の曲を聴くにしても自分が書くにしても。一時期は歌詞なんかより、圧倒的に曲が大事だと思ってたんですけどね。言葉の持つ力というものを、最近はすごく感じてます。

  • Syo-ya
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回答No.43

camさまも、floさまも、明けましておめでとうございます。 そうですか、腑に落ちてきませんでしたか、まあ無理に落とすこともありませんが、一応、追加説明をさせてください。(私にもfloさまのように本質をズバリと表現できる能力があればいいんですが・・) これまでにも「それはボートの外のこと」とか「空気のように軽いものでも、嫉妬に憑かれた男には、聖書の言葉と同じ重みをもってくる」「武道の世界でも、相手の攻撃に対して一瞬でも心が止まれば、そこに隙が出来るので、すぐにやられてしまうそうです」と表現してきました。 良いものでも、悪いものでも、普通のものでも、自分以外の何かに心を奪われると人間はやっぱり不安定になってしまうものなんです。 たとえば美しいものに心を奪われた人は、美しく無いものを見た場合に「汚い!」と想うようになってしまうんです。だって花を愛でる人が同時に雑草を抜く人なんです。「美」と「醜」の感覚は双子の兄弟なんです。 分別・差別が始まるんです。 つまり心が不安定になるんです。 仮に音楽で大成功したとします。 周囲からチヤホヤされて、天才扱いされて、全てを手中に収めて、そんな自分に酔ってしまったとします。 そうすると、「俺は天才である」という慢心も芽生えてしまうんです。 でも「やっぱ、ダセーや」「お前は、もう古い」といわれたら、逆に、めちゃくちゃ落ち込むんです。 そして絶望して自殺です。天国から地獄です。 舞い上がるか、落ち込むかだけになってしまうんです。 心を安定させる要素が「愛(気)」だとしたら、 人を不安定にさせる要素は「悪魔(邪気)」です。 (ちなみに仏教にこんな解釈はありません) 良いものでも、悪いものでも、普通のものでも、新しいものでも、古いものでも、何かに心を奪われたら、そこに「悪魔(邪気)」が侵入するんです。そうすると、必然的に、舞い上がるか落ち込むかだけの不安定な心になってしまうんです。 No27の図を思い出してみてください。 不安定になると愚痴や文句ばかり言う人間になってしまうんです。 「塞翁が馬」と割り切ることも出来なくなるんです。 「悪魔(邪気)」の浸入により心が不安定になってしまうからです。 だから切り替えを早くして、「すぐに覚める(冷める)」「白ける」「我に帰る」「今、此処の自分に戻る」ことが大切なんです。そうすることによって不安定から、安定へとスイッチが入れ替わるので、それが、結局は自他の利益になるんです。「悪魔(邪気)」の侵入経路を絶つんです。 脳で言えば、常に平常心神経を働かせている状態と言えるのでしょう。 >>つまりは、すべての基盤である「愛(気)」を強化する為に、 >>一旦、「今、此処の自分」以外のものから焦点をはずすことが必要なんだと思います。 floさまの、この表現はみごとに本質をズバリと突いていると想います。<(_ _)> やっぱり歌手とかは客が途中で帰ったり、無礼な客が居たり、歌を聴いていなかったりして、いろいろあっても「 Show must go on 」ですから、この切り替えが早いんだと想います。常に何処か白けていないと歌詞も忘れてしまうだろから、白ける能力が凄いんだと想います。私なんかは、すぐに思い詰めて、茹で蛙のように赤くなる能力が凄いんですが。。。。 ・・・と、こんな感じです。 でも、No41にも書きましたように、人間は、欲を叶えたら、気持ちよくなると誰もが信じているので、やっぱり、自分以外の何かに心を奪われてしまうんです。(私も弱点だらけです^^) これは、仏教では【渇愛】といって、砂漠で水を求めるような、抑えがたい強烈な飢えであると言います。 言い換えると【渇愛】が「悪魔(邪気)」の侵入経路になって、心を不安定に乱すんです。 そうすると、自分の心の安定は他律的に果たせるものだと錯覚してしまい、他律的な支配下に入ります。 が、自分以外のものって儚いものなので、供給源がなくなれば「愛:気:慈悲喜捨」が枯渇してしまうんです。だから「愛(気)」を自給する必要があるんです。。。。と、いう、No24の話に戻るんです。 【身体がむらむらするのを、守り落ち着けよ、身体について慎んでおれ】 【言葉がむらむらするのを、守り落ち着けよ、言葉について慎んでおれ】 【心がむらむらするのを、守り落ち着けよ、心について慎んでおれ】 ・・・・なんて言葉もあるんです。 大切なのは我慢ではなくて、「忍耐」「克己修身」です。 以上で、この説明は終わります。m(_ _)m floさま、 >>・・・実はすごく意外だったんですよ そうですかね^^; サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」も考えたんですが、ちょっとジメジメしてる思い詰めた感じがありますね。ちなみにラジオで森高千里の「渡良瀬橋」が流れていたんですが、聞くに堪えなかったです。 http://www.e-tabisaki.com/watarase.htm >>結局は、愛を与える側の人間の、心の状態にかかってるんでしょうね。 ここが難しいところですね(似非に注意ですね) これまでも「世のタメ、人のタメ」と言いつつも「人のタメになることは、人をダメにする」と書いてます。完全に矛盾したことを書いてますけど、両方とも真理ですよね。結局は発信側も受信側も心が安定しているか、いないか? で決まるんですよね。。。 確かに、他律的なホールド・オンの「共依存」という概念もあります http://trauma.or.tv/1kouisho/6.html URLには、いろいろ難しく書いてありますが、早い話、自律心の衰弱・不安定なんですね。 なんで、こうなるか?というと、やっぱり、真理を知らないからだと想うんです。 真理を知らない、無明だから、めちゃくちゃになってしまうんだと想います。  >>「あぁ!自分の心が自分のもとにないから、不安なんだ!」と。  この悟りの体験を、みんなにも伝えたいですね。^^ >>この繰り返しだけなんですが、昔の何十倍も、何百倍も、強く、安定した自分がいます ですよね。 大切なのは腑に落ちることであって、そうすると迷いが無くなって心は安定に向かいますよね。 やっぱり「正しいことわり(真理)」は「愛(気)」の波動に満ちているんでしょうね。。。 で、さらに坐禅瞑想をすれば、実際に脳が「ピカッーー☆!」とするんです。 「あれ? 此処は何処?」「今まで、何をやってたの??」「あれ? 俺、生きてるじゃん!」というくらいの覚醒体験が、本当ーーー!に出来るんです。 こちらの#13を一読してください。 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1156213 本当は#12のお礼欄に、質問者である黒猫さんの覚醒体験が書いてあったんですが、管理者から削除されたしまったんです。(#15のお礼欄でちょっとだけ触れてますが) こういう状態になると思い詰めることもなくなり、THINKからFEELになるんです。 「真理の教え&実践」・・これ以上のメンヘルは、この世にありません。 こんなものが2500年前からあったんです。私は、これに気づいたとき、感激したのと到達感で本当に泣いたんです。インドの方角を向いて合掌して泣きました。で、お釈迦さまが教えてくれたことは「青い鳥は、最初から、あなたの中にいるんだよ」でした(><; 外に求めて続けていたものが、実は内にあったんです。 未だに、信じられませんが、こんな世界があったんですよね。。。 今まで、誰も教えてくれなかったし、自分でも気づきませんでした。 日本に来たのは大乗仏教という新興の仏教なので、日本人は、かなり損をしてきたと想います。 ちなみに「上座仏教(テーラワーダ)」という南方アジア圏に伝わっているのが伝統仏教です。 >>仏教の本を一冊も持ってらっしゃらない、というのは本当に驚きです。 いや、これは経済的理由なんですよ。(^^; 今後は、いつでも読めるように価値ある本だったら買いたいと想います。 ちなみに、この本は買っちゃいました。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003330218/249-8313942-3247527 >>(笑)アハハハ・・・ホントですね。(^0^) これは、本当に凄いことだと想います。 これこそ忍耐だし、小悟だと想います。 では、みなさま、よいお年でありますように。

camcam
質問者

お礼

あけましておめでとうございます。 ご回答ありがとうございます。 >腑に落ちてきませんでしたか、まあ無理に落とすこともありませんが、一応、追加説明をさせてください。 すみません、また説明していただいてしまって。いわんとしていることは何となく解るのですが、どうも1本の線で繋がらないんですよね…。まぁ色んなことを経験していくなかで、少しずつ繋がっていくのだと思ってます。 そして過去の話のことも話されているので、またか過去のものを読んでみようと思います。そのとき読んだときと、また違った解釈・捉え方ができるかもしれませんし、1本の線で繋がるきっかけになるかもわかりません。 >坐禅瞑想をすれば、実際に脳が「ピカッーー☆!」とするんです。 しばらく生きている感じがしない生活が続いてましたから、瞑想は正しいやり方できちんと行い、生きているという実感を味わいたいですね。覚醒体験ができるように、努力したいと思います。

  • floating
  • ベストアンサー率45% (18/40)
回答No.42

>どうして自分が経験するまで、「今」の大切さに気づけなかったんでしょう。愚かでした。歌にしろ詩にしろ、自分とリンクさせる何かっていうのは重要なのですね。 そうなんです。重要どころか・・・これ(経験)があって初めて、全てが意味を成すんです。(^-^) >そして愛について考えていて思ったのが、「やっぱり愛されたい」ということです。別に自分以外の何かに頼ってどうしたいというわけじゃないんです。僕を受け止めてほしいんです、想いを受け止めてほしいんです。受け流さずに受け止めることは愛だと思うんです。その愛がまた僕を強くしてくれるような、そんな気がするんです。例え失うものがあっても、そこには必要なものだけがあるはずです。 ほんとに・・・・・・思考回路がよく似てますね。私もおんなじような事、言ってました・・。(笑) 私は今は、その「受け止めてほしい」という想いが自分を苦しめる、ということを知っているので、自分から発された後のことは極力考えないようにしてます。 ただ、だからといって、質問者さんのおっしゃってることが間違ってる、とは思わないんです。・・・というのは、物事を深く理解するにつれ、最初に自分が本能的に(とでもいいますか・・)感じた超シンプルな欲求や意見、結論に再び行き着くことがあるんですよね・・。 人生が、成長していくプロセスであるように、意見や結論もその変わり行く途中のある時点においての「暫定的意見、結論」にすぎないと思うんです。今現在の結論を「絶対」と捉えてしまうと、それもまた、自分の成長を止めることになるし、また自分の可能性を狭めることになるので・・・・今の自分の結論に縛られることなく、常にいろいろな意見や物の見方に対して心を開いていよう、柔軟でいよう、と思ってます。 が、今はとにかく、まず本当の意味で「愛すること」ができる自分を目指し、それに焦点をしぼって努力してます。 結局、SyoさんがNo.41、42でおっしゃってることと同じことだと思うんです。 >だからこそ、その次の「>>自分を律することだけに精進すると・・」が生きてくるんです つまりは、すべての基盤である「愛(気)」を強化する為に、一旦、「今、此処の自分」以外のものから焦点をはずすことが必要なんだと思います。愛することができる自分になってはじめて、愛を受けとることが可能になってくる。自分の心が安定して初めて、どんな不安定な想いにも動じず応えることができる・・・・・・そういうことだと思うんです。 ・・・実はすごく意外だったんですよ、Syoさんが愛(慈悲喜捨)の歌としてSam&DaveのHold Onを例に出してらっしゃったのが。歌詞を読んで、私はむしろこの詞を他律的な想いだと感じたんです。 でも今、質問者さんへの返信を書いてたら、だんだん納得がいってきました。 結局は、愛を与える側の人間の、心の状態にかかってるんでしょうね。 他律的な「愛のようなもの」も、自律的な本物の愛も、その外形は同じなのかもしれない。 決定的な違いは、その愛を与える本人が、心の筋力をもっているかどうか、・・それだけなのかもしれませんね・・・。 私は本をあまり読まない代わりに、こうやって人とのコミュニケーションの中で、いつもたくさんのヒントを得ているんです。 ヒントを得て、考え、理解に到達し、さらに自分の経験を通して本当の理解をしていく。・・・この繰り返しだけなんですが、昔の何十倍も、何百倍も、強く、安定した自分がいます。貯金もほとんどないし(笑)、何の金目の財産もないけれど、すごく豊かな気持ちです。しかも楽しいです。(そもそも私は、「たたみ一畳分あれば、あんたは暮らせる」と人に言われたほど、ただじーっと座って考え事してるだけで楽しい、っていうような人間なので。笑) >ニュートンみたい^^ (笑)アハハハ・・・ホントですね。(^0^) Syoさんが仏教の本を一冊も持ってらっしゃらない、というのは本当に驚きです。 やはり有形の「物」を所有することには意味がない(むしろ執着、という害になる)。自分が学び、得た無形の物こそが、一生失うことのない財産であり、宝である、と・・・再確認しました。 やっぱ、すごいです・・・・・ご本人、気付いてらっしゃるかどうか分かりませんが、本当に大きな愛を持った方ですよ、Syoさんは。

camcam
質問者

お礼

お礼が大変遅れまして、誠に申し訳ございません。 ご回答ありがとうございます。 >意見や結論もその変わり行く途中のある時点においての「暫定的意見、結論」にすぎないと思うんです。今現在の結論を「絶対」と捉えてしまうと、それもまた、自分の成長を止めることになるし、また自分の可能性を狭めることになる おっしゃる通りだと思います。事実、僕もここ何年かで考え方がどんどん変わっていってますから。回答者の皆様のご回答もある意味「絶対」だと思うのですが、どんな壁も乗り越えるのは自分自身ですから、これから色んな経験をしていく中で、自分なりの解釈を加えて変化していくものなのだと思います。 >他律的な「愛のようなもの」も、自律的な本物の愛も、その外形は同じなのかもしれない。 僕はそう思います。だからこそ愛って難しいのだと思います。簡単に区別できたら、愛で苦しむことなんてもっと少ないのではないかと思います。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.41

>自分以外の何かは、何も与えてくれないどころか、奪うだけだ >>そんなことはないと、僕は信じたいです。 なるほど、そういう解釈できましたか・・・^^; 仰ってる意味も良くわかるんですが、私の言っていることもよく読んで理解して欲しいんです。 この武士と皿の話は、ようするに「たるんでるぞ!」「現(うつつ)を抜かすな!」「気を抜くな」「喝ーっ!」・・・ってことなんです。だからこそ、その次の「>>自分を律することだけに精進すると・・」が生きてくるんです(我田引水ですが^^; だって、この武士はたかが皿一枚のために、女中さんを手打ちにしかねなかったんです。手打ちといえば、死刑です。地球にさえ何の保障もない諸行無常の世の中で、いくら家宝とは言え、お皿一枚のために人を殺すなんてどうかしてます。「お皿」といえば世界中で割れる、壊れるの代名詞のようなものじゃないですか。 「なんでそうなるのか?」というと、現(うつつ)を抜かしていたからです。 「現(うつつ)を抜かす」は、今、此処に生きていなかったということです。 放逸に耽っていた。のぼせていた。興奮していた。気が緩んでいた。慢心していた。ありのままがありのままに見れなかった・・・ということです。 だから禅宗では「喝ーっ!」と言って眼を覚まさすんです。 「たるんでる!」「自分を律しなさい!」「眼を覚ましなさい!」ということです。 幸いにも、この武士は、それに気づいて、それを恥じて、残りの9枚を自ら割ったんです。 自分で自分に喝を入れたんです。 水鳥も、こうやって常に自分を律しているから、優雅に泳いでいるように見えるんです。 ・・・私がしたのは、こういうお話です。 腑に落ちましたか? でも、質問者さまの言わんとしていることも理解できます。 自分以外のものを拒絶しろとか、否定しろと言ってるのではないんです。 素晴らしいお皿は在っていいし、持ってても良いんです。 「素晴らしいな~」「味わい深いな~」と鑑賞してもいいんです。 自分以外のものに影響を受けるな、排除しろと言ってるのではないんです。 仏教では【中道】と言いますが”好い加減”に、”適当にしなさい”ということです。 「いい加減」とは「ちょうどいい加減」、「適当」とは「当たり適した」という意味であって、ふざけろという意味ではありませんので誤解なく。 たとえば、好きな女性がいたとしても、健康的に道狂(彼女狂)になるのは良いんですが、 思い詰めた、不健康な恋愛をしてはいけないということです。 お皿が好きなら、皿狂になってもいいんです。 健康的な皿狂ならば、お皿が割れても「ああ、皿は割れて当たり前だから、気にしなくていいよ、次は気をつけてね」となるんです。 これが当たり適した、いい加減な、自律的、支配者的、自然の摂理に則った対応です。 でも不安定だったり、不健康だったり、執着を持った人は、これが出来ないんです。 「この皿がどんな皿だか知っているのかぁー!」 「先祖代々伝わってきた、我が家の家宝だぞぉー!」となってしまうんです。 そうすると、人の命も、簡単に奪ってしまうようになるんです。 さっきの武士も、残りの9枚を割ってしまったということは、後者の感情に近かったんでしょうね。 よっぽど動揺したんでしょう。サラっと流すことが出来なかったんでしょうね・・・・・・ 【中道】とは極端を避けなさいということです。 思い詰めるな。根に持つな。想い患うな、健康的なバランスを保ちなさいということです。 好きなら好きで良いし、嫌いなら嫌いで良いけど、執着したり、思い詰めてはいけませんよ。 音楽馬鹿でもいいし、道狂に成ってもいいけど、でも思い詰めるな、明るくいきなさいということでしょう。 なぜならば、この宇宙の全ては移ろっているからです。 ・・というようなのが【中道】です。 子どもや、健康な状態の人なら当たり前に出来ていることばかりなんです。   ・・・が、「老病死」にも中道を貫かなくてはいけないので、大変なんですね。   最期の瞬間まで心は健やかで「平気」でいなさいということなんでしょうけどね。。 脳で言えば平常心神経の働きも活発で、切り替えが早い状態をいうのだと想います。 「ああ、素晴らしかった!」 → 「覚める(冷める)」 「ああ、腹が立った!」   → 「覚める(冷める)」 「ああ、感動した!」    → 「覚める(冷める)」 この切り替えができないと、心の病、性格のゆがみ、認知のズレになってしまうんです。 そして、それが原因となって結果となるんです。 でも、この切り替えができない人が大半なんです。 事実、脳細胞というのは、興奮性の細胞ですから興奮(ON)か、鎮静(OFF)しかないんです。 だから知識だけでは駄目で、座禅瞑想をして<「健脳法」>をしなさいということなんです。 こんな説明で通じたでしょうか? 他にも何か引っかかるところがありましたら、お礼欄だと文字数制限があるでしょうから、補足欄も使ってください。

camcam
質問者

お礼

お礼が大変遅れまして、誠に申し訳ございません。 ご回答ありがとうございます。 >・・・私がしたのは、こういうお話です。 腑に落ちましたか? 腑に落ちたと言うか・・・、だいたいは理解できたんじゃないかなという感じです。深いですね。結論だけいえば、「極端を避け、今此処に生きろ」ってことだと思うんですが、いまひとつ「自分以外の何かは、何も与えてくれないどころか、奪うだけだ」ということと繋がりません。なんかぼんやりとした部分があります。長々と説明していただいたのに申し訳ございません。 >でも、この切り替えができない人が大半なんです。 なんか今の世の中を見てると、わかるような気がします。傷害・殺人事件の犯人の動機とか、本当に些細なことですものね。ちょっとしたことに執着してしまったが故の事件ですよね。心は健やかでいられるように努力したいと思います。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.40

>>・・・こんな当たり前のことなんですが、私にとっては世紀の大発見でした。 いやあ、凄いですね。 こんな話を伺えるなんて、質問者さまはこの質問をして本当にラッキーだと想いますね。 これこそが「智慧」ですから、絶対に、肝に銘じるべきです(一生涯) ボーカルとか役者、武道をやる人ってやっぱり度胸が要るからでしょうかね。 客の顔色でびくついていては出来ないから、そこらへんのバランス能力も養われているんでしょね。 あと下っ腹から声を出すでしょうから、姿勢も良いだろうし、丹田(胎)も坐っているのでしょう。 「姿勢の不思議」なんて本もありますが、正しい姿勢をとると、「下っ腹(丹田)」も坐ってくるし、背骨も伸びるしで、心にも影響してくるんです。(これも繋がっているんです) で、これから、確実に我々にも「老・病・死」がやってきます。 質問者さまだって、また不慮の事故に遭うかも知れません(共に遭わないことを祈りますが) 仏教では「四苦八苦」と言って、生きてる限りは乗り越えなくてはいけない山がたくさんあるので、生きてる限りは「これで終わり」ということはないので、不断に努力していかなくてはいけないので、面倒なところですけどね。。。 でも、たとえば優雅に見える白鳥も水面下では、常に足をバタバタ動かしているんですね。 シンクロナイズド・スイミングもそうですよね。 歌手だってそうだと想います。気持ちよさそうに歌っていても、どこか覚めていて自制していると想います。 美空ひばりさんのラストステージは本来ならば体調不良で歌えるような健康状態でないのに、なにごとも無かったように普通に歌って見せたんですよね。 傍目には華麗に見えることも、それには不断の努力(精進)があってのことなんです。 「隣の芝生は青く見える」といいますが、実際には青さを保つ不断の努力をしているんです。 ヘレンケラーだって奇跡の人ではなくて、努力の人だったんです。 この世の中には偶然に出来るものはないんです。 つまり、我々も常に足をバタバタさせながら、最期まで自分の軌跡を描いていくしかないですね。 お釈迦さまでさえ、最期は食中毒の痛みと戦いながら死んでいったんです。 >>以来、自分の意識を常に「今、此処の自分」に向ける努力をし始めたら お釈迦さまの最期もジッと瞑想して、この努力をしていたんです。 で、【忍耐】と【我慢】は違うんです。 【忍耐】は不安定な自分の心に気づき、それを覚ますことによって、安定に統治するための努力です。 floさまが独力で到達した世界です。【我慢】はこんな感じです。 http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/gaman.htm No.27で紹介した少年も眠っているワケではなくて、ずっと忍耐しているんです。 ちゃんと、正しい方法の忍耐をしてれば、本当に心は安定に向かうんです。 脳波学の故)品川嘉也教授の著書によりますと、中国の気功師に瞑想してもらったら、アルファ波を通り越して脳死状態の脳波を示したのだそうです。 だから、そうなると「想う」ということも尽きてしまうんです。たぶん少年も、そんな感じになっていると想います(6ヶ月というのは眉唾だとしても) ・・まあ、これらは特筆するような話ですが、我々にも不断の忍耐が必須なんです。 忍耐が出来ないと、簡単にきれたり、いつまでも根に持って恨んだり、呪ってしまうんです。 自分以外の何かに想いを馳せてしまうんですね。。。。奴隷になってしまうですね。 こうなるとセロトニン神経も衰弱するのかも知れません。 >>彼のいる町や彼の写真を見て心を馳せている自分を客観的にみて、その瞬間、気がついたんです。 >>「あぁ!自分の心が自分のもとにないから、不安なんだ!」と。 天才ですよ、これは。<(_ _)> ニュートンみたい^^ 受け売りの話ですが、ある武士が家宝にしていた10枚セットの皿の1枚を女中さんに割られてしまったことに腹を立てたのだそうですが、たかが「皿」に心を奪われていた自分に気づき、それを恥じて、残った9枚の皿も割ってしまったという話もあります。武士は常に死を覚悟していなければいけないのに、それでも、たかが皿に心を馳せてしまったんですね。 自分以外の何かは、何も与えてくれないどころか、奪うだけだと悟ってしまい、自分を律することだけに精進すると、欲目がなくなり、無執着・無一物になって、さらに「捨て身」になれるので、公利公益のために働き、愛(気)も強くなり、武士道にも、ビジネスにも、人生全般に通じてくるんです。 でも、普通は【無明】と言って、ほとんどの人は気がついていないんです。 だって欲を叶えたら、気持ちよくなると誰もが信じているんです。 それが覚めたら、人生なんて退屈でつまらないから、なんとしてでも欲に執着するんです。 精神の安定は他律的に果たされるものだと錯覚しているからでしょう。 だから、不安定な自分を律することなく、自分以外の何かに頼ってしまい、欲目が強まり、「保身」に走るので、他人を利用し、他人に要求するような、気弱で、依存的、利己的な人間になってしまうんです。 で、やっぱり、自分を律することって、とても辛いことなんです。 だって、みんな、”それなりに”自分は被害者だと信じているからです。 「自分の想い通りにならなかった」という意味では、み~んな被害者なんです。 「xxに縁って起こっているのに、なんで俺が悪いんじゃ!」となるんです。 ここの一線を超えるのが大変難しいですね。 特に狂った親に育てられたり、幼い頃から理不尽な扱いを受けて育つと自覚症状が無いうちから、心が捻じ曲げられてしまうので、とても難しいと想います。どうしても愚痴ってしまうからです。 だからこそ、論理的に理解することが必要になってくると想うんです。 お仕着せの価値観、人の心を玩具のように型枠にはめるやり方ではダメだと想うんです。 ちゃんと物事の道理、筋道を順を追って説明しないと、腑に落ちないと想うんです。 >>10年前の私がこれを読んでも、「プラス思考する為のつじつま合わせ」ぐらいにしか思わなかったでしょうから・・・・。 この言葉にもたいへん共感がもてます。 私は仏教に出会って、それまで勉強してきたことも全てが論理的に一本の線で繋がったので、本当に良かったと想っています。 が、繋がりすぎてて、逆にこれを伝えるのは、大変、難しいですね。。。。 >>おそらくこのことではないか、と直感的に想いました。 そのとおりです。 floさんにも繋がりが観えるんですね。 >>「生きて死ぬ智慧」、書店で見つけたので買っちゃいました。 お金もちですね^^、ちなみに私は今のところ仏教関係の本は一冊も持っていないんです。 全部、図書館で借りているので、無料なんです。(苦笑) >ここに質問してから、愛とは何か考えていたんです。 仏教では「愛」とは言わないで「慈悲喜捨」っていうんです。 http://www.j-theravada.net/kogi/kogi5.html 「愛」は裏切られると怒りに変わるだけの移ろいやすいものですから、愛するなという立場です。 まあ、言葉の定義の問題なんでしょうけどね。 キリスト教でも愛は「エロス」と「アガペー」の二種類に別れるみたいですね。 >>今まで平気で歌ってたラブソングが歌えなくなりました 私が想う「愛(慈悲喜捨)の歌」というと、これでしょうかね。 http://www.eigo21.com/03/pops/holdon_sam.htm あと、クレージキャッツの「金の無いやつあ~俺んとこへ来い!」でしょうか。 こういのがみんなを幸せな気持ちにするお仕着せでない、与える愛(慈悲)でしょうね。 「愛(気)」も強大で、捨て身で、献身的で、利他的で、欲目がなく、安定のための働きなんです。 「待ってろよ、俺が行くから安心しろ!」(金は無いけど、力になるよ) 「此処に、俺が(私が)居るぜ!」ってね。^^ 福沢諭吉も「独立の気概無き者は国を思うこと深切ならず」と言ってます。 「俺がやらないで誰がやる!」という気概が、「愛(気)」なんだと想います。 もちろん理性に裏づけされていないといけませんが。 こういう気持ちが、いつでも自然に出てくる少年の頃のような自分に成りたいものですね。

camcam
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >これこそが「智慧」ですから、絶対に、肝に銘じるべきです もちろんです。一生大切にするべきものだと思ってます。ここに来るたび、回答を読むたびに新しい発見があります。本当に素晴らしき智慧をありがとうございます。 >傍目には華麗に見えることも、それには不断の努力(精進)があってのことなんです。 僕は「自分はこんなに努力してるんだだから、誰か認めてくれ」って思っていたような気がします。努力してるつもりだとかなんとか、口に出すべきようなことを平気で言うバカでしたね。実力じゃなくて、努力を認めてもらってどうするつもりだったのでしょうかね。 でも、ここに質問して心が少しずつ良い方向に向かい始めてからは、同じ努力でも成長の度合いが違いますね。絶望感に満ちていた頃は、歌にしろギターにしろ、いくらやっても上達しませんでした。ところが今は、練習するたびに上達していくのがすごいよくわかるのです。練習の質を変えたわけじゃないのですが…。またもや心というものの大事さを痛感いたしました。 >自分以外の何かは、何も与えてくれないどころか、奪うだけだ そんなことはないと、僕は信じたいです。なぜなら僕自身、音楽によって人々に勇気や愛、感動を与えたいと思っているからです。受け止めてほしいんです。例え奪われても、代わりに今までそこには無かった何かがあると信じたいです。

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