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価値の哲学

価値そのものに関する考察も、そろそろ結論を出さねばなりません。 現在、結論を出すとすれば、「価値にそのものについて言うことは出来ない」と言うことになります。 ただ最後に、お聞きしたいことは、以下の一点です。 価値は多義的な言葉ですが、量的意味が有ること。 つまり現実的には、価値評価によって量的比較を行っているという事実と、理論的には、量を測る為には、質的統一が必要だということ、---長さを重さで測られないように、有用性や希少性、美的価値といった、質の違ったものを量的に比較することの不可能性、---この矛盾をどう解決できるのかという問題です。 お時間が有りましたら、価値一般についてもご意見アドバイスをお願いします。

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回答No.2

これまでfishbowl66さんのご質問とそれに対する回答には、ジンメルを除いてほとんど参考文献があがっていませんね。今回が最後になるようですので、私も最後に参加させていただきますが、僭越ながら文末に、参考文献を挙げてみました。(fishbowl66さんはもうお読みになっている可能性大ですが・・・) さて、今回のご質問を拝見して、おそらくまだ「価値」の質的多義性の問題を誤解されているように感じました。つまり、そもそも「価値」の多義性は質の多義性によるものだと思うのです。以下、参考文献を下敷きに価値の質的多義性を整理し、価値とはどういうものかを検討したいと思います。 1 前提(確認) 「価値」とは「よさ」のことである。「価値」が多義的であるのは、この「よさ」がそもそも多義的なのではないか。日本語で「よし」を表しうるものは、「可、吉、良、善、由、好、芳、佳、義、美」など多数あることがわかる。つまり、「よさ」の質は多種多様である。 価値という漢字は、本来は経済的用語である。それゆえ、たしかにすべての種類の「よさ」を経済的価値とみなすむきがあるが、価値哲学という観点からは、経済的価値、生命的価値というよりも、文化価値を巡る議論を検討する必要がある。 「ロックに端を発しアダム・スミスを経てマルクスによって批判的に受け止められる労働価値説において価値は社会的に使用価値から交換価値すなわち市場における価値へと変動するが、これによって価値本来の意味は見失われる。」 人間の三つの心的要素として知性と感情と意志という三区分がある。これは意識の複雑さを示している。つまり、これは意識の作用と内容に応じて区分されているが、しかしこれらの要素は意識において相互に連関しているものである。知情意という三区分はそれに応じた内容的な区分として真善美という三つの価値を連想させる。つまり、知的活動にはさまざまな相があるが、その素材は様々なレヴェルの感覚あるいは感情に基づくものである。 つまり、「真・善・美」という文化価値は、その「存在」にはなく、あくまでも「妥当性」、「そう思われるかどうか」にある。価値は感じられるものであり、換言すれば、価値は感情を通して示されるものである。 (しかし、このなかでも真理感は、審美感とも道徳感とも質を異にしており、特殊な位置を占める。というのも真理感情は、正誤あるいは真偽を判別することに関わるからだ。この木は美しいとか、この人は善いとか言うのと同様に、この判断は真である、ということはできる。他方、この木が美しいことは真であり、この人が善いことは真であるとはいえても、この判断が真であることは美しいとか善であるとかは言うことはできない。) 2 客観的な価値序列 シェーラーは客観的な価値序列の存在を力説する。その序列決定の基準は次のようになる。 (1) 永続的な価値ほど高い (2) 非分割的な価値ほど高い (3) 他の価値によって基礎付けられない価値ほど高い (4) 感得した際に与えられる満足の深い価値ほど高い (5) 感性的な現存在に制限されることの少ない価値ほど高い 価値は感じられなければ与えられないが、客観的に与えられるためには利害関係や利己的関心を脱却しなくてはならない。シェーラーは、価値は感性的な存在に制約されることの少ないものほど高次であるという。要するに、感覚的な快適価値よりは生命価値の方が高く、生命価値よりは精神的価値の方が高く、精神的価値のなかでは宗教的な聖価値が最高である。こうしてシェーラーは、実質としての価値のアプリオリ性を説く。 3 個人の状況と価値感 確かにこうした客観的価値序列はある。しかし、現実の価値の決定は、その都度どこかに重心がおかれていて、各人の置かれた状況に基づく。より善く生きることはいつでも、序列的により高い価値の実現を志向することではない。たとえば、文化価値は一般的には経済的価値より高いが、しかしそうであるからといって、常に文化価値の実現が選ばれるべきであるとは言えない。たとえば、飢えた者が直接に必要としているのは芸術ではなく食物である。また、病気の芸術家が無理をして仕事をしている場合に、それを「悪」であると見なすことができないのは、その芸術家にとっては生命価値よりも高い価値がその営為に感じられているからである。このように価値は選択される。 つまり、価値にも序列があり、客観的な議論が可能であると言えるが、しかしその実現においては、常に状況により左右される価値感でしかないと言える。 参照: 講座哲学 4・価値の哲学 小倉志祥編 東京大学出版会1973年 まだ理解不足な点があるとは思いますが、大変勉強になりました。ちなみに100円の本ですが、大変な恩恵を受けています・・・

noname#15238
質問者

お礼

「価値の哲学」ですか、そのものズバリですね。 なぜ今まで気が付かなかったのか、表題が「講座哲学」のせいでしょうね。 3年前にこの本に出会っていれば、と言う想いもしますが、おそらく、3年前にはこの本を全く理解できなかったかもしれません。「価値の哲学」(私の質問)は、価値の語源から始まり、価値の主観性・感情をへて、アプリオリの問題へと移っていたようです、この本(序論)には、そのほとんどが入っています。 価値は、なくしたときに気が付くのと同様、探し物は、諦めた時に見つかるのでしょうか?不思議な偶然としかいえません。 価値は「良い」ではなく「良さ」であるという点は大事だと思います。 但し、以下の一点を、再度確認したいと考えます。 「良さ」とは、主観的に考えられたことか、客観的に妥当することかを、 一読しただけですので、この点の記述が曖昧なのか、私の理解不足か、この点何度も読み直す必要があります。 「良い」や「良さ」と同様、「悪い」や「悪さ」に価値を認める主観の存在は、この本の中にもあったような気がします、そうなると、客観的に「良い」と「悪い」の質的違いを主観的に「良さ」に通約して比較するのか?その場合、アプリオリ性が存在するのか?最後の質問と宣言したことを後悔しています(笑。 この序論の最後の言葉、選択と比較の違いは有りますが、私の質問と意図的には同義と感じるのは私の偏見でしょうか。問題は、「内的行為」とそれ以前の記述の、カントの「汎通的規定の原則」この点の理解不足にあるのかもしれませんし、選択と比較の違いもよく考える必要があるようです。 不満は、価値客体と価値主体の距離の問題が欠けていますが、アプリオリ性を考える上では重要だとは思いますが、贅沢の言いすぎですね。 結論的には、「良さ」とか「高さ」といった言葉で、上手く、「誤魔化された」気もしますが、ある意味上手く騙されたと言う爽快感かあります。 感謝・感謝。 お礼(この本)は100円(文字)ですって、1000文字と3000円のしか見つかりませんね(笑。

noname#15238
質問者

補足

忘れ物をしていました、何度も済みません。 「真理感」これが感情と言うことに違和感を感じました、確かに感情と意識の区別ははっきり線引きできないのですが、「真理」については、感情と言うより意識に近いような気がしますが、どう感じられました? 時間があればお願いします。

その他の回答 (11)

回答No.1

こんにちは。 >現実的には、価値評価によって量的比較を行っている と書かれていますが、比較を行うのはいいとして、それが量的だとお考えになるのはどういう理由からでしょうか?

noname#15238
質問者

お礼

質問を締め切る時期がきましたが、 今、考えると、量に拘っていたことが理解できました。 「質」の違いか、快感情の「量」または「強度」違いか、 難しいですね、少し偏っていたことを反省しています。 有難うございます。

noname#15238
質問者

補足

補足が遅くなり、失礼しました。 経験上当然で説明の必要も無いと考えていましたが、あらためて説明しようとすると、意外と難しく長文になりそうです。 下手な駄文を並べるよりは、一例を引用することが適当と思います。 「価値についての・・・多くの文献を読んでいくうちに・・・人は、態度として、動機として、客体として、測定しうる量として、・・・見なされている価値の概念を見出すのである」 クラックホーン「価値と価値志向」、見田宗介「価値意識の理論」より孫引き。