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亡くなった夫の供養
闘病生活を経て亡くなった夫。生きている時はぶつかることも多く、彼自身の選択によって背負ってしまった苦労を一緒に乗り越えることなく、さっさと逝ってしまいました。 これからは一人で背負って生きていかなくてはなりません。 以前から精神的な分野には興味があり、夫の死後もいろいろ読んだり調べたりしています。やはり亡くなった人は(自殺など、余程の事がない限り)ガイドともに人生を振り返りながら天国のような場所で過ごすことになるというような事が書いてありました。 本当に愛し合うべき人たちと共に過ごせるとも。 しかし、曖昧な仏教的概念の根付く日本では長々と亡くなったひとを供養しなければならない、と言うようなことも言われていますよね。なんだかモヤモヤします。 今の自分にしてみれば、そういう状況で夫は過ごしているのなら、供養など必要なのだろうか?とも思ってしまいます。 実際、初七日以前に夢に出てきて「大好きな人に巡り会えた」と言うようなことを嬉しそうに言っていました。 生前子煩悩ではありましたが、本当に子煩悩だったのかどうかも分からなくなりました。 子どもの頃は少し第六感の様なものもあり、不思議な体験もしましたが、今ではすっかり夫の気配すら感じることはありません。 やはり、いろいろ大変なものを遺して行きはしましたが、本人はもうすっかり解放され、成仏しているのでしょうか? 遺していった子どもたちの事も何もかも丸投げで… 子どもには立派な人だったと伝えていくつもりです。しかし、私はどこまで夫にしてあげるべきなのか、分からなくなってきました。亡くなった人は美化されてしまうというトラップもあるように思います。 感情的に長くなってしまい、読みづらい文章でごめんなさい。
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- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7250)
供養というのは、単純に、ときどき思い出してあげることです。 そういう人がいたんだ、と話しあったりすることです。 それを坊さんを呼んで派手にやるかどうかはべつの話です。 社会的に影響力のある人だった場合は、つきあっていた人間や世話をしていた人間が、チャンスがあったら思い出話をして、普段会わないひとと再会したいと思うでしょうから、会館を借りてカタチを整えて坊さんにお経を詠んでもらう必要があるかもしれません。 普段会わない親戚を招集して近況報告、なんていうのも法事の役割です。 で、これらは必ずしも故人と密接な関係のある話ではありません。 法事をしなければ成仏しないなんていうことは仏教的にもありえないはずです。 まず葬儀のときに引導を渡し、すでにこの世のものではないことを説得します。 とはいえ、人の魂というのは49日はもとの場所付近を徘徊します。 49日法要をしたらあちらの世界に完全に引っ越していくというのが教えですから。 だから1周忌とかはすでに成仏しています。法事というのはご先祖様のお祭りですから集まって騒ぐだけのことです。 初七日に、なつかしい人に再会できたと喜んで発信してきたのは、まだ霊がそのへんにいたからです。 もし供養として、その日に家族で思い出して少し話をしてやれば故人にはなぐさめになるというだけのことですから、対親戚で悪口なんかをいわれないのであれば、無理のない行動でかまわないとおもいますよ。
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6876/20336)
生き残っている者が最優先でいいと思います。 ちなみに私は 無宗教 無神論者です。 祖父はお坊さんだったようですが その孫は・・・ ということで 宗教的儀式は全くしません。
お礼
ご回答ありがとうございます。お祖父様が宗教家だったとのこと。私も、無神論者と言いきれる自信はありませんが、身近な既存の宗教にはあまりピンとくるものはなく、何故か唯一インドのジャイナ教には惹かれるものがあります。生きている私がどうしたいか…そうですよね、ありがとうございました!
- 777kame777
- ベストアンサー率48% (241/493)
質問者さんがそもそも信じている宗教によって異なりますので、キリスト教の天国と仏教の供養等をごっちゃ混ぜにして考えたらそりゃ~モヤモヤしますよ。 そもそも論、仏教には天国なんてありません。 仏教で似ている概念としては浄土がありますが、これはあくまで輪廻転生の内の1段階であってキリスト教の天国のように色んな幸せがまっているなんてものではありません。そこで次のステップで死んだ人が良い方に進めるように祈るのが「供養」です。 ちなみに、極楽という言葉がありますが、これは普通の人間が死んでいけるところではなく、阿弥陀如来がいる浄土の事を指します。仏教はキリスト教ほど甘くないということです。
お礼
ご回答ありがとうございます。お葬式関連で日本は一般的に仏教を引っ張り出して来る感じですが、昔と違い異教徒だと迫害を受けるわけでもないのてぼちぼちやっていこうと思います。ありがとうございました!
- manmanmann
- ベストアンサー率12% (535/4296)
月並みですが、供養というものは生きているひとがそのひとの価値観で行うものだと思います。 人間は同じように生まれて死んでいくのに、その後のことは宗教により、それぞれ異なります。 どれが正解というわけでも、どれが間違いというわけでもなく、質問者さんが「もう大丈夫だろう」と納得できるのであれば、別に特別何かせずともいいのではないでしょうか。 とはいえ、親戚付き合いでもあるでしょうし、形だけでも基本的なことは一通りやっておくのがよいかともおもいますが。
お礼
ご回答ありがとうございます。そうなんですよね、遺された側の気持ちなんだろうな…とは思います。私の気持ち云々よりも大切なのは、子どもにきちんと拠り所をつくってあげることかなと思っています。ありがとうございました!
お礼
ご回答ありがとうございます。>供養というのは、単純に、ときどき思い出してあげることです。そういう人がいたんだ、と話しあったりすることです。 それでいいんですよね。火葬場から連れて帰った日には枕元に誰かの気配があったり、不思議な音もあったりして、まだいてくれている感じもしました。 最近は夫に対してずるいという感情も芽生えています。あの世へ送り出すと言うのは、自分の感情との闘いでもあるのでしょうね。ありがとうございました!