一を万にするとは何か?

このQ&Aのポイント
  • 一を万にするとは、「博学」と「多学」の対比から、創造性を持つ博学な学問の重要性を示唆していることが分かります。
  • また、横浜市立大学の故西郷信綱先生は、現代の学問やジャーナリズムにおいても、博学な創造力が重要であり、一を万にするためには創造的なキーワードが必要であると指摘しています。
  • 具体的なキーワードは人それぞれであり、幅広い意見を募ることで、一を万にするための創造的なアイデアを得ることができます。
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一を万にする

伊藤仁斎は(1627~1705)は「童子門」において下記のように述べています。 「一にして万にゆく。これ「博学」という。 万にして万。これ「多学」という。 「博学」は、猶(なお)根のある樹、根よりして而(しか)して幹、而して枝、而して葉、而して花実、繁茂稠密、筧(かぞ)へ数ふべからずと、雖も(いえども)然れども、一気注流(ながれそそぐこと)、底(いた)らずという所なく、いよいよ、やまざるがごとし。 これに対し「多学」は布でつくった造花で、らんまんと咲きみだれ、人の目をよろこばせはするが、しょせん死物にすぎず、成長することがない。両者は一すべきでなく駁雑の学を以て博学とするのはあやまれり」 この言葉を引用し、横浜市立大学の名誉教授で、横浜市立大学の前身の鎌倉アカデミアの教授であった、故西郷信綱先生は下記のように解釈しています。 「今日の論壇で活躍している士の多くは、 一にして万をゆくところの「博学」の士ではなく 実は、万にして万なる「多学」の徒に他ならないのではないか。 あるいは、ジャーナリズムという世界は上述のように「多学」という名のさまざまな造花が咲き競い、ニセガネのひびきで衆人をあざむく市場のごときものではないか。 いや、論壇とかジャーナリズムとかに限らず、私達自身の今日の学問にしても、しっかり大地に根を張っているのではなく、従って、根より根、そして枝、そして葉、そして花実へと茂り成長してゆく見込みを大して持っていない、駁雑の学という泥沼におちこんでいるのではなかろうか」 私の解釈では「万に万」、あるいは「一を一」という多学のは、単なる知識の受け売りに過ぎず、「一を万」にする「創造」という博学の作業こそが大切ではないかと解釈しました。 この考えを肯定される方にお聞きししたいのですが、さらに、思考を深めると、「一を万」にする創造という作業において、「一」と「万」にどのようなキーワードを皆さんは入れますか? 「万」のキーワードが違うと「一」のキーワードも変わり、人それぞれと思います。 幅広い意見を募りたく思いますのでよろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • sunabo
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回答No.5

マインドマップ。

参考URL:
https://matome.naver.jp/odai/2129517245843627301
amenhotep2000
質問者

お礼

Sunaboさん こんにちは。 18時間寝て、今起きたところです。 非常に有意義な、思考マップを作ってくださり、ありがたく思っております。 Sunaboさんのような、善意の有識者が、この哲学カテにいらっしゃることは、喜びこの上ありません。 思考方法、つまり、sunaboさんのおっしゃるところの、基礎から応用への思考の方法とはどういうことなのかを学ばせていただきました。 過去にこの哲学カテで回答したことがありますが、私は哲学者となるべく、哲学をしているのではなく、頭を柔軟にするために哲学を学んでおります。 元々、生物学の研究者であったので、生物学の歴史を遡ると、アリストテレスにたどり着き、私は西洋哲学から学び始め、その基礎となる、キリスト教を学び、その考えは否定しておりません。 例えば「主を畏れるものは知恵の始めである」という言葉は、シラ書1章や詩編111章に出てきますが、知識におごらず、謙虚に学問に向かうというのは基本と思い、私は大切にしております。 しかし、グローバル化の中、日本人としてのアイデンティティを身につけて、世界の中で日本人であり、日本のすばらしさを伝えられるようになるためには、先に、この哲学カテの「日本人の考え方は何から来ているのか?」に回答したように、仏教の考えというものを知らないと、例えば、日本文学において和歌を理解しようとするとき、表面的なものしかわからないと思っております。 まだ、かじった状態なので、Sunaboさんに「同一性」の不備を指摘されるため、大きなことは、書けませんが、図書館の書庫にあった、西田幾多郎や和辻哲郎の著作を読むと、仏教もキリスト教もしっかり考察しており、巨人のように思われ、若輩者の私はその背中を追っております。 これも昔、回答で添付したことがありますが、横山大観の「迷児」という作品を添付いたします。「明治」とかけていると思われ、左から、孔子、釈迦、キリスト、老子です。 https://www.google.co.jp/search?q=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E8%A6%B3%E3%80%80%E8%BF%B7%E5%85%90&biw=1366&bih=652&tbm=isch&imgil=vrWEk7eOVAXYrM%253A%253BwPnPBBB3fIBiCM%253Bhttp%25253A%25252F%25252Fzaikabou.hatenablog.com%25252Fentry%25252F20131010%25252F1381440935&source=iu&pf=m&fir=vrWEk7eOVAXYrM%253A%252CwPnPBBB3fIBiCM%252C_&usg=__WG3pXoHwNTujt02kwJecUoMxYg4%3D&ved=0ahUKEwighqLimaXRAhUBQ5QKHZFfCBgQyjcILg&ei=_TBrWOCTIIGG0QSRv6HAAQ#imgrc=bEiWSzC2a6egEM%3A No.4のpsytexさんがネットワークというキーワードを出してくれましたが、現在では、多元主義、多中心主義という考えが、主流のようですが、そこには、土台がないのか?また、なくて大丈夫なのか?と考えております。 ベストアンサーで打ち切っても十分満足ですが、他の人の考えがあれば参考にしたいと思い、もう少し開けておきます。

amenhotep2000
質問者

補足

毎週、日曜日にバス停で出会い知恵を授けてくれる、御年80歳の有識者の方から、考えをもらいましたが、その方は、一を万にするのでなくて、一の中にすべての万が含まれているのではないか、とおしゃってました。 一というのは森羅万象を指すと私は思うと教授していただきました。 一から万ではなくて、万から一という逆転の発想で頭が柔らかくなりました。 そろそろ、ベストアンサーを決めて、締めきろうと思いますが、もう少し開けておきます。

その他の回答 (5)

  • sunabo
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回答No.6

部屋とYシャツと私とセックスと嘘とビデオテープ 質問本文で一と一だから漢字1文字。 no.1で基礎と応用だから漢字2文字。 no.4で、単線的とネットワークだからカタカナ。 no.3で一と二と三と四と五と六と七だから、二つの物事の関係に 縛られなくなった。そして八を知れというわけで、次を探す。 次は?alphabetというわけでY。これはもう多学。博学ではない伊 藤仁斎。ビデオテープでジャーナリズムな感じを出してみました 西郷信綱。全部合わせて本回答の1行目です。 no.3を読み直した方がいいと思います。no.3の3行目に書いてある ことを下記に引用します。 ーーーー引用始めーーーー  十を聞いて一を知る。 ーーーー引用終わりーーーー 土台は何回か読み返すことだと思います。no.1が同一化と書いた のは誤解を招く表現でした。テキストを読み込むということでご 理解ください。 他の人の考えが知りたいというのは、no.5に対して述べていると 解釈しました。もし、本回答のidに対して述べていたのだとした ら誤読しました。ごめんなさい。

amenhotep2000
質問者

お礼

Sunaboさん おはようございます。 何回も回答いただき、アドバイスに感謝いたしております。 自分の考えの根拠となる土台が、あれこれ手を出し風呂敷を広げすぎたことで、曖昧になった状態なので、質問している次第です。 このような状態を「多学」というのではないかと思っております。 虹は七色と言いますが、それは常識という固定観念であり、連続するスペクトルで色の境界線はありません。 小説ならば10人が10人異なる受け取り方で読んでも問題ないと思いますが、 学術書とか論文は10人が10人同じ受け取り方をすることが求められると思います。 そのため、学術書の「定義」というものを考えると、境界がないはずの虹というものに著者は境界線をあえて入れるという作業をすることで、10人が10人、同じように解釈させ、肯定と否定を世に問うことであると思っております。 常識にとらわれないように、多様な考え方を学んでいたものの、土台という本質が見えなくなるというのは、本末転倒です。 虹に色の境界線があるか? この命題を十から一に戻って考えてみようと思っております。

回答No.4

自己主張や自己顕示欲、人に優るための上辺の丸暗記の知識は、 人の意識の深まりにおいて加算的(単線的情報=百科事典的 詰め込み)であり、内奥の好奇心に由来する環境認識の深まり としての知識は積算的(ネットワーク的情報=相互定義)である。

amenhotep2000
質問者

お礼

Psytexさん 回答ありがとうございます。 トイレに起きたついでにお礼を書いています。 加算的、積算的というキーワードをありがとうございます。 私も、子供のような好奇心のおもむくまま、学びを楽しんでおります。全く関係ない事柄が、ある日、突然つながることがあり、この瞬間の快感がたまらず学んでおります。 psytexさんのおっしゃる加算的な知識ではなく、積算的知識、私の言葉にすると「知恵」というものに変えるのが大事と考えています。 No.1のsunaboさんのお礼に書きましたが、多くの知識を得ることは、無駄ではなく、考えが煮詰まった時、思考視点を変えるとき、役に立ちます。 しかし、ネットワークというキーワードも出していただきましたが、ある知識を肯定して取り入れるとき、既存のネットワークを変え、新たなネットワークを構築しないと、収まらないことがあります。 既存の考え方から、新しい考え方への道というのが、一から万への知恵の獲得という道のりかもしれませんが、suviさんのお礼で書いたように、新しくしたことで、土台という基礎部分が、果たしてしっかりしているのかと、フィードバックして自問し迷うことがあります。 Psytexさんは、このような経験がありませんか? アドバイスがあれば、よろしくお願いいたします。

noname#260418
noname#260418
回答No.3

一知半解 半知半解。 一を知りて二を知らず。 十を聞いて一を知る。 そ(其)の一を知りてそ(其)の二を知らず。 「其」(意味) その他 「一二三四 五六七」 孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・「恥」 八つめの字がないから「恥知らず」。 表里不如。表里如一。 「言葉と行動が一致すること」 >万に万」、あるいは「一を一」 という多学のは、 単なる知識の受け売りに過ぎず、 「一を万」にする「創造」という 博学の作業こそが大切ではないかと解釈しました。 わたしもそう思います。 一以貫之。 一を以て之を貫く。 学問のみならず一貫して 「一以」一以上にしない。 吾必謂之学矣。 「唯一」。 一貫した理念と誠実(忠実)、 天下太平。天下有道。 天生一対。 「世界と調和する」 一ほど貴重なものはないと思います。 >花実へと茂り成長してゆく 見込みを大して持っていない ジャーナリズム 果実を売る人と買う人の関係みたいです。 歴史問題で喧嘩したことがありません。 たぶん、互いに自分の国が好きな 気持ちに嘘はないからです。 悲しいと思う気持ちが同じように。 根っこにあれば大丈夫なんです。

amenhotep2000
質問者

お礼

Suviさん こんばんは。 回答ありがとうございます。 Suviさんのおっしゃる、 「一を知りて二を知らず。 十を聞いて一を知る。 一ほど貴重なものはないと思います。」 私も「一」の重要性を考えています。 この「一」という「土台」に私はきちんと乗って、物事を考えているか? いろいろ学べば学ぶほどに「知識」が増えるにつれ、土台が大丈夫なのか不安が募ってきます。 「一」という土台が間違っていれば、「万」にしたとことで、無意味ではないのかと・・・。 しかし、質問に書いたように、「万」をどのように考えるかで、人により「一」も違うのでないか? Suviさんの「一」を具体的な簡潔な言葉にしていただけると幸いです。 「愛」「神」「慈悲」「仏」

  • sunabo
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回答No.2

質問本文にこの考えを肯定される人に回答してほしいとあります 。no.1は伊藤仁斎と西郷信綱両者の引用部分と質問者様の解釈を ひとまとめにこの考えとすることが出来ませんでした。 なぜなら、前二者は博学と多学を区別せよ。という主張で、後者 は博学が大切という主張です。異なったことを主張しています。 この考えとは、質問者様の博学が大切という主張です。no.1はこ の考えを肯定しない回答者であると思われます。 けれども、博学と多学の区別が大切という立場でも、質問者様の 欲しそうな回答だったのではなかろうか?no.1の基礎を応用、同一 化を変化について、言及がないので、どちらとも言えません。 どんな回答者に回答を求めているか、この考え、を明確にしたほ うが良いと思います。 質問者様の主張を具体的にすると、「一を万」にする「創造」と いう博学の作業をもっと詳しく知りたい。説明してほしい。であ ると思われます。 回答者をこの考えを肯定する者に限定することと、幅広い意見を 募りたいという考えは矛盾するように思われます。 「愛を和」にする。なぜ、一に愛を、万に和を入れようと思った のか?理由を説明しようとしてみたほうがいいと思います。何を入 れるかだけでなく、理由を言葉にすることも含めて、「創造」だ と思われます。 どういうふうに短絡したか明確にしたほうがいいと思います。短絡 した考えに対して回答が欲しいのか、短絡しない考えに対して回答 が欲しいのか。分からないです。 下記のno.1のお礼コメントの引用部は前二者の引用部分の解釈と してはおかしいです。  >「一を一にするとは」、私が現在、この哲学カテに質問した  >状態の「知識」というままで満足していて、その後、なにも  >発展がない

amenhotep2000
質問者

お礼

Sunaboさん こんばんは 再度の回答ありがとうございます。 私の質問の不備があり、伝わりにくかったところがあると思いますが、私が、この質問において、回答を欲しかったのは、 「どうすれば一を万にできるか?」という疑問です。 物事の思考や考え方において、多くの人が「一」と「万」にキーワードを答えてくれることで、思考の仕方における柔軟性が生まれるのではと思い投稿した次第です。 ですから、Sunaboさんが、基礎から応用、同一性から変化という、キーワードを具体的な「言葉」として回答くださったのはありがたく思っております。 この指摘は私も胆に命じないといけないと思っております。 今回の質問において、Sunaboさんの御指摘を受けたのは、私が同一性の作業を怠り、変化を先走り「創造」という考えに変化させてしまったのが原因と思われます。 しかし、Sunaboさんの考え方は非常に重要ですが、正攻法という面も否めません。 心理学でワラスという人が1923年に発見の4段階説というのを、アルキメデスを例に唱えたそうです。 1) 準備期:情報取集 2) 孵卵期:集めた情報を相互操作し、過去の経験と照合し、適切な解決策を模索する (アルキメデスは風呂場に行き、水があふれることに気づいた。) 3) 啓示期:ヒラメキ、突然の解決の発見。 4) 検証期:解決の妥当性を吟味し確認する。 (水に同じ重さの金塊、王冠、銀塊を沈め、あふれた王冠の水が金と銀の中間にあるから王冠は純金ではない。) アルキメデスのように一瞬のヒラメキで壁を飛び越えてしまうこともあります。 しかし、アルキメデスも十分情報取集(知識の習得)したと思われ、ここにおける私の質問は「1万を1万1にするのはどうすればよいか?」というのが適当かもしれません。 しかし、あえて「一を一万にするにはどうすればよいか?」という命題にしておきます。 Sunaboさんの考え方の「一と万の間は連続的で飛躍はない」という考え方も私は肯定します。 しかし、一人の行為が1万人の行為に影響を与えることもあるではないかと思います。 それが「愛」ではないかというのが、私の現在の考えです。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.1

・質問要約 伊藤仁斎 博学は成長する。多学は成長しない。博学を多学と同      一視してはいけない。 西郷信綱 論壇の士やジャーナリズムは多学である。今日の学問      は、自分も含め多学になりかけている。 質問者様 創造が大事。 伊藤仁斎と西郷信綱の引用部分の考えに同意するが、質問者様の 考えには同意しない。前者二人は、博学と多学があって、区別し ろと言っている。一にして万にゆくは、一、二、三・・・万と順 序、つながりがある。人の成長と学の成長の両方を見ている。 質問者様の主張は区別の前の段階で、博学を創造しろ。と言って いる。「一を万」にするって、塊でつながりが感じられない。創 造は、学の創造しか感じられない。人の成長について読み取れて いないと思う。 問)一→万に入るキーワードをこたえよ。 答) 基礎→応用。 基礎から応用のつながりがあると、新たな応用がそれまでの基礎 と応用につながり、全体がつながる。しかし、ばらばらの応用が 集まっても、ばらばらのまま。ただし、学際的な研究もあると思 う。 同一化→変化。 テキストを読み込み、著者の思考に同一する。そのあとで、著者と 読者の違いから新たな思考へ成長する。 「一を一」ってどういう意味ですか? 西郷信綱の当該引用文は参考URLの本にあります。 書評。 http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/710/ http://1000ya.isis.ne.jp/1198.html

参考URL:
https://www.amazon.co.jp/dp/4582761003
amenhotep2000
質問者

お礼

Sunaboさん こんにちは 回答ありがとうございます。 「一にして万にゆくは、一、二、三・・・万と順序、つながりがある。人の成長と学の成長の両方を見ている。」 なるほど、私の「一を万にする」というのは「創造」であるという、私の解釈において短絡的であったと教えられました。ありがとうございます。 「一を一にするとは」、私が現在、この哲学カテに質問した状態の「知識」というままで満足していて、その後、なにも発展がないというのが、私の意味です。 Sunaboさんのおかげで、一が二になりました。 ちなみに、私は「一」のキーワードに「愛」を入れて、「万」に平和の「和」を入れるのはどうかと思っておりましたが、図書館で仏教を研究されている年配の方に、「愛」は西洋的概念で日本的ではないから、私は違うと思うと言われました。 話は変わりますが、私の子供の頃はネットなどなかったので、小学校の頃、学校の先生は、なんでも知っていると思って、それだけで、尊敬していました。 しかし、ネット社会になって、パソコンに、ただキーワードを入れれば、小学生でも情報(知識)が分かる時代になってきています。 単なる知識としてではなく、そこから、新しいものを考える力(創造)が大事だと私自身は思っております。 万の知識は、ネットから、すぐに手に入れられる時代ですが、その中の、どの情報を取捨選択するか見極め、また、多くの知識を手に入れることで、思考が壁に突きあたった時、別の角度から物事をみて解決できるかが大事と思っております。 他の人の意見も聞きつつ、一から万へこの質問が発展することを願っております。