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「中山」、「習志野」という地名なぜ二つの市にあるの

「中山」とつく地名が市川市と船橋市の両方にあります。また、「習志野」とつく地名も習志野市のほかに船橋市の中にもあります。新京成線の習志野駅や北習志野駅は船橋市の中にあります。なぜ、このような紛らわしいことになっているのでしょうか。 また、これに関わる二つの市の間で「我こそは本家なり」といった争いのようなことはないのでしょうか。

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回答No.2

明治時代に陸軍の演習場があった、千葉県北西部のかなり広い一帯が「習志野」と呼ばれていました。 それが、後になってから、習志野市や船橋市や八千代市になったのです。 とっても広い「習志野」という「地名」が1つあって、それが、色々な「市町村」に分かれてしまった結果、市の名前として残ったり、駅名として残ったりしたのです。 市川市と船橋市にある「中山」は、法華経の中山門流の総本山「法華経寺」の寺町だった事に由来します。 これらの地域も、近代になって市町村が出来る前は、寺の周囲が全部「中山」だったのが、後から市町村が出来た時に、複数の市町村に分割されてしまったのです。 >また、これに関わる二つの市の間で「我こそは本家なり」といった争いのようなことはないのでしょうか。 無いようです。「モトは1つ」で、行政の都合で複数の市町村に分割されただけなので、本家とか分家とかって意識は無いようです。 なお、近代になって開拓が進んだ所には、以下のように、開拓者の出身地が付いた地名が多いです。 北海道の新十津川:本州の十津川村からの移住者で開拓 北海道の北広島:広島県人によって開拓 こっちの場合は「出身地が本家、開拓地が分家」のような感じです。

noname#231574
質問者

お礼

なるほど! 懇切丁寧なご教示をしていただきまして、ありがとうございました。

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回答No.3

余計な蛇足。 他の回答の「浦和大宮与野は埼玉じゃない」で思い出した話があります。 「浦和」「大宮」「与野」が「さいたま市」になる前、とある道路案内標識で、右折、直進、左折のそれぞれに、浦和、大宮、与野の3つの地名が書かれていました。 3つが「さいたま市」に合併した際、この道路案内標識が3方向とも「さいたま」に変更されました。 その標識の画像が2ちゃんねるにアップされ「さいたまアスキーアート」が出来た、という説があります。 このように「あとから1つになって、変な事になる」って言うケースもあるようです。

noname#231574
質問者

お礼

なるほど! 早速に明快なご回答をいただき、ありがとうございます。

  • DJ-Potato
  • ベストアンサー率36% (692/1917)
回答No.1

そのようなことは、おそらく全国に多数あります。 例えば習志野で言えば、本来の習志野は現在の船橋市、習志野市、八千代市に跨る広域地名であったから、ということではないでしょうか。 あるいは、川の両岸に同じ地名があるが、その川が都道府県市町村の境界になっている、というのは良くあることです。 また、埼玉県の県名の由来となる地名は、現在の埼玉県行田市にあるそうで、さいたま市ができる時に浦和大宮与野は埼玉じゃない、という意見もあったとか。 一応、新たに市を作る時には既存の市と同じ名前にしないようになってますが、それは行政上の問題で。

noname#231574
質問者

お礼

なるほど! 例示を交えてのご教示をいただき、ありがとうございました。

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