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色即是空空即是色、この世の全ては無であり空である

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.22

 どうも。お久ぶり、おげんき?  あれ?hitonomichi33さんはすべての宗教をかんがみて人の道なるものをつくったはずですよね?宗教関連のもので知らないことなんてあるんですね?www  NemurinekoNyaさんやbragelonneさんの回答でいいと思うんだけどな。hitonomichi33さんが論拠にしている回答14の方の考えは確かに「na」(~ない)という事と「sūnya」(空)とを混同するというサンスクリット文法としても、玄奘訳の解釈としても間違っていますね。  しかも、インド仏教が500年代に終わっているという荒唐無稽な歴史観。前にhitonomichi33がビックバンを否定する論拠として「高校の物理の教科書にビックバンが載っていないから」と述べておられましたよね?それなら同じ理由で、この歴史観は否定できますよ。一般にインド仏教が滅ぶのは、イスラム軍の進軍によってベンガル地方の拠点寺院が破壊されたことにより十三世紀初頭一応滅んだってことになっているはずですよ。 >>無と空の違いが何か説明できる人がいましたら分かるように説明して頂きたい。  これに関しては誰も経典を引かないのかな?仏教においては、「有」と「無」は基本的には同じものなんですよ。心理学でも言うでしょ?「好きの反対は嫌いではなく無関心」だって。結局有も無もどちらかに偏った考え方でしかないってのが仏教の態度ですよ。パーリ『相応部』「カッチャーヤナ経」では、カッチャーヤナ尊者がお釈迦様に「正しく見るってどういう意味?」って尋ねます。それにお釈迦様は、 「カッチャーヤナよ、実に、この世間の多くは、「有ること」と「無いこと」の二つに依存している。 カッチャーヤナよ、世間の集起を、あるがままに、正しい智慧によって見るものには、世間において「無いこと」というのはない。カッチャーナよ、世間の滅を、あるがままに、正しい智慧によって見るものには、世間において「有ること」というのはない。 (中略) 「 一切が有る」というこれは、カッチャーヤナよ、一つの極端である。 「一切は無い」というこれは、第二の極端である。 カッチャーヤナよ、これら二つの極端に近づくことなく、如来は、中道によって法を説く。 とあり、有にも無にも偏らないのが仏教の立場です。そして、空思想を大系的にまとめたのが龍樹大士という事になり、その著作『中論』の中でこの部分を引用し空思想の論拠としておあげています。そして、竜樹大士はこの引用をもとに「空とは中道に基づくものである」としています。この『中論』が空思想を説く論書であるから「空論」と漢訳されてもよかったが、そうならなかったのは「空は中道に基づいている」という主張であったためだといわれます。  無は有との対立関係によって存在する概念です。それに対して、空はそのどちらにも偏らないという立場です。少なくとも、中道と反する無という概念は空とは別物です。  結局hitonomichi33さんがよっているのは格義仏教的な説、中でもその主流派であった老荘思想の「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」をもとに空を解釈した本無義説に基づくものです。この考えは、当時の中国においては必要な段階であったとは思いますが、今や言語学や思想史の立場から行われた研究によって間違いであることはわかっています。  ただし、中村元先生も「中国仏教はその本質において始終格義仏教であり続けた」とも述べていますから、今回の質問にしても回答にしても、いまだに格義仏教の問題は尾を引き続けているんでしょうね。  ちょっと、ここんところ時間がないのでこんなところで。本無義説について詳しくは 林伝芳『「本無義」考』 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/25/2/25_2_766/_article/-char/ja/ あたりを読んで。あと、気になったことで色=有でも色=物質でもありません。詳しくは 村上真完『色(rupa)は物質ではない : 仏典における原意と訳語の考察』 http://ci.nii.ac.jp/naid/110008609454 あたりを読んで。では、この辺で。急ごしらえのため誤字脱字乱文はご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

hitonomichi33
質問者

お礼

baka-hageさん、こんにちは。 お久ぶりでございます。 >「空とは中道に基づくものである」としています。 あなたの考えはよく分かりました。 この考えに基づいて色即是空空即是色を解釈すると、「この世の全ては、無でも有でもなく、その中間の空である」となりますね。 仮に仏教の教えがこれであったとして、こんな平凡ありきたりのことを説いて一体何のご利益が生まれますかね。  中道を行くなんて考えはただの風見鶏、現世主義の最たるもので信仰とは最もかけ離れた経典の世界ですね。 経典に漬かって信仰を忘れるってゆう。 あ~、哀れ経典。  

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