• ベストアンサー

腐れマ○コ ってどういう意味ですか?

noname#156725の回答

noname#156725
noname#156725
回答No.3

50歳♂ 本来の意味は、別です。 特に若い女性 (女子中高生?) を相手に性の対象に成らないと言う 同意語⇔反意語 ← これ…反意語として使われる。 もっと若い…幼女等には、しょんべん臭い 等が使われます。

natuyo99
質問者

お礼

元々はそういうことなんですか。 しょうべんくさいは、きっとまだおねしょしているという意味だと思うのですけど。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 「くされマ○コ」ってなんですか。言ってはいけない言葉かな。

    「くされマ○コ」って 文字通り「腐れマ○コ」であそこを 卑下した言葉みたいなのですが どんな外陰部の事を示すのですか。

  • 女子校のコって・・・?

    高2男子(男子校に通ってます)です。 ずばり 1)女子校のコって恋愛についてどう思ってるんでしょうか? 友達から紹介してもらって、女子校のコとメールをしてるんですが、 1ヶ月以上メールしててまだ相手からメールを送ってくるということがないんですょ。。。 ボクからメール送っても返事が遅かったり・・・。 (頭良さそうで高1の頃から予備校通ってたりして忙しいのかな?と思ったりもしてるんですが) それなのに普段映画を見ないというそのコと、今度映画を見ることになって 「楽しみだね♪」とかってメール来たりするので、 彼女がボクのことをどう思っているのかよく分かりません。。。 なんか男に興味なさそぉ~な感じです。 ちなみに一度会った感じとして、まじめだなぁ~ってか静か!!ってな印象を持ちました。 だから彼女が何を考えているのかさっぱりです。 そんな感じで、もうちょいみなさんにお聞きしたいんですが、 2)彼女はホントに男に興味なくて、ただ映画が楽しみなのか? 3)彼氏欲しいとか思ってるとしても、そういうのが表に出せないタイプなのか?てかそういう女子っているの? まだまだ聞きたいことは山ほどあるんですが(笑) どうか回答お願いします!!(>_<) 質問に関係なく「女子校の人は○○だったりするよ♪」みたいなアドバイスも頂けると幸いです!!

  • マ(間合い)の理論⇒マを取る⇒芸術といういとなみ

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。  そして マをうまく取ると ひとは我れに還る。我れに還った状態というのは たましひがやすらかで 身と心とがすこやかであることだ。  では マをうまく取るというのは どういうおこないか?  一般に 《たましづめ(魂鎮め)》だと考えられる。しかもこれには 魂振りと狭義の魂鎮めとがあるはずだ。  静かなたましひを保つために 人は互いにまづ先に魂振り・すなわちツッコミをおこなう。ここからマの取り戻しが始まる。  ちなみに このツッコミをいくらおこなっても相手が反応してくれないときには こちらは手に負えなくなる。交通渋滞が起きる。現代人の悩みは これである。  この交通渋滞としてのマのチガイや抜けを 元に戻す魂鎮めなる行為は 一般に芸術がになうのである。  芸術とは たとえてみれば尺八や法螺貝のひと吹きによって 世界が その今の舞台としてどんでん返しに遭ったごとく 変わるそのきっかけのことである。    この仮説にもとづき 芸術のになう《癒し》の具体的なあり方を哲学してください。  また この仮説じたいについてのご批判をも寄せてください。  芸術の担う癒しないし魂鎮めのキッカケは 一般に美である。この美については それが人それぞれの美学のもとにあることを 次の質問で尋ねました。   【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8918609.html  そして 音楽の美については 次の質問で問い求めています。   【Q:音楽って何のためにあるの?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8902931.html  芸術の全体をまとめて述べてくださってもよいですし 個別に音楽や絵画等の具体的なコトゴトについて明らかにして行く作業も 歓迎します。  要するに あなたの美学をご披露ください。  ○ よろしかったら 次の マの理論を参考にしてください。    (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してくださっても 歓迎です。感想だけでも よろしいです。

  • 言葉の意味

    「冷やかしとか、興味本位じゃないけど、正直またHの事好きになったでしょ?」とある男子に言われました。 (Hは私が前好きだった人で今は恋愛対象ではない関係です。) だけどこの言葉の中に一つ疑問があり、「冷やかしとか、興味本位じゃないけど」ってどーゆー意味ですか? (語彙力無くてすみません!)

  • マ(間・間合い)の理論

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。  (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (δ) ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してください。  感想もお寄せください。

  • 妊娠?

    私はまだ処女です。ただ…彼氏と相手のことを気持ちよくさせあったりしてはいます。10日ほど前、彼氏と裸で抱き合っていました。そのとき彼が、彼のチ○コを私のマ○コに押し当ててきたんです。もちろん彼も私も濡れていました。中にいれようとはしていません。外側に当てただけです。 それからすぐに生理予定日だったのですが、かれこれ一週間…生理が来ません。 妊娠したんじゃないかと、毎日が不安で仕方ありません。 上のような事象でも…妊娠する確率はあるのでしょうか… 具体的な確率なども教えてくれたらすごく嬉しいです。 回答…よろしくお願いします。

  • 中学の時 私は地味な顔の

    中学の時 私は地味な顔の ほうで確かに昔はブサイクでした。 それが理由で男子から 陰口を言われるようになって 悔しくて高校では 美意識を高めて彼氏もできて 決してめっちゃ可愛いとは 言えませんが普通には なれたと思いますし 周りからも清純系と言われます 今まで楽しい日々を過ごしてたのに 今日 地元の男子にばったり 駅で会ってしまい◯◯(名前)やんみたいな感じで絡まれて しまって いきなり彼氏いるん? 処女なん?とか言われ 1人の男子が顔的に処女やろ と言われました。 それってブサイクってことですよね? 頑張ってきた私にとっては すごくショックなことで 悲しかったです これは気にしないようにするのが 1番ですか?

  • マ(間・間合い)の理論

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。    この理論は けっこう広い範囲で有効ではないかと われながらひそかに期待していたのですが 一向にわたしの中で進展も発酵もしないままです。いまいちどみなさんの前に提出して ご見解をうかがいたい。こういうコンタンでいます。  (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (δ) ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してください。  感想もお寄せください。

  • 彼とのHでイけない

    彼とのHでイけない 彼氏とは同棲中で、Hもします 私のHへの興味が低いのか彼が変態なだけなのかは分かりませんがHしてても楽しくありません 彼は「外でやりたい」とか「アナルに入れさせて」とか言ってきます 声を出すのが恥ずかしいのであまり声を出せないのですが、それも不満なようです 前戯も無くてただヤってるだけ。 フェラも私は好きじゃないし、口に出されるのも嫌なのですがよく求めてきます。 「マ○コは飽きたからアナルに入れよ」とかよく言ってきます。 私は全然気持ちよくないし、イけないので彼が出して終ります 一人だったらイけるのに、彼とだと恥ずかしさなどが気になって気持ちよくなれません・・・ どうすれば私にとっても楽しいSEXが出来るでしょうか

  • 彼氏にブスって言われる

    彼氏に顔ブスだから好きになれなかった 彼氏に今まで好きって言ったのは嘘 だったって言われた。 けど付き合ったままがいいと 言われました。 彼氏が整形して可愛くなったら 好きになれるかもしれないって 言われました。 彼氏がお金借りて借金して そのお金で整形して 俺の理想になってくれる?と 聞かれました。 私には意味が分からないので 教えてください。 そのこで私が泣いちゃっても 謝ってもくれません。