マルクス主義は キリスト教の自力・難行道だったか
次の仮説を思いつきました。ご見解を述べてください。
個人にとってのキリスト信仰が 教義化して集団としてのキリスト教となったあと デカルトだか誰だか知りませんが 理性の内に教義を摂り込み 理論として 精神なる神を抱くようになった。唯心論なわけです。
これに対して 心は 質料(モノ)の反映であり 脳におけるその翻訳であるに過ぎないと見るなら 唯物論に行き着くようです。
理性信仰も 唯物史観も どちらも エデンの園の更新版として 新しい天と新しい地 あるいは 共産主義社会を それぞれ 思い描いたのだと思われます。
だとすれば 片や 個人の信仰のときの 絶対他力〔のもとにおける自助努力〕を引いて 他力・易行道(極楽浄土の浄土門)に相当し 片や 《科学的な》楽園を 自力・難行道(聖道門)によって 歴史的に 目指す恰好であると捉えられます。前者において プロテスタントの職業倫理は 自助努力の要素を重視し 自力道に転じたかも知れません。(ただし 楽園ないし天国にかんしては やはり 他力であるだろう)。
言ってみれば 単なる図式なのですが ご見解をおしえてください。
* いくらか つけ足しを思いつきました。
(1)ブッディスムは 主に個人の解脱を目指していて 社会のあり方を あまり問わないとすれば 筋が違うと言わなければならないかも知れない。
(2)日本人は 楽園から新しい楽園へという直線的な史観によっている要素が 少ない。この図式を 個人の信仰(もしくは いつもは 放っておいてある信仰)のもとに 飲み込むことができる。のではないか。
――これらで よいかどうかなど おしえてください。
お礼
>想像じゃ駄目なんですよ!、もはやね! 実行&創造&〇〇&・・・・さあー! 口先だけは要らん者とおやさまも言って居ますよ! 回答有難う御座いました?!