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精神疾患の原因が特定出来ない事が、寛解と言う限界を造っていると思います
精神疾患の原因が特定出来ない事が、寛解と言う限界を造っていると思いますが、国家が如何して原因が分らない事に対しても、治療を、許すと言う許可を出しているのか、教えてください。 『心を病む原因は分りませんが、薬を出して置きます。治療をすれば治ります』と言う根拠を教えてください。
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- tsufujifuji
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うつってそんなに面倒なんだ。寛解って言葉誰が考えたのですかね。馬鹿じゃないの。人にわからないようにわからないようにして難しくして。俺はわかってるんだってか。 うつの解析に克服者ってはいってるんですかね。うつになったことがない人がいくら首ひねってもわからないと思いますよ。何が知りたいんだか。 この前はどうも親切にありがとうございました。みんな模索してるんですね。にっくきうつを。 私も、模索中です。 うつの原因ですよね。 言葉がすべてだと思いませんか?言葉なんてなければうつなんてないと思いませんか。言葉で人を否定する。否定された心は、悔しがる。もう否定されたくないから自分を偽る。でも、真相心理、潜在意識だけはずーとありのままを心の中に封じこめたまま、思春期を迎え、親から巣立つ。 親がすべてだった自分。否定は親からが多いんですが親が自分を守るという環境が変わって偽る必要がなくなる。偽っても親はもういません。守ってくれません。 自分の居場所がないってわかりますよね。孤独の入り口。 なにを偽っても、どんなにいい子でいても誰も守ってくれない。 恋愛は、自分の弱さを守る方法だってわかりますか?親から異性に(同性愛者さんごめんなさい)守ってくれる矛先を移す。動物学的には、子供を産むための本能なんでしょうね。 自分では、自分をどんなことしたって守れない。自分を自分で抱きしめることはできない。ぬくもりを感じることは永遠に感じられない。ずーとそれが続くと、さびしくてさびしくて仕方なくなる。…1 ぬくもり・優しさがないと人間は生きていけない。哺乳類ってそんなもん。 自分を守る為に自分を偽る。人間は言葉がある故、負けたくないって心が思う故自分を偽る。背伸びする。優位に立ちたがる。権力を重んじる。つよがる。…2 この1と2の2極が矛盾ですよね。 弱い自分と強くありたい自分。 前者は真相心理、潜在意識の部分 後者は表面上の意識の部分。 tumaritou1さんも言ってるとおり、ぶつかる。頭の中でこれらがぶつかる。どっちが本当だって頭が混乱する。それがうつでいいですよね。 ストレスうつでも、失恋うつでも、喪失うつでも、自分の弱さが関係してると思います。 なんかの心の衝撃で、心の勢いがなくなって真相心理、潜在意識の部分が出てきてしまう。これを科学的にといわれると本当にごめんなさい。私、そんなのわかりません。なんですが。 ここまで書いて、私のこの文章何人わかりますかね。わからないから、怖いんでしょ。どうしようもないですよね。わからないんですから。 昔の人は日食が起こっただけで人間のいけにえを神にささげた。薬ぐらいかわいくありませんか?
♯6です。これ以上回答していると、論議と判断される恐れがあるので、これで最後にします。 「ロジャースペリー 分離脳」は脳梁を切断した限定的なケースの研究です。 脳梁で左脳・右脳が接続されているケースに関しては、明確な研究報告が為されていません。 現在では、左・右脳が協調し、補完し合ってるとの説が主流です。 また、人間の人間たる高次機能を司る前頭前野部に関して、右脳・左脳の区別はありません。 もし、左脳・右脳に独立した意識を持ってると仮定したとすれば 解離性障害の解離性同一障害(多重人格障害)の原因は左・右脳に異なる存在がある為と解明されてもいいはずです。 また、先天的半球欠損、事故による半球機能が損壊された人は、精神障害にはならない事になります。 実際はそうではありません。 1981年の受賞以降、そちらの分野の研究は停滞しています。 つまり、無理が生じていると考えた方が妥当でしょう。 私が色々な精神疾患を挙げていますが、それにはお答えにならず。 総論的はお話ばかりです、これでは精神障害全て「心の矛盾」と仰られても 誰も、理解・同意・賛同は得られないと思いますよ。 質問者さんが固執される原因を取り除く為に、現在どのような治療をお受けになっておられるのですか? 後学の為にお教え下さい。 勿論、その原因を取り除けたのでしょうから、質問者さんは治癒もしくは完治されたのでしょうね。 それでも原因が取り除かれなければ、悪魔の手術と呼ばれたロボトミー同様に、右・左脳の切除を選択するしかないのでは? しかるに、私の様な発達障害(注意欠陥障害)もしくはその疑いのある者は 自我やアイデンティティが形成される前からと言うか、生まれて直ぐ心の矛盾が生じるのでしょうか? 不注意優勢、衝動性、他動性等の問題点にどう関連付けされるのでしょうか? 質問者さんは森田療法を受けられた事がおありとか 森田療法の一般向けの解説書には、一文たりともそのような事は記載されていませんが。 結論として、質問者さんの御高説を全ての精神障害に適用する事には無理があります。
♯4です。お礼ありがとうございました。 少し補足させてください。 >原始的な生活を営む世界では、狂う人はいないという事が言われています。 >もっと言うならば、普通である事と、普通ではない事を区別しない環境です。 と言うよりは、精神障害者に依存した生活と言われた方が正確だと思います。 シャーマン・呪術師・霊媒師は解離性障害のトランス障害を持った人たちです。 森田療法の開発者でもある森田正馬博士も祈祷性精神病と喝破しております。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E7%A5%B7%E6%80%A7%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85 結局、そのような人に依存してるんですから、得体の知れないものに囚われてる状態ですよね。 それが正常な社会生活と認識しているから、それに異を唱えたら逆の扱いになると予想されます。 質問者さんの言ってる事はある意味正しいでしょうね。 >結論から言うならば、狂う事とは『不安や恐怖』が全ての元になっていると言う考え方です。人間の生きる事に伴う『不安や恐怖』とは、命そのものの叫びである、と言う考え方です。 死の恐怖とかは普遍的な恐怖で、本能的に動物なら全て抱いています。 不安障害等以前神経症と呼ばれた障害には、不必要な不安や恐怖を抱く事は多いとは認めます。 だから、「あるがまま為すべき事をなす」森田療法の効果が実証されています。 不安障害のみについて考えてみると その恐怖や不安が人類共通の物なのでしょうか? 否、ある者は病的な程の不安や恐怖を抱き、精神障害と言う病気になる。 ある者は気にも止めず、何らの障害にもならない。 つまり、普遍的な不安や恐怖でない事は自明の理でしょう。 では、どこに問題があるのだろうか? 1つはその人特有の考えの囚われ、拘り、思考の歪みです。 ですから、認知行動療法と呼ばれる、思考の歪みを認知し 改善して、それに伴う症状を改善する心理療法が生まれました。 森田療法がそれを抱きながら行動する事によって、克服する東洋的なアプローチ法なら 認知行動療法はその歪み自体を改善する西洋的なアプローチ法です。 もう1つは遺伝子の問題です。 一時、セロトニントランスポーターの遺伝子の違いが不安の感受性に関与してるとの研究報告が有りました。 ロング遺伝子とショート遺伝子の違いです、日本人はロング遺伝子のみの人よりロング・ショート遺伝子交雑型もしくはショート遺伝子のみの人が多い。 欧米・中国人はロング遺伝子のみの方が多い点に注目した研究です。 現在では、否定されていますが、坑うつ剤の効果の発現に差が出るのではと研究されています。 将来、トライ&エラーを繰り返すうちに解明される事を期待します。 人間の脳は1つの原因で解明されるほどシンプルではありません。 人工知能は出来ても、人工脳はいまだ出来ません。 それほど複雑でブラックボックス的な器官です。 不安障害にはその論理が適用できても、他の精神障害には無理が生じます。 例えば、統合失調症はの特徴として、自分がおかしい、異常だとの認識(病識)を持ちません。 それでどうやって恐怖や不安の認識を持つのでしょうか? 持つのはありえない妄想です。 (普通である事と、普通ではない事を区別しない環境ですはなしですよ) また躁鬱病の躁状態になると全能感や万能感が強くなり、時には高揚感が異常に高まり 死を恐れない極みに到達する事が有ります。 それをどう解析されるのでしょうか?
お礼
回答頂き、ありがとうございます。哲学書などによるなら、例えば「キルケゴールは、人間の実在を美的実在・論理的実在・宗教的実在の三つの段階に展開させ、人間は、宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復するとした」となるかと思います。 或いは、誰か?忘れてしまいましたがソクラテスか、だったと思いますが『汝自身を知れ』と言う言葉を残しています。 或いは、自己同一性や、アイデンティティを確立するために哲学の道に入る場合があるという事になります。 宗教家の話などを総合した場合には、仏教では悟りを開いて『生死の問題を解決する』、キリスト教的な言い方をするなら『神と和解する』と言う結論が導かれています。 人間の不安が、必ずしも「心」にだけ表れるとも限らない例が、自律神経失調症や、心身症等、検査では異常を認められない場合の、いわゆる原因を特定できない場合の事です。 生きている事自体に感じられる、命そのものを失うかも知れないという恐れ、或いは生きてゆく事自体の先が分らない不安や、恐れなどですが、自覚できなくとも『肩や首筋』などに力が入っている場合の事です。 そういう分らない、漠然とした不安や孤独感等を、強く意識した場合、そうして忘れてしまう場合、その時々の気分や、環境や、その人自身の考え方によって、違った顕われ方をすると思います。 その分らない不安、不安さえ意識出来ない場合等も、人間には、無意識の奥底では感じている場合があります。その不安が何処から来るものか、或いは何から由来するものか?という事を実際の文献からご紹介したいと思います。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。” この二つの意識同士の出会いが『悟りを開く』或いは『神に会って和解する』と言う事になると思っています。 右脳の意識は、自我意識には極めて認識出来難くなっています。何故なら『意識する自分が』無意識状態になった自分を、認識出来ないからです。そうして人間の感情は『右脳』から送られてくる、言葉に拠らない情報を自我意識がその時々に応じて『翻訳をして』受け取っています。 不安や恐怖感とは右脳の情報を自我意識が受け取った時に『感情』としてその情報を、『翻訳をして解釈をして、そうして理解して』感情が湧き上がるシステムになっています。 その情報源と直接出会う事が『自分自身を知る』事です。それ以後不安や悩みや、生き難い辛い思いは消滅します。『意識の根底から、不安がなくなってしまいます』その姿が生死の問題が解決すると言うことになっています。言い方を替えたなら『神に会って和解が成立する』事になります。 今までは自我意識が全てと勘違いをした生き方という事になります。それ以後は、もう一つの意識が主導権を握った生き方になります。自我意識は自分自身の『命そのものの意識』に従った生き方をするようになります。 此処を持って人間の障害が取り払われた事になります。意識と無意識がその時々の状況で、出番を間違わなくなるという意味です。自我意識が『意識する事によって』無意識の出番をなくした事が障害の元を作っていた訳です。 心の停滞が全ての障害の元を作っていた事が分かります。 二つ在る心が矛盾や対立や分裂を起す事が本当の心の病の元かもしれないと思っています。 有難う御座いました。
>心を病む事の原因は『心の矛盾』が原因と思っている者です。 当然有りますよ脳と脳との葛藤は、心は脳の中にあるんです。 新しい脳(人間が人間たる部分)と古い脳(動物的な部分)のせめぎ合いは、何時も脳の中で起こっています。 過去に、脳の人間の人間たる部分を破壊するロボトミーなる精神外科の手術手法が有りました。 これを受けた者は確かに、従順になったり、おとなしくなる。 でも、日常生活・社会生活で感じたり、感動したり、判断する、受け止める事が全て失われた。 では、その部分は何処か?大脳新皮質の中の前頭前野部です。 他の哺乳類や霊長類と比べると人はその部分が発達しています。 大脳新皮質の下には、大脳旧皮質があり、ここは欲求、情動等本能的行動や思考を生み出している。 大脳旧皮質で生じる事(欲求、情動)をコントロールしたり、思考、学習、創造、計画、判断 注意、感情など高次元の精神機能の中枢なんですよ。 本能のおもむくまま、生きていたら、周囲との軋轢や阻害が生じます。 そうならないように自分の内側と外界の関係を上手くコントロールしているのです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E7%9A%AE%E8%B3%AA また、統合失調症、うつ病等の精神障害を患う人は前頭前野部の血流が減少しているのが 脳スペクト検査で証明されている、血流低下はその部分の機能低下を意味しています。 http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~kokikawa/bunretsutsu.html 例えるとすれば、脳の中には真面目な自分(新皮質特に前頭前野部)と楽に生きたい自分(大脳旧皮質)がいるんです。 何時もは真面目な自分が主導権を持ってコントロールしている。 なんかの拍子(神経伝達物質の乱れ等)に、真面目な自分が弱ったり、疲労するとコントロールが効かず、精神状態(心)の状態が変調を起こすと考えれば。 質問者さんが原因と考える「心の矛盾」と相反していないでしょ。
お礼
色々と教えて頂き、有難う御座います。事細かく分析をしていくと、尚更例外が出てきて、或いは特異な例が出てきてわからなくなる部分が在ります。もっと単純に考えて、人が悩む苦しむ事の原点から考察した方が分りやすいのではないかと考えています。 原始的な生活を営む世界では、狂う人はいないという事が言われています。もし狂ったように見えた場合でも、何時か又普通になると言う事のようです。従って原始時代には、狂うことも普通の事で、又本当に普通になってしまう部分があるのではないだろうかと言う考察です。 狂うと言う事と、普通と言う事を区別しない生活が普通に戻る事を示唆している気がします。 心に異常を認める事を、認めない環境です。或いは『心に異常があることが普通である事』を認める環境の事です。もっと言うならば、普通である事と、普通ではない事を区別しない環境です。 結論から言うならば、狂う事とは『不安や恐怖』が全ての元になっていると言う考え方です。人間の生きる事に伴う『不安や恐怖』とは、命そのものの叫びである、と言う考え方です。 精神疾患や、神経症や、自律神経失調症や、心身症等今の医学では本当の原因と考えられるものや、事がはっきりと特定できないでいる事例に付いてですが、その大元の原因は、『生きることに付いての不安であって、その不安を妄想によって拡大したものが恐怖となっている事』が全ての元、或いは全ての原因になっていると思っています。
- d194456
- ベストアンサー率27% (423/1524)
心を病む原因は分かっています。どうすれば、その病を治癒できるかも理解されています。 多くに今のアメリカ流の精神科学会に占領されていては、本来の正しい考えも広がらないでしょうね。 あなたが追記で書いたような、自分の心の中の二人の自分などは、病的な思考から生まれたものです。 矛盾を突きたいのなら、現実社会に生きる自分と、自分の理想の中に生きる自分との矛盾を考えれば、 多くの病は理解出来ます。 その患者に話している医者は、薬など出しておきますとは言いませんよ。
お礼
"心を病む原因は分かっています。どうすれば、その病を治癒できるかも理解されています。 多くに今のアメリカ流の精神科学会に占領されていては、本来の正しい考えも広がらないでしょうね。" という事を書いていただきましたが、鬱が長引いて治る可能性が低い場合や、医師の薬を多量に飲んで自殺を図る人が年間には、交通事故を上回る位の、数になっている事は、合点がゆきません。 心を病む原因が分るなら教えてください。如何いう原理で治ってゆくのかも分るなら教えてください。 有難う御座いました。
- mac_res
- ベストアンサー率36% (568/1571)
精神疾患に限らず、原因が不明な疾患はたくさんあります。 原因不明でも症状を緩和し、患者のQOLを高めることができるなら、治療を行うのが医療だと思います。医療の目的は原因究明ではなく、患者のホスピタリティーにあるからです。 一方医学の目的は原因究明にあります。 医療法 http://www.houko.com/00/01/S23/205.HTM#s1 を参照してください。 > 精神疾患の原因が特定出来ない事が、寛解と言う限界を造っていると思いますが、国家が如何して原因が分らない事に対しても、治療を、許すと言う許可を出しているのか、教えてください。 なんか難解な文章で「許すと言う許可」ってなあに?とか「寛解と言う限界を造っている」とはどういう事とか突っ込みどころ満載ですが… 1. 完治できず寛解になるのは「原因解明の有無」ではなく、治療の限界である。 2. 国は医療を管理しており、医学を管理しているわけではない。 3. 原因不明でも医療の目的にかなっていれば治療として認可し許可する。 もうちょっと身の丈に合った、「自分の言葉」で質問したほうが良いですよ。
お礼
心を病む事の原因は『心の矛盾』が原因と思っている者です。人間の脳内には二つの人格が存在していてその二つの意識が、矛盾や対立や分裂を起す事が全ての元を成していると言う事実を言っています。 今の精神医療は、その二つの意識の矛盾を解消する方向ではなくて、その矛盾が生み出した結果である『妄想』の相手をしているに過ぎない、と思っています。 貴重な御意見、有難うございました。
- ztb00540
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医者にはその権限が与えられているのです。 従って禁止は出来ません。 気になるなら、他の病院に行ってみては、もしかしたら貴方が納得する病名を作ってくれるかもしれません。
お礼
権限が与えられる事と、治す事の技量とは、又別な技術範囲があるのかもしれませんね。
お礼
Nowave2008様、再度のご回答有難う御座います。私の書き方では全ての事を説明出来ない事を教えて頂きました。感謝です。 私が特に意識して考えている事があります。それは生きる事に対しての『生き難さや、辛い気持ちで生きる事』に関してです。その生き難い想いで、若い頃18年の間苦しんできた事です。 この苦しみが何処から来て、どうすれば解消出来るのかに、関心があります。自我意識が圧迫を受ける事に付いてです。それ以外の事は、私には分りません。 只生き難い想いが高じて、この世からいなくなってしまう場合もあるように見受けられます。こういう事ををなくしたいという気持ちが何時も私の原動力になっています。 自分が苦しんだ経験を、せめてどの位の事で人の役に立てるのかを試しています。出来ないかも知れません、出来るかも知れません。お願いしたいのは、どうしたら出来るようになるのかという事を、教えて頂きたいと言う事です。 私の場合は『死』に対する恐怖症で18年間苦しんだ事でした。毎日が死刑囚の気持ちで過ごした者です。そのために『感情が湧かなくなる症状』離人症と言うものになった事です。 感情が湧かない事は辛い経験でしたが、良い先生と良い本に巡り合って、32歳の時に『無意識の意識』に出会う事によって完治しました。 鈴木知準先生の教え『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』「ノイローゼの一年は座禅を10年した事と同じ」と言う事が実感できています。今はもう62歳になりました。もう少ししたら商売を子供に任せて、自分の人生で自分の好きな事をしたいと思っています。 それは、生き難さの解消です。自分自身はすっかり、安心が手に出来ています。それは『絶対の安心、或いは生死の問題が解決』した事を意味しています。全てを受け入れた時に救いは成就できます。、 死ぬ時は素直に死を受け入れると言う意味になります。運命をもう一つの意識と共に受け入れる事になります。もう一つの意識は『永遠』で出来ている事を知っています。心にはもう矛盾が生じなくなっています。何があっても怖くないと言う感じでしょうか? 有難う御座います。
補足
しかるに、私の様な発達障害(注意欠陥障害)もしくはその疑いのある者は 自我やアイデンティティが形成される前からと言うか、生まれて直ぐ心の矛盾が生じるのでしょうか? という事ですので、思い付いたことを書いてみます。森田療法を受けるために鈴木診療所に行った時、先生は言いました。『、、君、人間は見ようとすると見えないんだよ、見ようとしないで、スッと見るんだよ』と言って、一本の鉛筆を目の前に差し出しました。 昔の映画になりますが、ドラゴンへの道と言う映画の、ワンシーンです。強くなりたい、どうしても入門を許してもらいたい、と言う事でブルースリーが、老子に入問をお願いするシーンです。その時に労使は言います、『足元のコウロギの鳴き声は聞こえるか?』夢中になって入門がかなう事を願うブルースリーは『聞こえません』と答えます。 それからブルースリーの事を、老子は、はコウロギと呼ぶようになります。 厳しい修行の末に免許皆伝となって、少林寺を去ってゆく場面です。『コウロギの鳴く声は聞こえるか?』聞こえますと答えるシーンです。 厳しい体を鍛える修行の中で、隙のない人間性を育ててゆきます。意識を『何処に置くかの』修行です。気を配る事、或いは意識を集中して、敵に勝つ訓練です。負ければ何時も死が待ち受けているかも知れない勝負の世界です。 何時も気を張り詰めて、意識を生きる事に集中させなくてはなりません。その結果行き付く境地があります。それが『心を何時も何処にも置かない』という事になります。四方八方に気を配っていながら『今、目の前の事がしっかり理解できている世界です』 それは心の使い方の問題です。上がってしまって、目の前の事も、聞いた話もチンプンカンプンの場合と、目の前の事が良く見えていて、聞いた話も心に届いている場合の事です。 不注意優勢、衝動性、他動性等の問題点にどう関連付けされるのでしょうか?と言う事に関して言うならば、心の使い方にあると思えるのですが、四方八方に意識が向けられないと言う事は、自分の内面に注意が向いているような気がします。 誰の心にも『意識する自分』と、真実をそのままに見ている自分がいます。剣道や柔道や弓道など『道』と名の付くものがあります。それらに共通している事は、『自我意識』だけで生きてゆく事の困難さを教えるものです。自我意識だけでは気付き難い『殺気』や『間合い』等を体の訓練を通して心を鍛錬しています。 或いは仏道などにも言えています。仏道を習う事は、自分を習う事、自分を習う事は『自分を忘れる事』 とさえ言っています。 不注意優勢、衝動性、他動性等という事は、自分を忘れない事に由来すると思います。自分を忘れた時に働く働きを『無視した生き方になっていると思います。』その時には、自分の心が言い争いをしているはずです、自分の心の中に自分の心を閉じ込めているはずです。コウロギの声は自分を忘れた時に『自然と耳に出来るはずです』 四方八方に気配りしている時とは『自分を忘れている時』の事です。