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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

konsan29の回答

  • konsan29
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回答No.45

No.40の返信です。 > ○ 日本仏教は ほとんどすべて 間違いである。つまり 仏教と言っていても ブッダのおしえとは 何の関係もない。  ☆ と見るか? です。< いいえ、すでに末木文美士さんの著書から引用しましたように、 「もともと日本人は現世主義的傾向が強かった。 現世離脱の方向に向いたのは仏教の影響があった。 仏教の方は現世主義的な日本の土壌に取り込まれていく。」 つまり元々日本にあった霊魂観や自然観が仏教にも影響を与えた。それが日本おいて仏教と融合し発展・変容したと言えるでしょう。わたしは変容だと思いますけれど。 仏教はキリスト教などと違い、絶対教条主義ではないですね。 哲学のように時代や地域によって変容していきます。 末木さんは 「インドの大乗仏教でも、修行を積んではじめて境地に達成できる。凡夫が直ちに悟りにいたるというような思想はみられません」と、はっきり書いています。   本来の仏教は出家が前提であり、霊魂を否定し、肉食妻帯を禁じていた。日本の僧侶は在家以上に俗化している。愛欲・性欲のなすがまま。腐敗堕落した葬式仏教がほとんど。これでは悟りなど遠い存在でしょう。 「仏性思想・本覚思想は修行を否定するなど、堕落に結びつく要素を多くもっていた。 修行は不要、凡夫は凡夫のままでよいとは、きわめて安易な現実肯定に陥り、危険な思想といわなければならない。 こうした思想は乱れた教団の現状を自己弁護するものである。」 とも厳しく指摘しています。 >○ 苦や煩悩や無明からの解放は 人びとに宿る仏性のちからによる。 田上さんは 人々は縁によって良い行いもすれば、悪い行いもする。 清浄な心が元々具わっているということではない(縁起) などと語っていました。 何度も書きますように、仏性は釈迦以後の大乗仏教から発生した思想ですね。釈迦自体は説いてもいないし、少なくとも修行もしない凡夫のままでは、悟りは得られないということでしょう。高僧でも愛欲・性欲に溺れているのが現状です。 そんな安易には悟りは得られない、ということではないですか。 >○ この仏性にもとづくなら 生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これこそが ほんとうはブッダが説きたかったことだ。 快楽主義は悟りの境地には、ほど遠いのではないですか。 快楽も苦悩も表裏であり、「無我の思想」の境地ではありません。大乗仏教でも「空」と呼んでいますね。 >生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これはどこの教団が主張しているんですか? 仏教ではないと思いますが。

bragelonne
質問者

補足

 konsan29 さん ご回答をありがとうございます。  まづ今回おそわったことは 次のご見解です。  ★ 仏教はキリスト教などと違い、絶対教条主義ではないですね。 / 哲学のように時代や地域によって変容していきます。  ☆ これは大きく議論を呼ぶと思うのですが どうでしょう?  キリスト教もしくは個人のキリスト信仰のことはいまは措いておいて いくつかの見解に分かれるのではないでしょうか?  1. ブッダは ゴータマのほかにもいるとしても あたかも絶対である。そのさとりの境地そしておしえを曲げることはならない。(袴谷憲昭・松本史朗)  2. ブッダは わたしはブッダだと名乗った者勝ちだとすら言えるほどに 自由に多様に現われてよろしい。《変容》がまったく自由だ。  3. 《仏性》の説を基礎として すべての良心と信教そして思想哲学に普遍的な人間観ないし存在論がありうるとする立ち場。  3-1. この仏性を 経験的な――たとえば アーラヤ識としてのごとき――ものであり概念だとする見方。  3-2. この仏性は 非経験の領域に仮りに想定するものであって けっきょく非思考なる信仰の問題だとする見方。――なぜなら上の(3-1)は 仏性=アーラヤ識の説が 諸法無我の説と矛盾する。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり  これはどこの教団が主張しているんですか?  仏教ではないと思いますが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは《変容》としてお受け取りください。でも《変容》の許容については konsan26 さんも必ずしももろ手を挙げて賛成しておられるわけではないようです。  ★(要約) 清浄心は元からそなわっているか(つまり仏性)の問題・快楽や世俗主義の問題・本覚思想(特にその行き過ぎ)の問題がある。  ☆ つまり《教条主義》ではないけれども 或る程度の《原理原則》はあるのだし これを曲げてはならないとおっしゃってもいるようです。  あと  ★ 空観=縁起説  ☆ にかかわって わたし自身のひとつの拠り所をお伝えして よろしかったらさらにご議論を展開していただきたいと存じます。  ▲ (中村元:龍樹)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは   存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも   のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。     (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)  という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。      (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから 次を導きました。  ○ この仏性にもとづくなら 生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これこそが ほんとうはブッダが説きたかったことだ。  ほかのみなさんも加わっていただいて よい質疑応答が出来つつあると思います。さらになおよろしくお願いいたしとう存じます。

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    私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか? ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか? ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。 ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。 また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。 つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。 それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。