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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

konsan29の回答

  • konsan29
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回答No.38

No.26です。返信の回答ですが、 末木文美士さんの著書をお読みなら、すでに質問への答えも書 かれていると思います。以下箇条書き。 仏性・本覚思想は大乗仏教の思想であること。 日本人に現世否定の精神を教えたのは仏教。 もともと日本人は現世主義的傾向が強かった。 現世離脱の方向に向いたのは仏教の影響があった。 仏教の方は現世主義的な日本の土壌に取り込まれていく。 その教理的な代表が本覚思想。 『梅原猛の授業 仏教』朝日新聞社 釈迦の本来の主張は四諦と十二因縁。 四諦思想は実践哲学。 十二因縁は形而上学、哲学化。 四諦は愛欲をコントロールし滅ぼす方法。 十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。    ついでに、 『仏陀のいいたかったこと』田上太秀 釈尊は霊魂の存在を否定する立場。 無我説は霊観念を否定する。 輪廻の中に生存し続ける限り、人は苦しみから解放されない。 形あるものに生まれることは、苦からは解放されない。 生まれ変わらないことが苦から解放される。 釈尊の求めた究極の安らぎは、楽しみではない。 輪廻の苦からの解放である。

bragelonne
質問者

お礼

 konsan29 さん ご回答をありがとうございます。  ええ たしかにお説ごもっともです。ごもっともなのですが おっしゃっていることは  ○ ブッダのおしえとは何か?  ○ ブッダのおしえは どのように世界に広まったか? 特に日本ではどのように受け容れられ展開することになったか?  ☆ の問題だと思います。こういった観点で情報をおしえていただいたのだと思います。  ところがここでは  ○ マハーヤーナ・ブッディスムにおいて・つまりインドの地で 《仏性》の説は現われたのだが そしてこれを日本などではほとんど一様に受け容れたのだが ではなぜブッダは この仏性を説かなかったのか?  ☆ これを問うています。    おっしゃるように 歴史的事実としては  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  です。一致して認められています。しかも これをどう捉えるか? が問うている問題です。もしこの(β)の見解であるなら これを徹底させるのか? になります。つまり  ○ 日本仏教は ほとんどすべて 間違いである。つまり 仏教と言っていても ブッダのおしえとは 何の関係もない。  ☆ と見るか? です。  その点少し言い添えますと  ★ (田上太秀)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  形あるものに生まれることは、苦からは解放されない。  生まれ変わらないことが苦から解放される。  釈尊の求めた究極の安らぎは、楽しみではない。  輪廻の苦からの解放である。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが ブッダのおしえの原形であり基本であるとしますと それでも インドの後世の人びとやそのかれらに賛同する日本人のあいだでは  ○ 苦や煩悩や無明からの解放は 人びとに宿る仏性のちからによる。  ○ この仏性にもとづくなら 生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これこそが ほんとうはブッダが説きたかったことだ。  ☆ と考えられているのだと思います。それについてご見解をいただければさいわいに思います。という問いなのです。どうでしょう?  

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