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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

konsan29の回答

  • konsan29
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回答No.24

 >(β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 仏教史を読めば、必ずといっていいほど書かれてあることです。 たとえば、 『仏陀のいいたかったこと』田上太秀(駒沢大教授) 講談社 「仏性はもともと人間の心の本性は清浄であるという考えを表した言葉である。 大乗仏教は要するに仏性に目覚めることを教える宗教であるといって過言ではない。 しかし、自己の本性は仏性であるというこの思想は、釈尊の教えるところではなかった。」 「今日わが国で親しまれているお経の全てといってよいそれらは、大乗仏教が創作した経典である。釈尊の説法を書き残したものではない。 『般若心経』『金剛般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』、浄土三部経(『大無量寿経』 『観無量寿経』『阿弥陀経』)、『大日経』『金剛頂経』もみな、大乗仏教徒の手になる偽経である。」 『日本仏教史』末木文美士(東大大学院教授) 新潮文庫 「中期大乗仏典ー4,5世紀の成立。『勝曼経』『涅槃経』のように、如来蔵・仏性を説く教典はこの頃の成立と考えられる。」 「すべての衆生に悟りの可能性があるという考え方は、如来蔵思想・仏性思想などとよばれ、インド中期の大乗仏教において主張されるようになってきたものであるが、日本では最澄が南都の法相宗の五性各別思想に対抗して主張し、大論争を展開したことはよくしられている」 「天台宗の誰もが同じく成仏するという一乗主義に対し、法相宗は無仏性の衆生は成仏しないと応酬した」 「如来蔵・仏性思想は、インドやチベットの大乗仏教では主流とはならなかったが、中国・日本ではほとんどすべての仏教思想が、この上に築かれていってよいほどの大きな勢力となった」 「仏性思想は日本へと渡っていくうちに、いっそうの展開を示すようになる。現世において仏の悟りに達するのが、密教の即身成仏であり、禅の頓悟である。仏性が衆生から草木までおよぶのが、草木成仏である。」 *あきらかに仏性思想は、大乗仏教が創作した論理ですね。

bragelonne
質問者

補足

 konsan29 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  これでわたしの質問も ブッディストもしくはブッディスムを研究しておられる方から――いままでのいきさつから言って 次のような表現を用いますが――相手にされるようになりました。重ねて感謝を申し上げます。  さて ご見解ですが  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  * あきらかに仏性思想は、大乗仏教が創作した論理ですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     >(β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。   仏教史を読めば、必ずといっていいほど書かれてあることです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということで (β)のご見解であるとまづは承ったのですが そうすると どうなりましょうか?   (あ) 《仏性》説は 取るに足りない非ブッディスムである。  (い) いやそこまで言っては言い過ぎである。ブッダのおしえの中にも要素としては 《仏性》説に通じるものがある。  (う) (い)は もしそう言ってよければただの学問の――価値判断において中立的な――見解である。ゆえに やはり《仏性》説をしりぞける(あ)の見解に立つか それともそうではなく 《無明を悪循環から好循環へと回転させる縁起説=空観としてのさとり》のはたらきとしてのような《仏性》を積極的に摂り入れる立ち場も成り立ちうるとするか。  すなわち 後者の立ち場として  ★▲ (末木文美士) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・現世において仏の悟りに達するのが、密教の即身成仏であり、禅の頓悟である。仏性が衆生から草木までおよぶのが、草木成仏である。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とするか。  konsan29 さんは どうでしょう? (あ)でいらっしゃいますか? なお考慮すべき余地はもうないでしょうか?  次の文章を参照します。  ▲ (末木文美士:§中世天台と本覚思想) ~~~~~~~~~~  〔袴谷憲昭の挙げる三つの特徴の〕第一点は土着思想と仏教とのかかわりに関する問題提起である。・・・  従来から日本の仏教の現状に対して批判的なのは インド以来の仏教の本来性を追及する仏教学者の側に多く・・・。これに対して 現実の日本の民衆に根差した仏教に関心を持つ民俗学者などは 上記のような傾向にむしろ積極的な意味を見出そうとしており 仏教学者の研究と必ずしも十分に共通の地盤を持たない。いわば理想・理念に立つか 現実に立つかの相違である。・・・  しかしまた だからといって 本来の仏教の立ち場からの批判を、無意味だというつもりはない。それは現実に居直ることにすぎない。現実を現実として認識することと本来的なあり方を求めることとは 必ずしも矛盾することではないように思われる。現実を正しく受けとめることによって はじめて本来的なあり方との距離を見定め それを自らの問題としてゆくことができるのではあるまいか。  あたかも戒律無視の自己正当化ともいうべき『末法灯明記』が 親鸞によって自己内省の書として読みかえされることによって 新たな生命を与えられたことが思い合わされる。本覚思想の問題も それを批判することの有効性は認めつつも 他方 現実に日本の仏教思想史のなかで機能してきた意味について認識を深めることも不可欠のように思われる。・・・  (末木文美士:『日本仏教思想史論考』・一七 pp.314-315  1993)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まだまだ序論のようですし わるく言えばどっちつかずの議論のようですが 再考の余地があるようにも受けとめられると思うのですが どうでしょうか?  話を長引かせ 回答者をいちいち引き込むようで もしそう見られると心苦しいのですが このようにお応えいたす仕儀にあい成りました。よろしくどうぞ。

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    私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか? ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか? ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。 ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。 また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。 つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。 それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。