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自分を認める。 ←よーわからん
お盆のさなか失礼します。 なんで今の自分がうまくいかないのか。 考えついたのは、「自分を認められていないのでは?」 ということだ。 とはいえ、自分なりの挫折は味わったし、 自分はダメだと思えるようになった。 「ダメなところもいいところも受け容れる」 っというのが感覚としてよくわからない。 分からないということは受け容れられていないんでしょうか。 認められていないんでしょうか。 今落ち込んでいますが、「落ち込みやすいのも俺だ」と考えます。 なのにとても苦しいです。 いいおっさんなのに涙が出そうになります。というか出た。 もっと挫折するべきなのでしょうか。 死ぬまでマイナス思考と付き合おうと覚悟はしています。 質問 自分の認めかた を教えてください。
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ここに書かれている回答は、皆があなたのことを思いながらも、自分のこと『自分の物の見方』を書いているんです。 大切なことは、『あなたがあなた自身で自分自身を知り、自分を信じること』『自分の力で考えること』だと思います。 自分の価値観を確立することが何よりも大切なのだと、私はいつも考えています。これが出来るまでは、悩みは付きません。 悩みの中から、自分の真実が生まれていくのだと思います。 ここのところを忘れて欲しくは、ないんです。 誰もが自分の人生では主人公で、心に自由を持っているということを。 それは人に強制されるものではないし、自分で選び取るもの。 『物事の価値判断の取捨選択の自由は、誰もが持っている』と言うことを。 価値判断の取捨選択の自由を捨ててしまったら、それはあなたではないし、誰かの幻になってしまいます。 この世を生きていく限り、自分自身を生きるとき、大きな壁を他者に感じることは、きっとあります。 でも、それを壁と感じてしまうのは、自分自身が揺らいでしまったからです。 本当の自分が解っていれば、簡単に揺らぐことはありません。 揺らぐと言うことは、悩みが生じているからなんです。 それは、自分の価値判断に自信がなくなってしまったからです。 それこそが、壁の正体なんです。 では、何故、悩みが生じるのか? それは、他者との関わりの中で、自分が持ってきた価値、信念が正しいのか誤りなのか解らなくなってしまったからだと思います。 いろんな人と関わって、いろんな考えを受け入れたり、捨てて来たり、誰もが通る道だけれど、他者と関わっていて、自分の中に他者の考えが混入すると、迷いが生じます。 自分でありながら、他者でもあろうとしたときに、何が思いやりで、何が我が儘なのか解らなくなって、混乱することがあります。 何をどう発言したら、行動したらいいのか解らなくなってしまうことがあります。しかし、迷いながらも、必ず残る部分があなた自身だと思います。 おかしいと思えばおかしいと思って良いのです。 本当におかしいと思うなら、それは、あなた自身の真実だから。 そして、自分で正しい、価値があると思ったことは、全部捨てなくて良いのだと思います。最後まで残ったものは、やはり、あなたの真実だからです。 他者は他者、自分は自分、それで良いんです。 自分なのに他人でもあろうと余計な力が入り過ぎたとき、自分というものが解らなくなってしまうのではないかと思います。 あなたが今、悩んでいるのは、これまでのことが自分で選んできたことなのか、選ばされてきたことなのか、解らなくなってしまったからではないかと思います。 でもこれは、私の考えであって、私は私です。 あなたはあなただから、ここに書かれたことから、何を拾っても捨てても自由です。 『物事の価値判断の取捨選択の自由は、誰でも持っている』からです。 『物事の価値判断の取捨選択の自由』を捨てないで、『自分の人生を生きるのは他人ではなく、自分自身である』ことを忘れないようにしていると、自分が進む道が自ずと見えてくると思います。 自分を認めるとは、自分の道を信じることに他ならないと思います。 よりよい道を歩みたいから、悩みが生じるのだけれど、悩みの中から、本当の自分、信じたい自分、最後まで認めることが出来る自分が生まれるのだと思います。
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- youchan37
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レスありがとうございます。 長文で多大なるご負担をお掛けし、重ねて又このように回答を差し上げるご無礼をお許し下さい。 心苦しく感じております。あと一点だけ。 家庭内において激しい虐待などがなくても、子供の心は傷つくのですよ。 親は社会的には、まぁ普通の人で、実際子供を愛していて、その親御さんなりに一生懸命子育てをする。 しかし、それでもその親御さんが真の自己愛を獲得していなければ、子供の心は傷つくのです。 例えば嫌われ松子のお父さんです。キチンと働いて立派なお父さんです。暴力も振るいません。 でも姉妹間のえこひいきのようなカタチで、松子は心に傷を負います。 エヴァのシンジもそうです。お父さんのゲンドウの決めゼリフは「問題ない」です。 ガリガリの利己主義者です。ゲンドウは「自分は誰からも愛されていないと思っていた」という人です。 以上はフィクションの世界でしたが、まぁこんなものの方が目にされている可能性が高いかな、 と思いまして。しかしフィクションといっても、これらは極めて、現実においても有りがちな話です。 以下は実話です。実際に深刻な、今で云えば人格障害にかかったクレアという女性の話です。 こんなことは、世の中に山ほどあることなのです。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4945040.html 回答番号:No.6 パーソナリティ障害の最多の原因は、心理社会的な親子関係の躓きだと、専門家が指摘しています。 虐待が原因になることも沢山ありますが、そこまで激しくないものの方が、数としてはずっと多いのです。 私もそうでした。 まずは幼児期なのです。幼児期が一番重要です。幼児期なので、完全な記憶は残っていない場合が多いです。 又、数回位の深刻な心的外傷よりも、むしろ日々繰り返し繰り返し続いたもの。これが心理社会的な~ です。 チョットしたことの積み重ねです。クレアの例などからも、その辺りがうかがえると思います。 但し勿論、貴方様がパーソナリティ障害者(人格障害者)だと言うのでは決してありません。 単に性格傾向として、心に悩みを抱える人にとって、こういう捉え方は、自身の体験からも、 大いに参考になると思っています。 それで、少しだけですが、貴方様に欝の心配を感じます。 涙が出てくるというのが、もし何か不自然なカタチだとしたら、少しだけ心配です。 今のやる気のなさのようなものも、遺伝子的・器質的なものによる欝だとしたら、 これはなかなか心理社会的な「考え方・生き方」だけでは解決できないです。 一定期間でも薬が必要になったりもします。 もし万が一この先、涙の問題や、やる気のなさが深刻になったら、 然るべき専門医を早めに受診された方が良い場合もありますので、 それも頭の片隅に置いておかれるのが宜しいと思います。万一ということです。 老婆心から付け加えさせていただきました。
お礼
何度もご回答ありがとうございます。 性格は幼少期で大きく変わるということは思っています。 私がもし親になったら、子供には褒めて褒めて褒めまくって、 たまに叱って育てようと思っています。 ただ、僕がどのような教育を受けたにしろ、 今「自分」のことについてそういったことを言っても、もう過ぎたことです。 ただ、かなり固定化されているということは自覚する必要がありますね。 欝っぽくなるのも織り込み済み、諦めています。 酷いときには病院にも行きましたし、これからも受診することはあると思っています。 しかし今までおっしゃるように、過去に自分がどういう体験をしたか、 そこでどう感じたか、などを詳しく思い出す必要があるようですね。 なかなか難しいことではありますが・・・。ほんと忘れましたよ。 それこそ「もう一人の自分」を立てて考える感覚でしょうか。 死ぬまで修行と思えるよう、 まず自分の過去―現在の俺―そしてこれからどうしたいのか俺、 ということを考え抜こうと思います。 ありがとうございました。
- shift-2007
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#12 >でも人間ってそうすることが成長するってことじゃないんですか? それはまた別の話だと思いますよ。 具体的に人間の成長とは何をさすのでしょうか。 一人の人間の中に二つのスタンスがあるという状態は誰もが持っているものです。 ただ、その両者間の溝が深くなると精神が病んでしまいます。 そこで、この両者に橋を架ける(受け入れる)にはどうすればいいかと問い始めるのです。 問題があるから答えが必要になるのですが、 問題がなければ答えは必要ないです。 一人芝居を止めることができれば、受け入れる方法という答えは必要ないのです。 安易に答えを求めるのではなく、問題そのものに対する理解を深めるとその中に答えがあると思います。
お礼
難しい…。 なんだかイメージできなくなってきました。 仰るのは、問題を無くすというよりも、 誰もが持っている「溝」を深くならないように注視しとけばいいよってなことでしょうか。 他の方がおっしゃっているのと同じように、 「自分とはどういう人間かを見つめ直す」 ということが大事なのでしょうね。 確かに今までやっていませんでしたから。 言われて昨日今日とやろうとはしてみましたが、 思考が進まないんですよね~。 これから慣れていけば光が見える気がします。 頑張ります。 ありがとうございました。
本気で自分を認める・・あるいは自分を知りたいのでしょうか? それなら、先ず必要なことがあります。 自分とは何・・を知らないと、あるいは自分の定義がはっきりしていないと、自分を認めるって言ったって・・と言うことです。
お礼
おぉ!なるほど。確かに。 自分を知らなさすぎるんですよね。 「自分とはどういう人間か」と考えようとした時に、 真っ先に浮かぶのは 「友達に聞いてみたい」「催眠術でカウンセラーの人に呼び起こしたりしてほしい」 などということです。 そういうことが癖になって、 今まで自分を知らなさすぎたのかも知れません。 ちょっと自分のことについて考えてみます。 ありがとうございます。
- puu1-2-3
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こんにちは。 認めるというよりは、許す、と言うほうが近いかもしれません。 認めることはできないが、仕方が無い、許してあげよう。 ということです。 自分自身が嫌い、何もかもダメで許せないということは、 生きていて本当に苦しいことです。 しかし自分自身を少しでも好きになれば、 認めていけるきっかけになるかもしれません。 (この性格はいただけないが、このスキルはすばらしい、さすが俺、と思えるようになるといいですね。)
お礼
最近思うのですが、「許す」ということを 他人に対してもしたことがあるのかなぁと。 別に根に持って恨んでることは無いのですが、 「許し」もせずそのまま放置状態にしているような感じでしょうか。 だから感覚が分からない? 自分にも長所はいくつかあります。 しかしそれに増して短所が何故か脳内を占める量・時間共に多いのですわな~。 湧いて出てくるような感じです。 ま、これも僕なんですよね。 ありがとうございます。
- shift-2007
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#8 受け入れる人と、受け入れられる人は同一人物ですね。 ならば、一人の人間の中に二人分のスタンスがありという事になります。 これっておかしくないですか? なぜ2つに分かれてしまったのでしょう。 2つに分けた後、その両者に「受け入れる」という架け橋をかけようとしているわけです。 これは一人芝居だとは思いませんか。
お礼
一人芝居だと思います。 これがおかしいと仰るなら、 僕はかなり長い間おかしいようです。 でも人間ってそうすることが成長するってことじゃないんですか?
- youchan37
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レスありがとうございます。 前回答では「ありのまま」の云わば構造のようなものを主に、お話差し上げました。 「期待するからいけない」と。まさしくそうなのですが、では「期待しないようにしよう」と、 これも又期待する心なのです。期待しなければ良くなるはずだ、というのも「期待」です。 ではどうすればいいのか。どうしようもありません。日々自分なりに一生懸命生きるだけです。 心がひっくり返るその日まで、です。 或いは又、その「期待」というものは実は「非現実的な高すぎる理想」とも言えます。 「感情」を直接的に操ることはできません。胃や心臓を自由に動かそうとしているのと同じです。 そこが本当に分かれば、なのです。 もう一つ、以下は全く別の側面からのお話です。長くなりますが、とても大切なことだと思っています。 心理社会的側面から考えた「自分を認める」ということについてです。 貴方様の詳細が分かりませんから、どうしても範囲が広くなってしまいます。 例えば、こういうネット世界で、成り変り・成りすまし等で別人を装い、 自分で自分をフォローするなどしないと、自分を維持できないと思っている人などを見かけます。 本来ありのままにさらけ出すべき自分を、さらけ出すことができない人などです。 (勿論これは貴方様のことではありません) この人は「ありのままの自分」を受け入れていません。現実にはありえない「別人」になる行為。 これは又「ありのままの世界」を受け入れていない、とも言えます。 何故なら、現実の世界で別人になることは不可能だからです。よってこれは実に分かりやすい例と言えましょう。 又、攻撃的になったり、或いは「いじめられている」と必要以上に訴えることで、逆に相手を責めている人。 或いは又、非建設的な、不毛な言い合いに終始する人。 こういう人を外から見れば、実はこの人が「何を満たそうとしているのか?」がよく分かります。 それは「自分を認めて欲しい」のです。 勿論誰にでも「自分を認めて欲しい」という気持ちは、あって然るべきです。 しかしそれがまるで子供のようなのです。甘えているのです。 ただひたすら、何がなんでも、どんな相手に対しても、「自分を認めて欲しい」。 無理をして良い子を演じる完全主義的な人、の一つのカタチです。 何がなんでも、認めて貰わないと気が済まない。よって大変にしつこくなったりもする。 何故こうなるのか? これを心理社会的に捉えれば、一番多いと思われる原因は「愛情飢餓~自己嫌悪」です。 愛情に飢えている。ならば満たしてやらなければいけない。どうやって? それは「自己愛」です。 自己愛が、その基礎です。本当の自己愛があれば、愛情飢餓を受け入れ、自己嫌悪を脱することができる。 自己愛があるから、自分で自分を受け入れられる。 自分で自分を受け入れられるから、他人のことも受け入れられる。 期待する心がある。どうしようもない。そしたら「切る」。時にはそれが必要です。 そのまま置いておくのです。どうしようもないから放置です。ありのままに。 自分の心を切る。又時には、相手に対する心も、切る。そのまま置く。放置する。 それは例えばネット掲示板の世界では「スルー力」などが、それにあたる場合もありましょう。 うーんと頑張る。粘って止める。行為を「切る」。愛情飢餓の自分を自分で認め、行動を補正・修正する。 例えば禁煙・薬物からの脱却。例えば強迫観念症の人が強迫行為を切ること。これらは皆同じです。 「愛情飢餓~自己嫌悪」の原因は、多くの場合親です。 例えばパーソナリティ障害が起きる原因として一番多いのは「自己愛に傷がついたこと」と云われています。 自己愛に傷をつけた人は誰なのか? 一番多いのは「親」です。 幼児期を振り返る。親に甘えさせて貰っていない。だから甘えが残っている。 甘えさせて貰っていないということは、愛情を貰っていないということ。「愛情飢餓」。 同時に、甘えさせて貰っていなければ、間違いなく自己愛に傷がついている。 傷ついたせいで、自己愛が萎縮しているかも知れない。或いは自己愛が肥大化しているかも知れない。 そして萎縮しても肥大化しても、必ず自己嫌悪に陥る。 自分を認められない人は、多くの場合親に心を傷つけられ、愛情飢餓となり、自己嫌悪に陥っている、と。 まとめるとそういうことです。 自分を認める=自分を受け入れる=自分を愛する=自己嫌悪を脱する=他人を認める=ありのままの世界を受け入れる…。 ~もっと正確に言えば、受け入れようとする「意志」すらないのが、最後に行き着くところです。 どうすればいいのか。最初にすべきこと~ それは心の傷を見つけることです。 そして、その傷がどう自分の考え方・感じ方・行動に現れているのか、知ることです。 長くなりましたので、続きは以下の私の回答や、そこに出てくる本などを参考にしていただければと思います。 沢山のことをお話しました。ですから、この場ですぐに「分かれ」とは申しません。 消化するには何年もかかると思います。私とて修行の途中です。 程度の差こそあれ、結局は誰しもが、死ぬまで修行を続けるのだと思います。 1.http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5183918.html 2.http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5179574.html 3.http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5164077.html 4.http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5140187.html 5.http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5120191.html
お礼
何度も長文の回答をありがとうございます。 お礼が遅くなって申し訳ありません。 じっくり考えさせていただきました。 私の自己卑下グセがいつからなのかは分かりませんが、 親はそういう傾向にあったと思います。 ただ、自分が愛されていなかったかどうかは分かりません。覚えていないんです。 そんなひどい仕打ちをされた記憶もないですし、殴られた記憶もありません。 小学校の算数のテストで76点をとったら親に心配になられたことは 記憶にあります(笑)。 期待に応えたいと思っていたんでしょうね。 運動も勉強もできて、友達も誰とでもしゃべれて、 先生にもいい人でいたい・・というような八方美人だったことは確かです。 我慢をする子どもだったとは思います。 まぁでもファミコンもねだったら奇跡的に買ってくれましたし。 「傷」というのは何かの出来事がきっかけでできたものなんでしょうか。 そういうものは今のところ特に思い当たりませんが、 昔のこともちょっとずつ記憶を呼び戻しながら、生活していこうと思います。 ただ、「期待」がない生活というのは健全ではない気がしていて、 まぁ「欲」というか、そういうものを取り戻したいと思っているのが今の僕です。 結局はそのバランス感覚ですよね。 当人がそのバランスでよけりゃそれでいいという。 ありがとうございます。 色々考えるきっかけを与えてくださって。
自分だけを認めると唯の我が儘だし、自分のことはさておき、人のことばかり思っていても唯のお人好しなわけだし…。 両極端にならなければ、大概のことは上手く行くのかもしれませんね。 自分を認めると言うことは、「自分を《も》認める」という意味になるのではないかと思ったりします。 自分も他人もいる「世界そのものを認める」と言うことになるのでしょうかね。これが時には難しかったりするんですが…。 無理にどうこうしようとするのではなくて、自分も同じ地上に住む仲間だから、生きている以上は皆、何か役目があるんだろう。 ――それでは、だめでしょうか。 “ この世の中に無駄なものは一つも無い、 無駄な人も一人もいない、無駄な職業も一つもない” とは生前、彼の経営の神様、松下 幸之助さんが残した言葉なのだそうです。 《価値のないもの、役に立たない人は、この世には何一つ存在していない。 どんな仕事も必要で、無駄だとか駄目なやつだと思ってしまうのは、長所に気が付く事が出来ないからであって、親や上司に見る目が無いだけだ》 ということを仰っていたそうです。 この場合、親や上司を「自分」に置き換えてみてはどうでしょう。 他人を見る自分の目。 自分自身を見る目。 見方が間違っているから、苦しいのかもしれないですよね。 ちょっとだけでも視点を変えると、世界が変わってきそうな気がしませんか? >「落ち込みやすいのも俺だ」 落ち込みやすい人って、気を使いやすいからなのだそうです。(心療内科医談) で、我慢して我慢して、我慢しきれなくなって、思い切ってやったところ、失敗…。 「はあ…」 となってしまうわけですが、でも、それも経験です。 次に活かせる事が出来るなら、無駄ではないです。 無駄が無駄だと解ればそのこと自体は“無駄ではない”し、失敗で他にも方向性が見えたのなら、“発見”だし。 悩んだら、夜空を眺めてみたり、海に行くと良いと思います。 近くばかり見ていると、自分のことばかりみてしまうから、どーんと地球を丸ごと感じられるぐらい、自然を満喫すると、何だか元気が出てきますよ。 >いいおっさんなのに涙が出そうになります。というか出た。 涙には、ストレスを発散させる作用があるそうです。 涙を流した時には体内でロイシン・エンケファリンというストレスを和らげる物質が分泌されるんだそうですよ。 いいじゃないですか。どんどん泣いてスッキリしてください。 泣いたと言うことは、泣く前よりは、元気になっていると言うことですよ。
お礼
一度相当に落ち込んだときから、あまり気を使わなくなった気がするのです。 前はちょっとしたことでも「あの行動はこう思われたのでは・・・」という心配をしていました。 神経症というやつですよね。 それはだいぶマシになったのですが、 そうすると今度はただの思いやりのない人間をしている気がしてきて、 最近は人のいい所を探そうとしています。 自分のいい所というのも探しますがよくわかりませんね。 泣くとすっきりしますね。 あと、今の僕の場合は眠れるので起きたらかなり忘れています。 自然にも触れたいですね・・・。 ありがとうございました。
- remonpakira
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>>「受け止める」って他のことばで言うとなんなんでしょうね。 先人の言葉を借りると まず、仏教で考えると「空」の極地でしょうね。 僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされる 有名な般若心経に出てくる「色即是空・空即是色」の「空」です。 「空」と「無」は似て非なるものです。 「空」とは世の中のすべての執着を捨てると言う事です。 お釈迦様は釈迦族の王子だったのですが、その地位や名誉を捨て 苦行に身をささげましたが、最終的にはその苦行も捨てます。 それが悟ると言う事なのでしょう。また空の大切なところは能動的な 生き方を否定しているわけではないという事です。 悩みなど、、すべてを捨て、、、こだわりをなくし、、 無理なく生きる。。 そこにはもはや >>「自分を認められていないのでは?」 もありません。 ただ間違っていけないのは決して努力の否定では ありません。 世界最古の哲学であるインドのウパニシャッド哲学は 「梵我一如による輪廻からの解脱」を解いています。。 梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること。 それを知ること。 ちょっと私には高尚過ぎて理解できません。 自然の一部である自分、そこから連なる周囲の環境、、そのすべてが 自己責任だと素直に感じることができる時、、梵我一如に近づける 気がします。
お礼
そうそう、自分を認めるって一種の悟りだと思います。 「悟り」の意味はひとつでないとしたら、という前提ですが。 世の中その辺にいっぱい同じようなことを悟ってる人がいる気がします。 頭で考えず感じることが大切なんでしょうね。 本やQ&Aにすることに無理があるのかもしれない。 ありがとうございました。 参考にさせていただきます。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
逆にお聞きしたいのですが、 認める人と、認められる人とは別人ですか?
お礼
えーと、よく分からないんですが 「認められる」というのは受動態としての意味ですよね? それで言えば今回の場合「私」という意味で同じ人間ということです。
- kernel_kazzz
- ベストアンサー率29% (895/2993)
>自分の認めかた を教えてください。 昔っからやってるやり方なんですが。 声に出して「これで、いいのだ」と言う。 ご想像通り、バカボンのパパの言葉ですが、これが馬鹿にならない程、私には効きます。(笑) 上手くいっても「これで、いいのだ」 上手くいかなくても「これで、いいのだ」 失敗して落ち込んでも「これで、いいのだ」(失敗のリカバリ後) 自分ってダメだなぁと思っても「これで、いいのだ」 どんな状態でも、今のコレが自分なんだから、これでいいのだ。 富士の樹海に足を踏み入れた時も、「これで、いいのだ」と叫んで引き返しました。(笑) 今から思うと、「これ」を「自殺する」に結び付けて、良く首を吊る方向に突っ走らなかったなぁ、と、ちょっとぞっとします。
お礼
どひゃー。 つい最近、青木が原樹海について検索したところですよ。 いや、別に自殺願望みたいなもんはないんですがね。怖いので。 これでいいのだー!って行ってしまわなくてほっとしました。 声に出して言ってみます。逮捕されない程度に。 理屈じゃねぇんですよね。 くっそー俺の左脳!べしべし
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お礼
まさにその通りですね。 自分で考えるということを今までちゃんとしていなかったのでは、と思います。 信じられたり、認められたりするのはその後ということですね。 仰るとおり、「自分で自分のことを考える」という感覚が今のところよく解りません。 何しろ今までそのつもりで考えていたはずですから。 変な癖がついてしまっているのかもしれません。 これも慣れだと思って、ちょっと訓練してみます。 話はそこから始まる、とも思いますし、話はそれだけ、とも思えます。 ありがとうございました。