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間抜けな死に方をするのも運命だと思いますか?
今ここに0歳の赤ちゃんがいたとします。 お母さんがその赤ちゃんをだっこしているとき、手を滑らせて赤ちゃんを落としてしまいました。 打ち所が悪く、その赤ちゃんは死にました。 さて、これって凄く間抜けな死に方だと思いますが、この赤ちゃんってこういう風に死ぬために生まれてきたんでしょうか? この赤ちゃんの人生っていったい何だったと思いますか?
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- kottinQ
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「間抜けな死に方」という言い方が不快です。 以前バラエティー番組で、お笑いタレントが背中にロケット花火を付けて点火していましたが、見ていて馬鹿なことをしていると思いました。 それで死んだら「間抜け」と言われるかもしれませんが、実際のところ、本当に死んでしまったとしたら、私は「間抜け」とは言えませんね。「死」とは厳粛なものです。 親の不注意で、亡くなった子どももいますよ。 ハイハイをし始めた子どもが、母親が目を離した隙に縁側から落ちた。落ちたところに水の入ったバケツがあった。子どもは溺死しました。 本当の話です。 たまたま私の家に医者が往診に来ており、その子が運ばれてきました。 母親の嘆きは、見ていられませんでした。 「運命」とか「死ぬために生まれてきた」というような言い方は、私には軽薄に聞こえます。失礼。
死は死です・・ 死に間抜けも、間抜けでないもありません。 そこには死と言う厳然たる事実があるだけです。 落としてしまった親は嘆き悲しむ・・事でしょう。
補足
>死に間抜けも、間抜けでないもありません まぁ、建前ではそうなっていますよね… 万物的に言ってもそうなのかもしれません。 現実的にはほとんど誰もそう思ってないでしょうけど。
嫌な例え話ですがお付き合いさせていただきます。 (ご質問内容が嫌なのではなく私の頭に浮かぶ情景が嫌です。) 生まれて来なければ0です。 全くの無です。 それに比べれば、その赤ちゃんは何時間か何日か何月かを明らかに人として生きています。 単純に11ヶ月30日23時間59秒(ちょっと計算省いています。)と考えても0の何倍に成るでしょうか。 すぐにご理解いただける通り80年と11ヶ月30日23時間59秒の比ではありません。 確かに生あるものとして存在したからこそ死という終焉が訪れたのです。 0(無)からは何も繋がっていきません。 その赤ちゃんにとっての11ヶ月30日23時間59秒が他人の80年に勝る幸せな人生であったと祈る事しか残された者にはできませんが。
- nemoax006
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例からすると不注意な親です 赤ん坊は自分では動けません、誰かの助けが無ければ生きられません 赤ん坊側には責任はありません。 責任をとるのは親です
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補足
確かに死、それ自体は厳粛なものです。 しかしその道程が間抜けに思えるので、「間抜けな死に方」と書きました。