日本人にとって贈物は 拒否のシンボルか?
次の文章は 《日本にも「ロマン主義」があるよ》という話を承けて唱和する内容だというものです。
ロマン主義が入って来ると なかなか分かりづらいかとも思うのですが 中で
(お) 日本人にとっての贈物は、拒否のシンボルなのではないか
という命題についてみなさんはどうお考えになるか。これをうかがいたいと思います。
質問者としては 一理あるなと思うと同時に お世話になっている人にはよろこんで贈り物をするのではないかとも思ったりします。はっきりしないので――また 一理あるなと思うのは 自分の感覚がそうであるというだけですので―― ご見解をたずねようというのが 趣旨です。どうなのでしょう?
◆ (ri_rong 氏:【Q:ロマン主義について】)~~~~~~~~~~
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5124232.html
[回答No.16 補足欄]
(あ) 西欧では、特に身分の高い人が、人々への無償の贈与を自らへの責務と感じて義務化するのに対し、日本ではむしろ低いくらいの身分の方が、同情と哀れみの気持ちを寄せますよね。なんだか、ずいぶん様子が違っているような気がするのですが、むろんここではその行いのどちらが良い、悪いと評価するのではなく、この違いを生じさせる思想の体系について考えてみようというわけです。
(い) おそらく、日本人のその理由としては施し(贈物)というものに対して、自らの責務よりも先に、渡した相手を貶めるという気持ちが先立つからじゃないかと思いますが、どうでしょう。また、受け取り手も「贈物」を受け取ってあまり良い顔をしない。違うでしょうか。
(う) 仮にそうだとして、「贈物」に結び付いた日本ふうの思想がどこに由来するかと、あれこれ考えて見ますと、どうもそれは祭りじゃないかと思うんですね。
(え) 日本の祭りに詳しいわけではないですが、土地神様にお供えする「贈物」は、口では五穀豊穣とか、「良いことがありますように」なんて言ってはいても、こころのなかでは、どうか飢饉や戦争が起こりませんように――つまり、何事もなく平和でありますように――という大いなる力の関与を、拒否する目的で、なされるような気がするんです。
(お) つまり、日本人にとっての贈物は、拒否のシンボルなのではないか――というふうに思うわけです。
(か) だから、ひとたび贈られてしまうと、何がなんでも贈り返さねばならない。田舎へ行ったときに、お歳を召された方どうし、繰り返し言葉の贈り返しをなさっているのを見たことがあります。
あれはつまり、拒否ではないか?
けれども、ある程度のところでその拒否を、どちらかが飲み込まねばならないときが来る。ぐっと堪えて飲み込むのです。――こういう感覚が、あるような気がします。
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最後の(か)などは わたし自身にもよく似た体験がありますし そういう感覚を持ち合わせてもいます。
われら日本人には 粋でなおかつ誇り高き心が生きているのかといった問いではないかとも考えますが 果たしてみなさんは どのように受け留められましょうか。
おまけですが 贈り物を 質問に対する回答として見立てた場合には どうですかね。質問者は ズバリの正解を拒否する姿勢になるんでしょうか?
補足
マレーシアと日本の比較についてもっと知りたいと思っています。 韓国やアメリカとの違いに関するウエーブページはかなりありますが…。 17日から入院中でお返事が遅くなって申し訳ありません。 ありがとうございました。