『昭和陸軍の独立歩兵団』
昭和15年頃から、常設師団の満洲永駐化と、師団3単位化に伴い、
50代師団と独立歩兵団が新設されました。
その内、第61~67の独立歩兵団は、
師団3単位化の余剰施設(甲府、佐倉、東京赤坂、札幌、豊橋、福知山、鯖江、奈良、篠山、松山、松江、福山、大分、小倉、)
大正軍縮から保管管理していた施設(高田、村松、佐賀)
他兵種等の空施設(騎兵第4旅団の盛岡の2つ)、
その他新設の施設(溝の口、郡山、加古川)を使い編成されました。
同時に、
東京麻布の第3連隊の跡地は、近衛歩兵第5連隊が新設され。
青森第5連隊の跡地は、電信第4連隊が新設されました。
札幌第25連隊は、上敷香に移駐(跡地は新編成の歩兵第125連隊新設に)。
そして、これら独立歩兵団の設置で、従来の師管の概念が崩れ、
更に上級司令部として軍管区が設置された。
50代師団と、独立歩兵団は、
予備役兵その他の短期急速訓練を繰返し実施する目的とした編成内容とされ、
平時2コ大隊編成で、動員の際に3コ大隊となる様になっていた。
以上は、分かっています。
(1)独立歩兵団の各歩兵連隊の徴募は、どの様にされたのでしょうか?
単純にその地域の旧連隊区より徴募されたのでしょうか?
それとも、師管区、軍管区?
(2)どの様な基準で、郷土師団と独立歩兵団に振り分けたのでしょうか?
(3)また気になるのは、第65歩兵団を動員した第65旅団は、旅団長の奈良中将のセリフに
『第65旅団は老兵』とあります。
独立歩兵団=老兵だったのでしょうか?
所属の第141連隊(福山)は、資料により昭和16年8月に予備役を動員して編成されています。
(予備役100%なのか?現役比率は分かりません)
同じく第142連隊(松江)は、同日編成されていますが、現役予備役の編成方法は不明です。
第122連隊(松山)は、昭和15年8月の早い時期に編成されています。
開戦直前に兵を入れ替えたのでしょうか?
どういう動員計画だったのでしょうか?
どんな事での良いです。
教えて下さい。
戦史叢書読みました。
アジ歴も探しました。
防衛研究所行きは、ご勘弁。
どんな事でも良いです。
よろしくお願いします。