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田沼意次と松平定信

nutsの回答

  • nuts
  • ベストアンサー率36% (141/389)
回答No.1

汚職政治家はいかん、清廉潔白がよしというのは当然のことです。ですが従来は両者のその一面だけを強調しすぎていて、田沼の功績や松平の視野の狭さがあまり指摘されていなかったので、あらためて評価されている途中ではないでしょうか。 歴史的(おもに唯物史観的)に産業社会の発展過程を考えると、農業社会→工業社会→商業社会となっていきます。江戸時代以前・明治時代から高度成長期・現在の日本を考えれば納得できるのではないかと思います。 江戸時代の段階でその過程を見抜き、一足飛びに商業中心の社会へと発展しようとした政治家がいたなら、それは評価されるべきかもしれません。もっとも田沼がそこまで見通していたとは思えませんし、産業の基盤が脆弱なので長続きはしなかった可能性が高いです。 武家政治の規範であり松平も信奉していた儒教は、本質的に復古主義で、少数の支配階級以外の全人口が農業に従事していたはるか古代を最高の社会と教えます。その中から松平の潔癖主義も出てきたわけですが同時に、マニュファクチュア制など工業社会の萌芽が生まれていた社会状況を逆転させるものでもあったわけです。

mayu1314
質問者

お礼

ありがとうございます。 私は歴史関係があまり詳しくないので(本当に疎いんです!ごめんなさい)、正直、この回答を見ても何とも言えないのですが、わかりやすく詳しく説明していただき、専門的な知識をお持ちのnutsさんに、とても感謝しています。 本当にありがとうございました。

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