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殺人罪ってどういうこと?

ある質問で、質問者の方が、『遺族にとってみたら故意であろうと過失であろうと、家族を殺された事には違いないんだから、過失致死の場合も殺人罪にすべき』と書かれていました。 現代の刑法は故意犯処罰・罪刑法定主義が大原則ですし、刑法理論を学んだ者としては故意犯(殺す意思をもって車でYをひき殺したX)と過失犯(車を普通に運転していたら、不意に猫が飛び出してきたので、慌ててハンドルをきったら不注意にもBをひき殺してしまったA)とを、同じ殺人罪に問うのは暴論だと感じるのですが、法理論を抜きにして考えると、先の質問者さんのお考えも一理ある意見に思えてきました。 そこで質問なのですが、上のような過失で人を殺してしまった場合にも「遺族感情を考えたら殺人罪に問うべき」という意見について賛成ですか?反対ですか? 理由もうかがえれば幸いです。

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  • big0822
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回答No.12

反対です。  社会としての問題と個人としての問題を混同しています。現代の社会的には故意犯、過失犯の違いは必要なものですし、一つ間違えば他の制度まで連鎖的に崩壊する気がします。法治国家によって守られている部分もあるのに、そのことには触れず、社会上求めても仕方のないことまで求めるのは問題だと思います。  また、被害者の立場になって考えてみろ、という人は被害者とは無関係の第三者です。これが被害者や遺族によって主張されているのなら、お気持ちはお察ししますくらいしか、かける言葉はありませんし反論できるものではありません(但し、それで加害者を重く処罰する制度改革をすることとは別です)。しかし、第三者の場合は、被害者としての気持ちを想像するだけで全面的に分かった気になり、死刑を適用しろ、刑を重くしろなどと、加害者や司法に大して怒りをぶつけますが、判決が出たら後は知らんぷりです。第三者による主張は全く説得力がありません。  基本的には被害者への救済は加害者への量刑を重くすることによってではなく、マスコミからの二次被害防止、被害者給付制度の拡大、精神的・心理的ケアの促進、社会的な犯罪防止への取り組みによって行われるべきだと考えます。

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 おっしゃる通りですね。 >第三者による主張は全く説得力がありません。 これは私も常々思います。第三者はブラウン管(最近は薄型テレビですか)のこちら側から加工された断片的なニュースを観ているのに、あたかも自分が当事者(あるいは逆に事件を客観的に見られている)かのように感情移入や錯覚をしてしまい、マスコミ報道を鵜呑みにしている自分の偏りに気づいていないという事は往々にしてあることだと思います。

その他の回答 (11)

  • m_inoue222
  • ベストアンサー率32% (2251/6909)
回答No.11

>遺族感情を考えたら殺人罪に問うべき 遺族感情...だけ...で考えたらそれでもなんでも良いでしょうね 刑や罰は「遺族感情だけ」で決めて良いとは思いません 遺族の感情で考えると表彰状を出さなければならない殺人犯も生まれかねないでしょう DV亭主に悩む家族は「殺してくれてありがとう」と喜ぶかも? 法律は社会生活(集団生活)をしていく上での決め事ですから遺族の感情のみで決められるのはどうかと思います みんなの意見が「殺人罪相当」の機運になればそれも正解かも? わたしは未成年でも何でも故意に人を殺せば即死刑派です 税金を使って更正させるより「社会から抹殺せよ派」 過失については逆に「罰が重すぎると考える派」です

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >わたしは未成年でも何でも故意に人を殺せば即死刑派です 死刑制度については、なぜ欧米諸国は軒並み廃止したのか、興味があるので勉強してみようと思っています。 「人を殺した者には、自らの生命を以ってあがなわさせる」というのはとても分かりやすいですし、遺族はそれを望むでしょうけど、社会として果たしてそれで良いのかは私にはまだわかりません。 話はそれますが、全ての殺人が万死に値する悪なのか?と言えばそうとは言えないケースもあるように思います。 有名な尊属殺重罰規定違憲判決のケースや、世間が誰も手を差し伸べなかった老老介護の果ての同意殺人などはその殺人行為を誰も非難できない気がします。とはいえ、殺人を無罪とする訳にはいきませんからこの種のケースには執行猶予付き有罪判決が多数出ていますが、それだとて、遺族の中には被告人に死刑を望む人もいるかもしれませんし、難しい問題のように思います。 基本的には刑法は故意犯処罰が原則なので過失犯処罰規定がない限りは過失は不可罰ですね。 過失致死罪の法定刑は「50万円以下の罰金」です。

回答No.10

反対ですね。 やはり故意と過失は明らかに違う。あとは事故の詳細しだいかも知れませんけど(どっちが飛び出したのかなど。もし、車の信号無視なら、ちょっと許せない気もする)。 ただ、同じ過失でも、飲酒やひき逃げは殺人で裁いてほしいですけど。

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >ただ、同じ過失でも、飲酒やひき逃げは殺人で裁いてほしいですけど。 私もそう思いますが、飲酒と言えど過失である以上、殺人という訳にはいかないのでしょうね。 酒を飲んで運転した事をもって、(本人は、少しくらい飲んで運転しても自分だけは絶対事故を起こすわけないと過信してますから)未必の故意があったと言うのも無理があるですしょうし・・・。難しいですね。

noname#38456
noname#38456
回答No.9

ちょっと追記、おゆるしを(__) >>私の質問は、「法理論はこの際置いておいて・・ >>・・市民感覚としてはどうでしょうか?」という意味でした "市民感覚として"なら、やはり飲酒運転事故の場合は、やはり飲酒運転の撲滅でしょうね。極端な例ですが、罰金をいまの十倍、又、飲酒運転の場合、"酒を飲ませた"側にも責任はあるので、そっちも罰則の適用と強化など。 私の回答のとうり、裁判は厳正中立あるべき。そのため、「罪を憎んでひとを憎まず」の精神が、必要かと。 ちなみに、覚せい剤の罰則で、日本の罰則はわからないけど(たぶん懲役刑??)、タイだったか、どこかの外国では、それだけで"死刑"だとか。 あと、アメリカだと思ったが、道路では歩行者優先ではなく、車優先。 あと、ブラジルか、どこかの日系の外国人??の国(聞いた話)では??、事故の場合、被害者側"も"、悪いという感覚。ちなみに、ひき逃げなどしたら、その相手を探しだし、家族、親戚等、総出で相手をリンチにしてしまうとか。 あっ、ここ、興味本位というか、さらっと流して。事実と違うかもしれないので・・それは、あしからず。 だから、市民感覚もそれぞれかもしれないが、日本では、やはり冷静になって、飲酒運転の撲滅が、理想と。 又、被害者側の感情論で、"死刑"なら、逆に質問にある場合、『猫を避けてひとをひいて死刑??、なぜ??』と加害者側の感情論もあることをお忘れなく。 長い追記で、ごめんなさい。 以上

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 罰金を十倍というと一千万円以下の罰金(五年以下の懲役又は百万円以下の罰金×10)にするという事ですね。 払えなくて労役場送りになる人が続出しそうですけど、趣旨としては大変結構だと思います。 酒酔い運転をしたら1発で免許剥奪(再発行なし)+車没収とかも多いに効き目がありそうですね。 >ひき逃げなどしたら、その相手を探しだし、家族、親戚等、総出で相手をリンチにしてしまう リンチは良くないですね。中世のイギリスでも正式な裁判として決闘裁判はやってましたけど…

回答No.8

反対だな。 故意と過失には大きな差があると思われる。 遺族感情云々よりも、犯した罪の大きさ、プロセスで裁くべきではないだろうか? 未必の故意なども殺人に含めてもいいかもしれない。 飲酒運転で人をはねて死亡事故。 これは危険運転よりも準殺人で裁いてもいいかもしれない。

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 飲酒の場合に准殺人というのは良いかもしれませんね。

  • Rafi
  • ベストアンサー率28% (138/492)
回答No.7

私も他の方と同様に反対です。 遺族は守られるべきですが、仮にまったく逆の事例として「Aは数十年に及ぶ長い間、Bによる嫌がらせ(法的には対処が難しい範囲で)でかなりの精神苦痛に耐えてきた。ついにAは我慢の限界を越え、話し合いの場を設けたが、Bとの話し合いは決裂。帰ろうとしたBを引き止めようと、肩をつかんだが、力が入り過ぎ、Bが転倒。その際に運悪く机の角に頭をぶつけ、Bは死亡」となった時、Bの遺族が「あれは恨みによる殺人だ!過失致死でなく殺人罪にしろ!」と言うとしたら、どうでしょう。 「殺意」というのは非常な重要なキーポイントだと思います。 ちょっと最近同情系で極論に走りがちなご意見を耳にしますが、あくまで事件や現状は十人十色で、殺意のウムを無視した結果論だけによる罪状決定は非常に危険ではないでしょうか。 ただ交通事故などに関しては、泥酔クラスの飲酒運転は、「通り魔的な殺意(ターゲットはだれでもよい)という殺意」があったと認定されてもいいと思いますが… (少なくとも相当重量の鉄のかたまりという凶器を無差別に振り回すという行為ですので…)

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 危険運転致死罪に相当するケースでは、殺人と同視しても良いとお考えの方は多いようですね。 >ちょっと最近同情系で極論に走りがちなご意見を耳にしますが 編集により加工されたニュース報道を鵜呑みにしてる人も多そうですね。最近の言葉だと、メディアリテラシーっていうんでしょうか。 ニュースを伝えるキャスター・コメンテーターがいろいろ批評を加えていますが、彼らも所詮は素人感覚に毛の生えた程度の知識・見識で感情的な(あるいは局の報道方針に沿った)コメントが多いですし、あるある大辞典の捏造問題ではありませんが、そのバイアスのかかった断片的なニュースや批評だと認識して取り入れないと、視聴者も判断を誤るんだと思うんですけど、そういうのを市民感覚って言われると、裁判官も立つ瀬がないなぁと同情します。

  • t78abyrf9c
  • ベストアンサー率47% (3029/6402)
回答No.6

『遺族にとってみたら故意であろうと過失であろうと、家族を殺された事には違いないんだから、過失致死の場合も殺人罪にすべき』 ↑のような考え方の人には、何を言っても通用しないだろうと言うのが私の実感です。 そのような考え方の人にとっては、「事実」が全てであり、その事実に至るまでのプロセスはどうでもよく、事実に対する報復のみが解決策でしかないという、確固たる信念があるように感じますし、遺族に対して究極の解決策は、亡くなった人を生き返らせる以外に無いはずですから、そのような考え方の前では何も言えないと思います。 ただ、一つ気になるのが、↑のような発言をする人自身が(冤罪も含めて)加害者の立場になってしまった時にどう考えるのか?という事です。 ここからは私の推測でしかありませんが、このような発言をする人は、自分自身が一生殺人を犯す事は無いという、妙な自信(?)のよなのもが見え隠れしているように感じてしまいます。 もし、その考え(自信)が背景にあり殺人罪を力説するのであれば、筋が通らないと思うのです。 自分自身が同じ罪に問われても良いという考えが表明されているのであれば、筋が通ると思いますので、(根本的な良し悪しは別として)その場合は殺人罪に問う事も一理あるのではないかと考えます。 私は、冤罪の問題や日本における裁判の有り方に疑問を持つ点が多々ありますので、事実のみで罪を問う姿勢は非常に危険だと感じてます。

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 生まれてから一度も全く何らの犯罪行為をしたことのない人ってたぶんいないと思うんですよね。 被害者や遺族には感情移入しやすいから無理からぬ面もあるとは思いますが・・・ 冤罪問題といえば、袴田事件の1審の裁判官が「自分は無罪だと思っていた」と今更ながらに言っていますね。 個人的には「そういう事は墓場まで持っていけ!」と思う訳ですが、3人の判事の内、1人でも無罪の心証を持っているのに死刑判決を出してしまうとうのは恐いものがあります。

  • ozunu
  • ベストアンサー率14% (240/1644)
回答No.5

反対です。 被害者遺族感情を持って刑罰を決めるのなら、それは何ら私刑と代わり有りません。

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね。裁判は復讐の場ですからね。 イングランドでは19世紀まで「決闘裁判」の制度があったようですね。

noname#38842
質問者

補足

間違えました。訂正します。 >裁判は復讐の場ですからね 裁判は復讐の場ではないですからね

  • Black-K
  • ベストアンサー率25% (20/80)
回答No.4

故意と過失は当然別物と考えるべきです。 ただし、飲酒運転などの 「その行為を行った場合に死者が出る可能性が著しく増大する」行為の場合は 無差別殺人行為として罰しても構いませんが。 ・・・そりゃそうでしょ?毎回毎回「飲酒運転で死亡事故」がテレビで流れてて それでも飲酒運転するなんて故意犯と同等に扱うべきでしょう? 予断ですが、猫が飛び出したら走行速度を落してください。 よほどの速度でなければ避けてくれます。

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >それでも飲酒運転するなんて故意犯と同等に扱うべきでしょう? 私もそう思います。 ただ、飲酒運転を故意犯と同様に処罰するのは現状ではなかなか難しそうですね。 猫は避けてくれるんですね。

  • marumets
  • ベストアンサー率42% (199/463)
回答No.3

自分そのような状況に陥ったら、変わってしまうかもしれませんが、今のところ「反対」です。 結果のみで判断すると、対向車同士の衝突事故で、両方が死亡というケースで、互いに被疑者死亡で両者とも殺人罪になってしまいますよね。 また、不意の飛び出しによる事故の場合にも、たいていの場合は車に過失責任が問われますが、このような場合にも家族が死亡したという事実のみに着目すれば、殺人罪ということになってしまうでしょう。 殺す意志をもって人を殺めるのと同一に扱うのには法云々の以前で違ってくるケースが多いと感じます。 ただ、飲酒運転や、無謀運転による事故の場合、「未必の故意」の範囲をもう少し拡大して、殺人罪を適用できるようにできないのかな、とは思います。

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 悪辣な飲酒運転でも、未必の故意の拡張と原自行為類似な概念で故意を認め殺人罪とするというのは1つの折衷策かもしれませんね。 現実には、飲酒運転者は酔ってもちゃんと運転できると過信しているだけで未必の故意を拡張して認めるというのは難しそうですが、せめて危険運転致死に無期を入れる必要はあるかと思います。

noname#38456
noname#38456
回答No.2

法律には素人同然の知識しかない・・と前置きしての回答です。 簡単に回答してみると、反対ですね。 理由は簡単、裁判の場合、裁判官は中立的立場で思考し、判断するのが、原則と考えます。 そのため、車の事故で死亡のような場合、遺族側に立った、感情論的な思考、物事を判断するのは適切ではないものと考えます。 もし、感情論的な採決を望むなら、アメリカのように陪審員制度で、有罪、無罪の評決のみをくだせば良いものと。 あと、どこかで、読んだ見たことなのですが。 裁判官の仕事は法律にのっとり、法律を守るのが、仕事と記憶が、あります。だから、拡大解釈等は極力さけるのが、ベターと思うのですが。 したがって、殺意の有無により、殺人罪の適用を考え、必要ならば、被害者側が、殺人の意図の有無を裁判で証明すれば良いことと感じます。 それか、どうしても納得いかない場合は、司法の場ではなく、立法府(国会等)の側で、検討、改善すれば良いことです。 あくまでも、裁判は中立で裁き、法によって判断し、法によって裁くのが、原則と思うので。 以上

noname#38842
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >車の事故で死亡のような場合、遺族側に立った、感情論的な思考、物事を判断するのは適切ではない それは私も思います。普通の殺人の場合でも「被告人=死刑しかない」という遺族感情はとても理解できますが、それと裁判とは別なんですよね。 私の質問は、「法理論はこの際置いておいて、市民感覚としてはどうでしょうか?」という意味でした。言葉不足ですみません。 明快にご回答頂きありがとうございました。

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