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「愛する家族への手紙」

一緒に暮らしている家族だからこそ、なかなか言えないことがある。がん治療生活を通じて感じた、あなたの気持ちを家族にきちんと伝えませんか。 <投稿にあたっての注意> ※メッセージは全角で800字(半角1,600字)以内でお願い致します。 ※皆さんから寄せられた投稿が、第3回がん患者大集会のパンフレットに収載される場合があります。予めご了承いただいた上で、ご投稿ください。

みんなの回答

回答No.15

早いもので娘が旅立って、今秋には七回忌を迎えます。 過ぎ去ってみればあっという間の6年間でした。 娘はいつもいつも前向きで生きていました。看護師という職業柄、沢山の人達の死とも向き合っていましたし、自分の病気が簡単なものではない事も熟知していました。 親としてできる事はしたつもりではありましたが、後悔は尽きる事はありません。沢山の思いをきっと胸に抱えたまま、天国に旅立ってしまった事でしょう。 私は一つの言葉を思い出します。「がんになった事は不幸だけど、お母さんとゆっくりお別れできるんだよ」 「どうして 私が! 病気になったの!」など私を困らす言葉も娘の口から出ることはありませんでしたし、私が病気にならず自分がなったのを良かったと言ってくれました。 最後まで残される私の事を思いやってくれた娘にいつか会えたとき、「お母さんもがんばったね!」とほめてもらえる様、悔いない日々を送りたいと思います。  母より                          _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 本日はお忙しい中、来てくださりありがとうございます。 平成10年2月初めに体調の異変があり、検査の結果「がん」が発見されました。 それからの3年9ヶ月を皆さんと家族に見守られ、色んな思いや葛藤を胸に、手術や化学療法を行ってきました。「何があっても病気に負けたくない」という思いが強く、近畿大学や国立がんセンターで何度となく治療を行いましたが、残念ながら完治には至りませんでした。自分なりにその時々、一番良い方法を探してやってきたと思っているので、後悔はないつもりですが、できることならもう少し生きていたかったです。こんな形を迎えるのはとても不本意ですが、これも運命のようです。26歳に発病して以来、毎日が戦いでした。いつも、いつも気を張って、休まる時がなかった。でも、くたびれそうになると、いつもみんなが支えてくれていました。心強かった、うれしかった。本当に今までありがとうございました。  今までのお礼も兼ねて支えてくれた皆さんに、わたしが気付いたことを伝えたいと思います。何人かの人には言いましたが、それは「日々の大切さ」です。元気で何気なく生きている時は「時間は永遠に続くもの」と思っていますが、本当はそうではないと知りました。それからは、私自身、自分の人生に真摯に向き合えたように思います。 誰もがいつか、必ず死んでしまいます。だからこそ、「生きている今」を大事に過ごしてほしい。毎日の生活に後悔しないよう、精一杯生き抜いてほしい。 私は、29年間という時間しか得られませんでしたが、今、思えば幸せだったように思います。皆さんに支えられて、励まされていたから。皆さんそれぞれ忙しくしているのに、私の為に今まで本当にありがとうございました。とても感謝しています。みんなと過ごした時間・思い出を胸に一足お先に行きますが、いつも遠い空から見守っています。 最後に… 私がいなくなっても、さびしがりやの母の為に話し相手をしてやって下さい。 Keep on Sailin!!                           亜紀 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ この他にたくさんの友人たちに短い手紙を書いていました。死後お渡ししましたが、辛い作業でした。 母の願いは皆の胸の片すみにでもずっとずっと亜紀が生き続ける事です。 そして夏のひまわりの様に明るく元気な娘でしたので、ハワイでの約束の散骨、シンガポール、セントーサ島のピンクのイルカのいる島、そして日本の美しい海に沢山撒いてやっています。 私の生きている限り、娘は大好きな海でイルカやジェットスキーに興じていることでしょう。

回答No.14

1999年1月 大切な一人息子は急性骨髄性白血病と診断されました。 彼は健康で、将来の希望にあふれるごく普通の大学院生でした…。 ハイリスクの白血病で治るためには骨髄移植が必要でしたが、家族にも親戚にも白血球の型の合う人はいませんでした。 なんとしても子どもを助けたいと思うのが親なのですが、ドナーになることすらできません。心の中で、「助けてあげられなくてごめんね。」と繰り返しつぶやき続けました。 骨髄バンクに望みをかけましたが、とても珍しい白血球の型で、日本ではドナーさんがみつかりませんでした。結局、アメリカの骨髄バンクでドナーさんがみつかり、移植を受ける事ができ、元気になって退院しましたが、早期再発してしまいました。 再発してからは、治療の選択肢も少なくなり、あと数ヶ月の命と告げられました。 折しも私の誕生日に、病室からPCメールに添付して送ってくれた手紙です。ファイル名は「感謝」でした。 「淳彦、お母さんこそあなたに感謝しています。」 読むたびごとに号泣します。 母上殿  お誕生日おめでとうございます。母に育てられて26年余、愚かにも今になってようやく母の大恩に気付くとは、自分の情けなさに嘆くばかりです。  幼少の頃、私は病弱で、石臼のようでした。歩行、言語も遅い私をよくぞ大切に育ててくれましたことを感謝いたします。働きながら私のような子供を育てることは、並大抵の苦労ではなかったことと愚考致します。病気になれば人一倍心配し看病してくださり、昼の弁当も栄養状態をよく考慮してつくってくださりました。さらに教育にも熱心で、私が同じことをできるかと問われれば、絶対にできないと窮するでしょう。これだけの大恩を賜りながら、のほほんとしていた私はまさに愚子の一語につきます。肩をたたく事もせず、自分のことのみ考えてきた私がいかほど母を悲しませてきたか、と考えるとき、もっとはやく忠孝に帰せなかったものか、と自戒いたします。  中学、高校になっても、朝早くおきて弁当を作り、夜は仕事から息つく暇もなく夕食の準備に追われながらも、生活を支えてくださいました。持病を抱えながらも、仕事と家計を両立してきた母を見ると、もうゆっくり休んでください、と言いたくなります。  私といたしましては母上が御身お大切になされてほしいと思っております。これからは、もう少しのんびりと過ごして下さい。仕事をセーブすることが一番です。家族でゆっくりできる時間を増やしていきましょう。  今でも忠孝の道から外れている私をこれからもよろしくお願い致します。 愚子

  • choinb
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回答No.13

■ 妻への感謝の気持ちを送ります  私が胃がんと診断されて、心の動揺、仕事の悩み、家族への不安と、色々悩みながらの大手術を迎える日がとうとうやって来ました。  そんなうろたえている落ち着かない私に、妻は「お父さん、大丈夫よ。私が全ての病院での世話や、家の事をしっかりと支えて行きますからね。お父さんは病気に、手術に勝って元気になって早く帰る事の出来る、良い患者さんで、先生にも、看護婦さんにも良い患者さんでいる様に、あとの心配は大丈夫ですよ」と。妻は背中をなでながら、手をしっかり握りしめてくれて、麻酔の効き始めた体を、ストレッチャーで手術室に運ばれて行ったのを覚えて居ります。  ほんとうに胃がん摘出手術は、食事療法を全て0から始めなければならず、妻の毎日病院に来てくれる事だけが楽しみで、術後の病室では二週間、点滴のみで動けず、妻がベッドの側で、大丈夫だから安心してと、寄り添ってくれる姿に、いつも感謝でした。  病院の先生方は毎日が忙しく、時には事務的に作業をするだけの時もあり、妻が顔を温かいタオルでそっとふいてくれたり、髪を直してくれたりが何よりも癒されました。もし自分が妻にこれだけの看護の付き添いをして上げられていたか、今思うと妻に申し訳無い気持ちです。妻には、大変な思いで、私の心の支えになってくれたり、先生とのやり取り、家の事、全てを支えてくる心に感謝しました。そばに空気のように居る存在が夫婦としての絆かと心より思います。  いつも健康のことを考えてくれて、ほんとうに、ありがとう。妻の看護、思いやりで癒され、元気になり、社会復帰が出来ました。これからもよろしく。人生を二人で病気をした分、妻も乳がんで苦しみ悩み患者会でお世話になり元気にさせて戴きましたので感謝です。  残された人生楽しく一日一日を大切に生きましょうと心より思います。  「ありがとう」

  • yamamay
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回答No.12

孝史へ 今年の5月、前の主治医から「もう抗がん剤治療はできない」と言われ、孝史は「がん難民」になりました。選挙の告示まであと40日と迫った日の突然の通告に、私たちはうろたえました。一昨年末に「治療しなければ余命半年」と言われ、辛い抗がん剤治療に耐える孝史を傍で見守り、気丈に振舞ってきた私ですが、言いようのない絶望感に襲われ泣きました。 無理に無理を重ねて孝史の体力は落ちていました。自己完結型ですから、人に迷惑をかけまいと、やりかけていた仕事を整理・完結させ、がん医療についての政治・行政への働きかけは患者会の人たちに早くバトンタッチしようと焦っていましたね。私には生き急いでいるように見えました。 幸いにも今の先生とめぐり合い、治療が再開され、先生に励まされながら選挙戦を乗り切りましたね。孝史の生き様を見て燃えたボランティアの人たち。立場を越えて、知人友人に「孝史」の名前と人柄と「いのちの政策」実績を伝えてくださり、67,612人もの人が、孝史を再び国会へと送り出してくれました。 神様がくださった「最後の議席」の意味は何なのでしょうか。「がんイコール リタイアではない」。孝史のがんを「生き抜く」姿に勇気づけられたと多くの方からお便りをいただきました。でも、徐々に、「生きつなぐ」日々が来ることを覚悟しなければなりません。そんな日々を議員としてどう生きるのか。どんな仕事をどういう形でやるのか。そしてやれるのか。新たな苦悩が始まりましたね。でもね、神様は孝史に「ゆっくりと生きなさい。ゆっくり仕事をしなさい」と言ってくださっている ーー それが「最後の議席」の意味なのです。 昨年の今頃、宿舎のベランダのナスタチュームが枯れてきたので「もう片付けていい?」と聞いた私に孝史は言いました。「まだ花をつけているよ」と。私は、急いで水をやりました。今、あのときのことを思い出しながらこの手紙を書きました。

回答No.11

天国のばあさんへ  あなたは、広島の自宅で被爆し、地獄のような火の海の中で、なんども死にそうになりながら逃げたと、幼い頃から私に何度も話してくれました。でも、祖父のことは、あなたはあまり話してはくれませんでしたね。母によると祖父は、爆心地近くの中学教師で、学校で被爆して生徒の救護に努め、最後は力尽きてプールの脇で死んだそうです。  あなたの親戚は原爆でほとんど死んでしまい、あなたは“母子家庭”となり、世間の厳しい目の中で、苦労をして子ども達を育てたと話しておられました。  しかし、戦争を知らない世代の私は、あなたと、事あるごとにぶつかりましたね。年に数回、訪ねてきては「箸の上げ下げが気に入らない」と叱りつけ、そんなあなたに私は猛反発しました。しかし、厳格な戦前教育を受けたあなたは、その反発すら決して許さなかった。  大学生になり、あまり家にいることがなくなると、私とはけんかをすることは少なくなりましたが、時々我が家にやってきては、あなたはだれかとけんかをして、腹を立てて広島に帰って行っていました。  私が医者として働きだしてから、あなたは大腸がんになったけれど、命に別状はないと聞いて、私は会いには行きませんでしたし、食道がんになって広島から我が家の近くで治療をすることになった際も、病院を探すことぐらいしかしませんでした。  最後が近いと聞いて、一度だけ夕方会いに行ったときには、鬼のようだったあなたの面影はどこにもなく、ただ、ただ、うれしそうに私に笑いかけてくれましたね。それが本当のあなただったのか、今も私にはわかりません。それくらいあなたは最後に、会いにきた私を喜んで迎えてくれました。考えて見れば、いつもあなたが私の所にきてくれていて、あなたの所に行くことはほとんどありませんでしたね。  ばあさんどうしていますか。今日は、お祖父さんの命日です。無事会うことができましたか。

回答No.10

僕のお母さん頑張れ 僕の母は、乳がんになってしまいました。 すごく、すごく、ショックでした。母が乳がんになったときは、僕はまだ5歳でしたので、僕が支えになって上げられることは「お母さんの病院生活している間、しっかり良い子にして家で待っているから安心してね」と言った覚えがあります。母は、涙を流して、「淋しくさせてごめんなさい、許して」と僕に言ってくれ、「大丈夫、僕も泣かないで待っているよ」と、お母さんの大きな手をしっかりつかみ握手をしました。  その時に僕の心は、母さんと放れて淋しい、悲しいと思ったけれど、泣くと心配するので我慢しました。母さん早く病気が治って元気に帰って来て欲しいと心から思いました。  母さんは「元気になって早くあなたのところに帰ってくるから安心してね」と何度も、なんども言っていました。  今ではがん患者会に参加して元気になりうれしいです。

回答No.9

ありがとう娘たち、あの頃そして今も。 九年前の暑い夏の日、あわただしく乳がんの手術を受けることになった。  直後は、先が見えず、薄暗いトンネルから抜け出せずにいた私が、今こうしていられるのは周囲の支えが大きかったからだと思う。  当時妊娠中だった長女は、病院に見舞いに来て母親の現実を知り、さぞ辛かったろうに、「退院したらかぶるかっこいい帽子を見つけておくね」と明るい会話を残して帰って行った。  地方都市で働いていた二女は、金曜日の夜行寝台で上京し、病室のベッドで背中を拭いてくれ「来週また来るね」と日曜日の夜行で職場に戻っていった。温かいタオルの心地良さ、さり気ないやさしさが不安を和らげてくれた。  最近、「お母さん病気をしてから変わったと思う」と言われることがあり、少しうれしい。多分、娘たちがくれたやさしさが、私に生き方を教えてくれたと思っている。ありがとう。

回答No.8

親としてなにもしてやれなかった二男へ 胃がんの手術をしてから三十年たった。 五十歳で偶然胃がんが発見され「今すぐ切りなさい。切らないと命がありませんよ」と医師から告知されすぐに胃を摘出した。 退院後、窓際族、出世競争から脱落しストレスの連続から解放されて初めて気がついたのは、私が自分一人だけのことしか考えて生きてこなかった心貧しい仕事人間だった。胃がんになったのは、そんな私に対する天の警告だと思った。今迄は遙か彼方にあった死が突然目の前に立ちはだかった。 父は被爆者なので、この日がくることは覚悟していたが、十年も早いのであわてた。残された家族の生活と、今後をいかにしたら納得して「生きた」という実感を持って、あの世行けるか。 山好きの私が考えた残りの人生設計は、一、ヒマラヤをこの目でしっかりと見る。二、生きた証に本を一冊出版する。三、山小舎の管理人をする。四、スイスアルプスに登る。という目標である。 がん手術の翌年、大学を卒業した長男がバイクで乗用車と衝突して入院し、十五年間の闘病生活の後、亡くなった。 私は、生きる目標を全部達成したので、自己啓発のサークルに入り、そこでの出逢いが人脈を広げ、生活の質を高めた。わがままに生きてきた私を支えてくれた妻や二男への感謝の念がやっと湧いてきた。 退職後は、七十五歳から休耕田を耕して大豆を植えアマゾンの熱帯雨林の伐採を少しでも少なくしようと取り組んでいる。また、田舎の休耕田を都会の人に耕してもらう農業塾を立ち上げるなど、地域での活動の中に生きがいを見出している。 今年はがんと闘う仲間達とスイスのモンブランに登った二十周年にあたる。それを記念して「生きがい療法実践会」の仲間達と七月二十日から二十二日まで北アルプス後立山連峰の唐松岳と五竜岳に登る。そして、全国八カ所で生きがいを待って生き抜くためにがん医療への提言に参加して私の体験を話させていただく。

回答No.7

「ぼくの大切なおばあちゃんへ」 ぼくは、おかあさんからおばあちゃんの病気のことを聞いたとき 死ぬほどびっくりしました。 だって、おばあちゃんは、ぼくを一番かわいがってくれていて、 いつも笑っていて、元気だったのに、、、 ぼくは、おばあちゃんとおいしいものを食べたり、笑ったりする時が 一番楽しいんだよ。 「おばあちゃん!病気になんか負けたらだめだよ! まだまだ一緒に笑ったり、食べたり、遊ぼうね!」 あきらめたらだめだよ!おばあちゃん!                       亮太より

noname#37713
noname#37713
回答No.6

6年前、食道癌で入院していた主人からもらった手紙です。   「とうさんの大事なおが(方言で妻への呼びかけ)へ」  病院に来ていつも 髪のない頭を洗ってくれて 手っこ足っこもんでくれて 頭もみもみやってくれて 腰ぐりぐりやってくれて 背中のあかすりやってくれて どうもありがとう。 今日金曜日は、とても良いお天気でしたね。 あの雪はどこへ? 俺が退院するまでずっとこんな天気だったら、 いつもおがの事、安心でいられる。 おがのこと、信用していないのではなく、 心配しているんだよ、いつも。 身動きのとれない俺にすると、 それはもう余計な事まで考えすぎて大変なもんです。 (中略) ご存知のとおり、近頃見ているビデオテープは 「大草原の小さな家」。 4本もあるので時間がかかる。 それを見てて、うちの娘たちはなんてよい娘なんだろうと、 いつも思っております。 かわいくて素直で、 明るくてめんちょこりん(愛しい者)で、 正直者でうそついたりしないし、 笑顔がとてもいいし。 んー、一緒にいないと、よいところしか思いつかん。 娘たちと遊びたいなぁ。 こうしていると、今迄時間があれば ソファでたおれていた毎日が悔やまれる。 俺が元気になったら、みんなでどこか遊びに行こうね。  改めて読むと、 主人が恋しい時、主人がこの手紙のままの気持ちで、 見守ってくれている気がします。

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