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もしも・・・ II

imp-dscの回答

  • imp-dsc
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回答No.3

鎌倉が苦戦しつつも勝つでしょう。 どんなに頼朝が戦争下手であってもです。最大の理由は日本全国の武士が支持する理由と将来のビジョンがあるかないかが問題です。 奥州は支持しない理由はありません。だからといって支持する理由もありません。如何に勢力として巨大であってもそれは地方勢力としての巨大さです。そして巨大勢力はいくらでも内部崩壊・離間策を受ける立場にあります。 平家はどうか?確かに日本の政権を担う立場です。しかしながらそれまでの武士の反感をかってきた京都の貴族に抱きこまれて久しく地方の武士が付いても旨みは少ないでしょう。彼らの政権を認める事は武士の念願である土地の私有は原則として認められず私有は貴族の土地の管理人に甘んじるしかない事を肯定するに他ならないのですから。 源氏ですがこれは最初から武士による土地私有(財産保護)をはっきりと打ち出しています。共通の利害しかも切実な念願を共有している集団には内部工作は困難です。実行するとしても源氏以上に土地私有を保護することや直接的な利権(新たな恩賞を出すとか・・)や圧倒的に有利な軍事力を誇示する必要があります。 奥州は財産保護の概念は薄く。平家はする力はあってもヤル気はありません。となると消去法で源氏というのが私の結論です。例え義経がどう動いても結果は変らないでしょう。

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