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平城天皇の第二皇子について

平城天皇の皇子には、4人の皇子がいます。すなわち阿保親王(第一皇子),高岳親王(第三皇子),巨勢新王(第四皇子)がいますが、第二皇子の名称と経歴を教えてください。 というのは、日本後紀の平城天皇大同三年11月4日の条項に、内蔵寮の倉庫に押し入った盗人の釈放についての記事がありますが、これが今昔物語に書かれている逸話(記載段数,章は忘れました)と、良く似ている内容ではないかと思うからです。 この皇子が阿保親王の実兄弟であれば、阿保親王が第一皇子にもかかわらず、高岳親王が皇太子(後に廃太子となりますが)になったことの理由からではないかと思うのです。

  • 歴史
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  • Pinhole-09
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回答No.3

No.2の訂正です。 平城天皇は皇位につかれた時、弟の神野親王(嵯峨天皇)を皇太子に立てたそうです。 尚のちの文徳天皇は第一皇子の惟喬親王でなく、惟仁親王を皇太子に立てたそうで、種々の事情で、第一親王が皇太子になれなかった事はあるようです。 豪族各氏間や藤原氏内の勢力争いが原因のようです。 奈良期の政争を読んでいますが、桓武天皇を中心とする、平安初期の政争も面白そうですね。

kogonta31
質問者

お礼

平安朝初期の皇位継承については、天武系から天智系の移行(光仁天皇の継承)、さらに光仁天皇の皇太子他部親王の廃太子による桓武天皇への継承、このとき弟の早良親王(のちにおくり名されて崇道天皇と呼ばれる)を一旦皇太子に立てたが、藤原種継事件に関連付けされて廃太子となり、桓武天皇は子息である安殿親王(平城天皇)を皇太子にしています。平城天皇の皇太弟には神野新親王を立てていますが、これは安殿親王の心神上の問題により、親の桓武天皇が弟を推奨したためです。桓武天皇の頃は、摂政政治が行われておらず、天皇の発言権が多大なものでした。 桓武天皇は、平城京からの宣と強行や蝦夷地の開拓など、歴代天皇の中では強壮なイメージがありますが、立太子や後継者問題で怨霊に悩まされていたことが歴史書に書かれています(読み始めると興味が湧いてきます)。 文徳天皇も本来は惟喬親王(母親は紀静子)を立てたかったのですが、時の実力者の摂政藤原良房の干渉により、第四皇子(母親は藤原明子)の惟仁親王を皇太子に立てています。この頃になると、天皇自身も藤原氏の外戚関係に組み込まれてしまい、摂政の発言権が強大になり始めます。なお惟喬親王には阿保親王の子供の在原業平がかかわってきます(伊勢物語を読むと面白くなります)。

  • Pinhole-09
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回答No.2

No.1です。   「姓氏家系大辞典」によると確かに、第一親王阿保親王、第三親王高岳親王、第四親王巨勢親王となっています。  四人親王との文献が存在することは確かです。  第二親王の名が書かれていない事は今後調べてもまず判らないでしょう。 「系図纂要」の幕末の編者は不明な第二親王ははずしたものと思います。  第一、第二親王のような標記はありません。 阿保親王の話ですが、「系図纂要」によると、母の父の葛井氏は正五上で、高岳親王の母の父の伊勢木工頭老人の正四下より低いのですが、どちらも殿上人で大差なく、阿保親王が皇太子になれなかったのとは、関係なさそうです。(伊勢神宮の棟梁でしょうか随分位の高いものです) 私の推定では、平城天皇は在位が短く立太子せず、嵯峨天皇に譲位する際自身の皇子を皇太子にする条件を出したのではないでしょうか。 双方の協議で高岳親王に決まった、即ち何らかの理由で阿保親王は嵯峨天皇に敬遠されたものと思います。  この年同時に阿保親王は四品になっています。 第二親王の話ですが、名が消えたのには色々理由が考えられます。  常識的には親王の名が決まる直前に亡くなったのではないでしょうか。 一応親王の位だけ残ったということです。 略字ですが、文献名が書かれています。  後記、続後紀、紀、記略、三実、類、一代雑記、以上。

kogonta31
質問者

お礼

丁寧な再調査を頂きありがとうございます。 日本後記は逸文が多いため、散逸した本文に第二親王が夭折した記事が書かれていた可能性も捨て切れませんが、親王夭逝の場合何らかの記載があっても良いと思われます。正史には早良親王の慰霊などは何度も書かれており、第二親王が夭折しているのであれば、早良親王の怨霊と結び付けられ怨霊慰撫が必ず行われていると考えます。(早良親王の没年は785年,阿保親王は792年生れであり、第二親王が夭逝の場合、早良親王の怨霊と考えられる可能性は大きい) また阿保親王のことですが、大江本主が阿保親王の子供であったとの伝承もあり、阿保親王にも何らかの問題があった可能性はあるかと考えます。 いずれにしても、正史の逸文や新たな古文書などが発見されない限り、平城天皇の第二親王の名前および経歴,阿保親王との関係などは解明できない謎として残るのかと思えます。

  • Pinhole-09
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回答No.1

「系図纂要」などによると、平城天皇の皇子は3人です。  第一皇子の阿保親王は母が位の低い女であったので、のちに臣籍になったようです。  第二皇子の高岳親王、第三皇子の巨勢親王以下3人の内親王の母は同じで位の高い女です。(正式の妃かどうかは知りません) 高岳親王の件は平城天皇が大同4年皇位を同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位した時、高岳親王を嵯峨天皇の皇太子にしました。  しかしのちに「薬子の変」(失敗した藤原薬子のクーデター)に平城上皇が連座したため、廃太子になり出家しました。 阿保親王は弾正台の長を務めているので、盗人の件の親王は本人に間違いないでしょう。 在原業平は阿保親王の子です。 高岳親王は 異色の小説家の 渋澤龍彦 「高岳親王航海記」で有名です。  

kogonta31
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。 しかしながら各種の人名事典などを確認しても、平城天皇の皇子は4人となっており、第二皇子の名前のみが不明です。 日本後記の記事では大嘗祭が間近との理由で盗人を釈放としていますが、通常の盗人であれば、このような処置は行われないものと思います。一方今昔物語集の第二十九巻の話では、いつの天皇のときのことであったかとぼかして、盗人の処置をわざわざ内裏まで問い合わせをおこない、夕方にいずくとなく釈放させて沙汰止みになったとしています。正史には載せがたい内容を、説話に書いたものと思われます。 また阿保親王の母親は葛井道依の娘藤子であり、一方高岳親王の母親は、伊勢老人の娘継子でそれほど位の高い后とは思えません。また、阿保親王の后は桓武天皇の娘の伊都内親王であり、子息にも在原行平(奨学院を創設)などのように優れた子を持ち、人物的に欠陥があったとは思えないのです。身内で何かの不都合があったために、本来であれば皇位継承権があったにもかかわらず、阿保親王は皇太子になれなかったのではないかと思わせるのです。

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