• 締切済み

般若心経の効き目について。というか、お経って何だろう。

先日、思うところがあり霊視に行って来ました。 その際蛇に憑かれていると言われたので、近々祓ってもらおうと思っています。 で、祓うための準備としていくつか申し渡されたことがあるのですが、その中に般若心経を書き写すという作業がありました。 般若心経って、よく法事のときなどに読まされたりするお経ですよね? 軽く調べてみたら般若心経は”悟りをひらくための知恵を説いた教え、その核心”が書いてあるもので、内容としては”何事にもこだわりの無い心、空の境地”を説いたものだとのこと。 ここで疑問。 悟るための方法を説いた文章が何故お祓いや先祖供養に役立つのでしょう? (私が行ってきた霊視の真偽・是非ではなく)お経とは何か、お経の意義、お経の使い道???みたいなものを簡単にわかりやすく教えてください。

みんなの回答

  • truth77
  • ベストアンサー率37% (85/225)
回答No.4

「お経」というのは、釈迦の教えを書き綴ったものです。 ですが、釈迦が存命していた時代のインドには、今で言うメモ程度の記述法しかなく、ほとんどが言い伝えで伝承されました。 (大切な説法をメモ程度のものに残せるものか!といった感じだったのです。) 現在私たちが目にする「お経」というのは、仏教が中国に伝わった祭に、中国で研究され、書きまとめ上げられたものです。 伝わった中国にとっては外国の宗教ですから、文化の違いなどもあり、違約や勘違いなども含まれて翻訳されていると考えなくてはならないでしょう。 日本に仏教が伝わったのは、この中国語訳の経文でして、ごく限られた人たちにしか解読(?)できなかったのです。(その解読も正確であるかどうかはわかりませんよ) 話を戻しますと、お経の大元(おおもと)は、釈迦が説法された内容であり、ごくごく普通の言語で話していたもので、その話に多くの人たちが納得し、感銘を受けていましたから、私たちが耳にしている「呪文の様なお経」のスタイルではなかったのは明白です。 つまり、聞いている人が、内容を理解できない「呪文の様なお経」を唱えても、ほとんど効力がないと言えます。 難しそうな、呪文の様なモノを唱えている方が、宗教者としての威厳(いげん)を保てるので、伝統的にそうしているだけなのです。 今の仏教界には、肝心な「教え」の部分が欠けていると思います。 「○○に憑かれている」というのは仏教的に有り得る話ではあるのですが、「お祓い」というのは、どちらかと言えば緊急避難的な措置なのです。 どちらかと言えば、釈迦は、こうした緊急避難的措置を嫌っていましたので、こうした悪しきモノに憑かれたりしない正道として、八正道などの心を清らかにする教えを説かれたのです。 波長同通の法則とでも言うのでしょうか、悪しきモノと同通する心の波動を持っていれば、そうしたモノが寄って来るので、同通しない心に切り替えて行く方が、永続性のある効果が得られますからね。 お話を伺いますと、ちょっと仏教の本筋から外れている感じは受けますよ。

回答No.3

自分が仏や先祖を大切に思っているという 気持ちをお経を唱えることで表すという事でしょう。 仏様を敬うという態度、先祖の霊を音楽を聴くと 気持ちが良くなるのと同じように、お経を 聞かせることで慰めるという儀式。 亡くなった人が無事に成仏するために お経を唱えるという場合もあるしね。 本来、お経と言うのは仏の教えを人々に 伝えるためのものだとは思うんですが、 それだとお坊さんやお寺の収入にならないしね。

shooter
質問者

お礼

気持ちを表す手段。自分にも周囲にもわかりやすい手段ってことですね~。 お葬式や法事みたいなのもそういうことですよね。 そういう時じゃないと確かに自分のルーツとかに思いを馳せたりするときもないですし。ありがとうございました。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.2

お経については、宗派や、国(インド、中国、日本など)、時代によって扱いは違います。 日本の場合は、ありがたいサウンド集のようなものです。 日本は文字を持たない民族だったので、ことばが価値があるのです。

shooter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ”ありがたい”感じは確かにしますね~。 お経の「扱い」の違い、どう違うのか気になりますね。調べてみようかな・・・。

回答No.1

仏教はゴータマ=シッダールタが説いた哲学です。 お経はその哲学書です。 哲学について深い考えの無い人や,深く考えることのできない人が 内容を知ろうともせずに鰯の頭と並べて仏壇に飾ってありがたがれば 「霊能者」の出来上がりです。

shooter
質問者

お礼

哲学!確かに般若心経の意味を読んでいたときそんな印象を受けました。 だったら尚更、なぜ哲学書であるお経が供養に役立つのでしょうね? 結局は供養自体ももしかしたら死者やご先祖さまのためではなく今を生きている人のためにしているのかしら? 早速の回答ありがとうございました。

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