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ドイツの歴史について

noname#2543の回答

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noname#2543
noname#2543
回答No.3

オーストリアを統一ドイツに組み込むというのは、オーストリア帝国を解体して、そのドイツ人居住地域(地域名としてのオーストリア)のみを統一ドイツに組み込むことです(大ドイツ主義による統一)。 というのも、NO.2の方がおっしゃるように、オーストリア帝国にはドイツ人以外の民族が含まれていたからです。 しかし、NO.1の方がおっしゃるように、オーストリア帝国を解体できるほど圧倒的に勝ったわけではありません。 そこで、小ドイツ主義による統一となったのです。 そもそも、ドイツ主義とは大にしろ小にしろ民族運動であり、多民族国家であるオーストリア帝国の王家にとっては危険なことでした。 大ドイツ主義であれば、それは帝国が解体されることですし、小ドイツ主義であっても民族主義の高まりはオーストリア帝国内の民族主義を刺激し、帝国の解体を誘発しかねないからです。 また、小ドイツ主義によるドイツ統一はプロイセンの強大化をも意味しましたから、やはり、いずれにせよドイツ統一はオーストリア王家にとって認められないことです。 オーストリア王家にとって、もっとも嬉しいのは、ドイツ地域にあっては緩やかな連合体の中で中心的地位を占め、ドナウ地域にあっては多民族国家の王室として君臨することです。 戦争に負けてしまいオーストリア王家は小ドイツ主義によるドイツ統一をしぶしぶ認めましたが、大ドイツ主義による統一を許すほど負けたわけではありません。 すなわちドイツ地域によるプロイセンの優位を承認し、自らはドナウ地域の王家であることに専念することにしたのです。

s-word
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。当時のプロイセンとオーストリアの力関係や、他民族の動向など深く理解することができました。オーストリアが複合多民族国家ということも思い出しました。プロイセンに破れたオーストリアはバルカン半島に目を向けていったのですね。どうもありがとうございました。

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