urigadai2013 の回答履歴

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  • 魂に含まれるものは何ですか?

    魂は存在しないんじゃないかなと思っています。 しかし、もし魂が存在したらそれに含まれるものは何でしょうか? もし、自分が死んで、来世があるなら魂が転生するのでしょう。あるいは天国に行くのかもしれません。あるいは極楽浄土か? 転生するにせよ、天国に行くにせよ、それが自分でなかったら意味がないですよね。 そこで魂を構成していて、これが自分固有のものであって他人と違うものは何なのか知りたくなりました。 記憶は脳に蓄えられているようです。そうしてみると死んで脳がなくなれば失われるでしょう。 性格も脳によるものみたいです。脳手術をすると性格が変わることがあるとか。 思考能力も脳に依存しているでしょう。 魂はおそらく目が見えないと思います。魂はみえない。見えないということは光が透過するということで、光をキャッチしてとらえることができない。光の情報を受けることができない。 そうするとおそらく他の感覚も持たないのでしょう。 まとめると、記憶、思考、性格、知覚は魂に含まれないと思われます。 魂を構成するもので「これが自分だ!」というものは何なのでしょうか?

  • 人はどうして必要以上の欲をもつのか?

    肉食動物は、おなかいっぱいであれば、目の前をエサが通っても食べないと言います。 人はどうして必要以上の欲を持つのでしょうか? デブになるほど過食し、お金ももっともっとと稼ぎ、性欲を制御できず浮気したり。 これらが行きすぎて犯罪になることも多々ある。 もっともっとという欲をもつ理由、源泉はなんでしょうか?

  • 出エジプト記 なぜ奴隷だったの?

    聖書の出エジプト記ではユダヤの民がエジプトの奴隷になってて、そこから脱出する物語と認識しておりますが、ではなぜ奴隷となってたのか? の記述って記載ないですよね? 出エジプト記より前のエピソードはアダムとイブの物語、天地創造ですよね。

  • 若者の哲学離れは良い事なのか?否か?

    最近の若者は思想がないようです。 哲学とか言うとなんか気持ちの悪い話の様に思う人が多いようです 我々の頃は倫理社会という教科で哲学の話も勉強しましたが 今は現代社会にほんの一部紹介されてる程度で 根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。 情報だけは溢れるように在る様で PCどころかタブレットやスマホで 色んな情報が手に入ります。 このような状態では 政治がまた戦争もやると言えば それに反論する思想はないかもしれません。 公明党まで自民党の路線に反対できません。 もう哲学は不要なのでしょうか? 理想などいらないのでしょうか?

  • 「働く」とは思想の一種なのか?

    人間はそもそも何の為に働くのか? 働くことには本来意味など 存在しないのでは? 働くとは、 思想の一種なのではないのか? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ち申 しております! 補足 日本人が働く思想を尊ぶのは、 働かない人間への社会福祉が 事実上存在していない為では? 国憲法第25条 では すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない と 記載されているのだから 日本国は働かない 選択肢をした日本人が生きていける 環境整備を しなくてはいけないのでは?

  • 道徳、倫理を勉強する意義

    利益追求的な空気の中で、哲学、倫理、道徳を勉強する意義って何だと思いますか? 確かに道徳や倫理って、利益にはなりませんけど、モラルの崩壊ってその集団にマイナスにはなるのだと思います。 また、日本の道徳などあるとは思いますけど。どの程度意識すべきでしょう? 何を勉強すべきでしょうか?仏教や倫理学、哲学など。 組織の現物的な利益と道徳、倫理の喪失した組織の回復の意義とどう考えるべきなんでしょうか?

  • 無からはなにも生じませんか?

    無からは何も生じませんか? 無からは何も生じなければ この世の始まりは無からではなく、有となります。 つまり元々すべてがあった訳で 有る、ということが物事の基本ベースとなります。 私達は無が物事の基本ベースであり そこに何かを付け足すことで有になる、 と考えがちですがそれは錯覚であり、 物事の始まりなど存在せず、 有が基本ベースだというアンリ・ベルクソンの考えに賛同です。 どう思いますか?

  • 無からはなにも生じませんか?

    無からは何も生じませんか? 無からは何も生じなければ この世の始まりは無からではなく、有となります。 つまり元々すべてがあった訳で 有る、ということが物事の基本ベースとなります。 私達は無が物事の基本ベースであり そこに何かを付け足すことで有になる、 と考えがちですがそれは錯覚であり、 物事の始まりなど存在せず、 有が基本ベースだというアンリ・ベルクソンの考えに賛同です。 どう思いますか?

  • この世は仮の宿であり、真の世界は死後にやってくる

      あるイスラム教徒のことば。 この世は仮の宿であり、真の世界は我々が死んだ後にやって来るとゆー。 これはアラーの教えであると。 だから我々は真の世界を目指すため昼も夜もアラーの神を拝み続けていると。 ほんとーにそのよーに考えて拝んでいるのか、それともただのパフォーマンスなのかは分らない。 この世が仮の宿であればこの世は無なのであり、死んだ後に真の世界がやって来るのであれば死後の世界だけが有になる。 イスラムにおいては「人は生きている間は無であり、死んだ後に有になる」のである。 ヒンズーにおいてもこの点は同じであるらしい。 それ故イスラムはジハードを尊び、恐れることなく自爆していく。 神の名のもとに死ぬのであれば命など惜しくはないという。 果たしてイスラムの考えるようにこの世は仮の宿であり、真の世界は我々が死んだ後にやって来るのか。  

  • フーコーの生政治学

    フーコーの生政治学がよくわかりません。 生死、どう生きるか、を権力が統制する政治のこと、でよいのでしょうか?

  • 心は複雑なものですか、単純なものですか?

    人の心って複雑なものですか?単純なものですか? どっちだと思いますか?

  • マルクス主義について

    二十代でアカくならないのはバカだという言葉があるみたいですが、 みなさんはマルクスやマルクス主義の文献と出会い、 どう感じてどう受け取りましたか? くだらないと感じた、今でもマルクスやマルクス主義の理論を 尊敬している、共産党に入ったなどなど。 みなさんのマルクスとの出会い、経験について教えてください。

  • 私は全てであり、全ては私である。

    1. 「私は全てであり、全ては私である。あなたは全てであり、全てはあなたである。それならばあなたは私であり、私はあなたである。そして私は全てであり、あなたは全てである。 全ては私であり、全てはあなたである」 という文章をどこかでみかけませんでしたでしょうか? 2. この文章で始まる、どのような世界観においても世界を認識する際に、「私」は全ての基準である。そして「私自身」は「私以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「私以外のもの」「私自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「私」は、「私以外のもの」の中に「私」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「私」を取り巻く全てのものが「私」の源泉でもある。「あなた」が世界を認識する際に、「あなた」は全ての基準である。そして「あなた自身」は「あなた以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「あなた以外のもの」「あなた自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「あなた」は、「あなた以外のもの」の中に「あなた」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「あなた」を取り巻く全てのものが「あなた」の源泉でもある。そして「私」は「あなた以外」の中に入り、「あなた」は「私以外」の中に入る。それならば、「私」も「あなた」も世界の基準であるという意味においてお互いに尊重すべき同格のものとして存在しているのだ。 そのことがわかったとき、どうして軽々しく他人を非難できよう。否定できよう。他人の発した言葉を自分が近似的に変換し損なった可能性があるというのにどうして言葉のみによって他人を判断できよう。どうして自分と他人の世界の区切り方が異なる「言葉」を全ての判断基準とすることができよう。 という文章をどこかでみかけませんでしたでしょうか? どうかお教えてください。

  • 純粋理性批判を読破するとどんな変化がありましたか?

    純粋理性批判をwikiでちらっと見てみましたが、 さっぱりわかりませんでした。これを読破して よく理解できた方は、読む前と後でご自身に どんな変化がもたらされましたか? 以上、何卒よろしくお願いいたします。

  • コーヒーのおいしさ

    教えてください!

  • コーヒーのおいしさ

    教えてください!

  • 大いなる正午の質問の補足

    ~~~~~~~~~~~~~ 「ニセ賢者もいる。聖職者、この世に疲れたもの、女や奴隷の根性を持った者。――おお、連中は昔から、 どんなにひどい仕打ちを自分欲にしてきたことか! しかも、連中が自分欲にしてきた仕打ちこそが、徳であるとされ、徳と呼ばれているのだ! そして、じつにもっともな話だが、この世に疲れた臆病者や十字蜘蛛が自分に望んだ生き方こそ、―― 「自分をなくす」というスタイルだった! だがそういう連中にも、昼間がやってくる。変化が、裁きの剣が、大いなる正午がやってくるのだ。 そのとき多くのことがあきらかになるはずだ! そして、「私」をすこやかで聖なるものだと言い、「自分欲」を至福なものと言う者が、 予言者のように、じっさい、自分の知っていることをしゃべるのだ。「ほら、やってきたぞ。近づいてきたぞ。大いなる正午が!」 ツァラトゥストラはこう言った。 ツァラトゥストラ(下) ニーチェ 丘沢静也 訳 光文社 第3部 3つの悪について ~~~~~~~~~~~~~~~ どうでもいい話だとは思いますが、 「自分をなくす」と訳されているところが 私が質問した ドイツ語の selbstlos は英語だと selfless でよろしいですか? なわけですが、 読むとわかりますが、 ツァラトゥストラは「自分をなくす」生き方を批判しています。 それで大いなる正午がやってくるとかいっているわけですが、 正午についてはいろいろ議論があるようですね。 ニーチェを信じているといった人の名前を ニーチェというかツァラトゥストラが批判している箇所があったのが 面白かったので質問してみました。 はたから見れば何のことがわからないかもしれませんが。 質問でもないので、これはしばらくしたら削除します。

  • 正午は存在しない?

    NemurinekoNyaさんの質問「正午(12時)は、午前、午後、どちらに属する?」に対するDeathscytheさんの回答(No.1)で次の言葉がありました。 >正午とは切り替わるタイミングの事ですので「正午」と言う時間は3次元には存在しません。 この意味がわからず悩んでいます。 (1)これは「正午」は存在しないけど(24時間制で表示した)12:00は存在するという意味なのか?12:00も存在しないという意味なのか? (2)もし、12:00が存在しないなら、11:00も存在しないことにならないか? そうしたら、13:00も、14:00も、12:01も、12:01:01も・・・とやっていくとすべての時刻が存在しないことにならないか? (3)「(正確に示すことはできないが)「正午」は11:59から12:01の範囲のどこかに存在する」ということも言えないのか? 「正午」は存在はするけど、正確に示すことはできないということではないのか? (4)3次元に存在しないとは現実に存在しないという意味に解釈してよいのか?3次元じゃなくて、1次元、2次元だと存在する可能性があるという意味か? Deathscytheさんか、この意味のわかる方、回答をお願いします。 私の心のもやもやを解消してください。

  • 哲学について

    ものと人間の幸福についての関係について教えてください。 あと人間を幸福にするものとは?

  • 正午(12時)は、午前、午後、どちらに属する?

    お昼の12時(正午)は、午前でしょうか、午後でしょうか。 どちらに属するのでしょうか? あるいは、 どちらにも属さないのか? http://www.nao.ac.jp/faq/a0401.html を見ますと、 午前12時なら午前であり、午後0時ならば午後ということになりそうですが、  ───午前12時と午後0時は同じものなのか、違うものなのか。「明けの明星と宵の明星は同じか、別物か」という哲学問題が発生する─── 同時に、 午前12時は存在するようですが、午後0時というのは存在しないとなる。 しかし、 午前は正午の前であり、午後は正午のあとと考えますと、午前12時、午後0時という表現はおかしいとなるのでしょう。 正午は午前午後を分ける境界点であり、午前・午後のどちらにも属さない、と考えるのが、最も妥当的なのでしょうか。 では、 0時という時刻は、昨日、今日、あるいは、今日、明日のどちらに属するのでしょうか。 0時は、正午と同じように、昨日今日、今日明日を分割する境界点であり、どちらにも属さないのでしょうか。 であるとすると、一日の長さが24時間であるということに疑義が浮かびます。一日は、数学的な表現をしますと、  0時 < t < 24時 あるいは、  (0,24) の区間のことをいい、一日の長さは24時間よりホンのちょっぴり短い? いやいや、一日の長さは、素朴な方法では定義できず、 数学の極限などの考え方を取り入れないと、定義できない? そして、 これは、アキレスと亀のパラドクスになる??? このパラドキシカル(?)な状況の解決はあるのでしょうか。 そして、 これは何に由来しているのでしょう。 言葉や概念の曖昧さがこの原因なのでしょうか。 それとも、時(の流れ)は、時間や時刻が存在しない? 時そのものが存在しない??? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 数学には、《デデキント切断》というものがありますが…。 デデキント切断 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%87%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%88%E5%88%87%E6%96%AD PS 日付変更線という、よくわからないものもあります。 この日付変更線を右足でまたいだとき、 私(の体)は、今日・明日、あるいは、昨日・今日、どちらに属しているのであろか。 (境界の)内と外でもいいのですが…。