urigadai2013 の回答履歴

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  • 脱構築で生きていったなら、その人の人生はどうなる

      デリダ、デリダ、デリダってことで、 一人の人間がデリダの脱構築主義にハマり、人生のあらゆる局面で脱構築を貫き生きていったとしたら、その人間の人生は一体どうなるでしょうか。  

  • 脱構築って何だよ

      デリダ、デリダ、デリダ、 疲れたから休むってことなのか。 デリダ、デリダ、デリダ、 とにかくブッ壊すってことなのか。 デリダ、デリダ、デリダ、 文明から抜け出し原始に帰るってことなのか。 デリダ、デリダ、デリダ、 動くのやめて引き籠もるってことなのか。 デリダ、デリダ、デリダ、 脱構築って何だよ。        で、脱構築したらコーなんのかよ  

  • 神は人間が創った概念である。

    『神は人間が創った概念である。』 正解でしょうか? ここでいう『神』とは、世界中で言われているところの『神』である。 キリスト教、イスラム教、神道、その他あらゆる神の事である。

  • 時間は神様が作ったのか?

    よく、この世は神がお作りになった、と教えている宗教があります。私は、これに一応、納得しているのですが、ただ、この世という場合、天と地、すなわち、空間だけをさして言っているのではないか、と思うのです。つまり、物理学などでいう、時間と空間の時間が抜けているのではないかと思うのです。従って、時間を神様が作った以上、「人間が争いばかりを繰り返していることを悲しく思し召され、天下った」というのは、おかしいのではないか、と思うのです。というのは、時間を超越した存在である以上、そのようなことになるのは、この世、つまり、時間と空間を作る時点で全知全能の神様なら把握していたのではないか、と思うのですが、このあたりの知識に精通された方の御意見をよろしくお願い致します。

  • 世界(の変化)が止まったら 時間も止まるか?

    時間が止まったら 世界が止まると思う人は多いでしょう。 では世界が もし仮に 止まったとしたら 時間も止まった事になるでしょうか? 電子などの素粒子の運動から太陽系の地球の公転 地球の自転も止まり 電波時計もデジタル時計もアナログ時計もみんな止まるのです。 すべてが 仮に 止まったとしたら 時間も止まるとすれば 半分の速さで変化したら 時間も半分の速さで進みます つまり時間とは 物質・エネルギーの変化の事 ではないでしょうか? 端的なご意見を頂けるとありがたいです。 よろしくお願いします。

  • ギリシャにエールを送りたい

      ギリシャはいま経済難にあるが、ギリシャの人々はもっと誇りと威厳をもって生きていくべきではないでしょうか。 ギリシャは文明発揚の地であり、哲学の聖地である。 アルケーを生んだターレスもまたギリシャの哲学者であった。 ギリシャは数学の聖地でありピタゴラスもユークリッドもアルキメデスも皆ギリシャ人だ~。 決してEUの圧力に屈する必要はないのである。 しかし間違ってもドイツにゆすりたかって賠償金を得ようなどと考えないほうが良い。 そんなことをしたらゆすりたかりの国、あの韓国と同類になってしまうからである。 そうなるとこれまでにギリシャ築いた誇りも威厳も全て失うことになる。 人はパンのみにて生きるものではありません。 そんなことは考えず当分の間は困窮生活に耐え、今のピンチを切り抜けることではないか。    

  • 孤独は 互いの孤独関係であって 孤立ではない

     表題の内容を 次の評論にからませて問います。  ボルケナウは その著『封建的世界像から市民的世界像へ』の最終・第八章を パスカルの議論に当てているが その最後に・すなわち書物全体の最後に こう述べている。:   かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生き  るとは その時代にあっては 見まいとすることであるから。   そして生きると見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――  哲学の分野でパスカルをのりこえて踏みはだれた(=ママ。《踏み出さ  れた》か)根本的には唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし   またその弁証法によって矛盾を脱却しうる道をさししめすときからである。   そしてその道とは 思考によって生活を解釈しなおし ないしは思考に  よって 生活の不満を訴えるかわり 生活そのものを変更するということ  である。    (F.ボルケナウ:『封建的世界像から市民的世界像へ』§8・4     水田洋,花田圭介,矢崎光圀,栗本勤,竹内良知訳  2004 p.673)  あたまは生きている内に使えと言っている。近代の特徴だとも思えないが 民主制の進展につれて そうなって来たというくらいのことなのであろうか。  だから この思考の活用ということが歴史をつうじて例外なくごくふつうに有効であるのと同じように 孤独は おのれの《固有の時》へと到らせることはあっても 社会で独り孤立していることを意味するものではない。これが歴史をつうじて 普遍的な真理である。  パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスとモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならアウグスティヌスのその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。  だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。《必要悪》論は 付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。  問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。    パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。  しかもこれは うそである。  《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。  つまり 時代総体としての出発点ということになる。それは いつの時代においてもである。  わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まづは ひるがえるならばただちに 孤独であってもよいと言う。すなわち・そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した(孤立を欲した)人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。――しかも もはや かれは ひとりではない このことを明らかにすることにつとめよう。  わたしは わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。  自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが――これが 社会経験の生活領域でも その出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) 社会行為の関係が構造的にゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも 互いにゆきわたった動きを見せるなら じつは 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。  わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。  ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度(思考の有効活用)はこれを受容し そうではなく他方で その生活態度の観点から言ってボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》と言い そんな一人の人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ること これに反を唱えたい。これだけで まづは じゅうぶんだと考えたい。  わたしは独りであると言うとすれば そのように誰もが同じく言うことになるのだから 孤独はつねに孤独どうしの関係としてある。つまりは 孤立ではない。  そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態――おのおのの《固有の時》――がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。ここを耕す人の手足はじつにうつくしいと。

  • 孤独は 互いの孤独関係であって 孤立ではない

     表題の内容を 次の評論にからませて問います。  ボルケナウは その著『封建的世界像から市民的世界像へ』の最終・第八章を パスカルの議論に当てているが その最後に・すなわち書物全体の最後に こう述べている。:   かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生き  るとは その時代にあっては 見まいとすることであるから。   そして生きると見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――  哲学の分野でパスカルをのりこえて踏みはだれた(=ママ。《踏み出さ  れた》か)根本的には唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし   またその弁証法によって矛盾を脱却しうる道をさししめすときからである。   そしてその道とは 思考によって生活を解釈しなおし ないしは思考に  よって 生活の不満を訴えるかわり 生活そのものを変更するということ  である。    (F.ボルケナウ:『封建的世界像から市民的世界像へ』§8・4     水田洋,花田圭介,矢崎光圀,栗本勤,竹内良知訳  2004 p.673)  あたまは生きている内に使えと言っている。近代の特徴だとも思えないが 民主制の進展につれて そうなって来たというくらいのことなのであろうか。  だから この思考の活用ということが歴史をつうじて例外なくごくふつうに有効であるのと同じように 孤独は おのれの《固有の時》へと到らせることはあっても 社会で独り孤立していることを意味するものではない。これが歴史をつうじて 普遍的な真理である。  パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスとモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならアウグスティヌスのその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。  だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。《必要悪》論は 付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。  問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。    パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。  しかもこれは うそである。  《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。  つまり 時代総体としての出発点ということになる。それは いつの時代においてもである。  わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まづは ひるがえるならばただちに 孤独であってもよいと言う。すなわち・そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した(孤立を欲した)人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。――しかも もはや かれは ひとりではない このことを明らかにすることにつとめよう。  わたしは わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。  自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが――これが 社会経験の生活領域でも その出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) 社会行為の関係が構造的にゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも 互いにゆきわたった動きを見せるなら じつは 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。  わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。  ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度(思考の有効活用)はこれを受容し そうではなく他方で その生活態度の観点から言ってボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》と言い そんな一人の人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ること これに反を唱えたい。これだけで まづは じゅうぶんだと考えたい。  わたしは独りであると言うとすれば そのように誰もが同じく言うことになるのだから 孤独はつねに孤独どうしの関係としてある。つまりは 孤立ではない。  そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態――おのおのの《固有の時》――がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。ここを耕す人の手足はじつにうつくしいと。

  • 孤独って絶望的ですよね?

    孤独って絶望的ですよね? 私も昔は友達がいたんだけどなあ。

  • 幸せについて

    どうすれば幸せになれますか?

  • 【瞑想】瞑想と言っても色んな種類の瞑想があるのです

    【瞑想】瞑想と言っても色んな種類の瞑想があるのですね。 あなたはどの種類の瞑想をしてますか?

  • 学問は唯物論と観念論で構成されていますか?

    すべての学問は唯物論か観念論か、その両方にまたがってると考えてよいですか? もし、唯物論でもなく、観念論でもなく、またその両方から構成されるわけでもない学問があれば教えてほしいとおもいます。 質問1:学問をA、唯物論をM、観念論をIとした場合、命題「A=M∪I」は真ですか? 質問2:上記の命題が真でない場合、どの学問がM∪Iではないのですか?

  • 学問は唯物論と観念論で構成されていますか?

    すべての学問は唯物論か観念論か、その両方にまたがってると考えてよいですか? もし、唯物論でもなく、観念論でもなく、またその両方から構成されるわけでもない学問があれば教えてほしいとおもいます。 質問1:学問をA、唯物論をM、観念論をIとした場合、命題「A=M∪I」は真ですか? 質問2:上記の命題が真でない場合、どの学問がM∪Iではないのですか?

  • 学問は唯物論と観念論で構成されていますか?

    すべての学問は唯物論か観念論か、その両方にまたがってると考えてよいですか? もし、唯物論でもなく、観念論でもなく、またその両方から構成されるわけでもない学問があれば教えてほしいとおもいます。 質問1:学問をA、唯物論をM、観念論をIとした場合、命題「A=M∪I」は真ですか? 質問2:上記の命題が真でない場合、どの学問がM∪Iではないのですか?

  • 学問は唯物論と観念論で構成されていますか?

    すべての学問は唯物論か観念論か、その両方にまたがってると考えてよいですか? もし、唯物論でもなく、観念論でもなく、またその両方から構成されるわけでもない学問があれば教えてほしいとおもいます。 質問1:学問をA、唯物論をM、観念論をIとした場合、命題「A=M∪I」は真ですか? 質問2:上記の命題が真でない場合、どの学問がM∪Iではないのですか?

  • 【哲学者】哲学者の西田幾太郎ってどういう人物ですか

    【哲学者】哲学者の西田幾太郎ってどういう人物ですか?

  • 人生の目標は早くに出来た方が良いか

    人生の目標や夢ややりたいことは早くに出来た方が良いでしょうか? 私の経験上そんな気がします。 後からだと、練習時間が足りなかったり、すでに遅かったり。 細かい話だと、好きな歌手がいて、私がその歌手を知って、ライブに行きたいと思った時には、その歌手は既に活動していませんでした。

  • 共産主義は限界?協力主義は個人主義^^?

    共産主義に代わる反資本主義を考えなければならないと思っていました 資本主義の弊害は酷過ぎます。 人がお金の奴隷のように使われています。 使う人には天国、使われる人には地獄です。 お金を稼ぐ方法も 不労所得が多すぎる。 労働は過酷さを増しています。 共産主義は軒並み崩れた模様。元々の資本論は生きているのでしょうか? 協力主義は個人主義ですが、己の良心に従って何でも協力して働き育てます。 資本主義のような無駄をやりません。お金で遊ぶパチンコや株や先物で儲けるなど そのような事はさせません。 世界各国が協力します。国連で世界中が協力します。 強力な思想で協力主義をバックアップします。 協力主義は個人主義、自由主義。ボランティアを集めます。詐欺師たちを燻し出します。 共産主義の限界を超えます。暴力革命を否定し議員数を獲得する政治革命もしません 市民革命です。票を集める革命で貼りありません。納得を得る、行き詰まった状態を脱出する 市民革命です。思想は存在目指す存在性思想です。存在する事を目指します。 存在し、存続し、調和安定し、進化して、未来の存在を実現すべく準備します。 皆さん 協力主義が今必要と思いませんか?共産主義でもない資本主義でもない 真の民主主義である 徒党を組まない個人民主主義の協力主義。必要か 否か オブジェクション^^ 競争も緩和 ゆっくり安全運転で進化します。北欧のようなデンマークのような そんな

  • 共産主義は限界?協力主義は個人主義^^?

    共産主義に代わる反資本主義を考えなければならないと思っていました 資本主義の弊害は酷過ぎます。 人がお金の奴隷のように使われています。 使う人には天国、使われる人には地獄です。 お金を稼ぐ方法も 不労所得が多すぎる。 労働は過酷さを増しています。 共産主義は軒並み崩れた模様。元々の資本論は生きているのでしょうか? 協力主義は個人主義ですが、己の良心に従って何でも協力して働き育てます。 資本主義のような無駄をやりません。お金で遊ぶパチンコや株や先物で儲けるなど そのような事はさせません。 世界各国が協力します。国連で世界中が協力します。 強力な思想で協力主義をバックアップします。 協力主義は個人主義、自由主義。ボランティアを集めます。詐欺師たちを燻し出します。 共産主義の限界を超えます。暴力革命を否定し議員数を獲得する政治革命もしません 市民革命です。票を集める革命で貼りありません。納得を得る、行き詰まった状態を脱出する 市民革命です。思想は存在目指す存在性思想です。存在する事を目指します。 存在し、存続し、調和安定し、進化して、未来の存在を実現すべく準備します。 皆さん 協力主義が今必要と思いませんか?共産主義でもない資本主義でもない 真の民主主義である 徒党を組まない個人民主主義の協力主義。必要か 否か オブジェクション^^ 競争も緩和 ゆっくり安全運転で進化します。北欧のようなデンマークのような そんな

  • 人生とは貯蓄した資産をつぎ込む投資ゲーム

    人生とは例えるなら貯蓄した資産をつぎ込む投資ゲームじゃないでしょうか? 体が資本 → 体力を作っておかないと駄目 恋人欲しいなら友達に紹介して貰おう → 友達がいることが前提 難関の国家試験を受けたい → 学力が無いと躓きやすい 技術や知識を付けると仕事が速くなる。 沢山資産をつぎ込める人は努力の結果利益も大きくなりやすく、資産が極端に少ない人はつぎ込めるモノが無い為そもそもゲームに参加できない。 アリとキリギリスで言うと、アリがせっせと貯蔵した食料で、今度は食料を使って商売を始め、 儲けましたというところですか? ※恋愛・人生相談に立てようか迷いましたが、人生のアドバイスを得ることを目的としていないので哲学カテゴリで行いました。