urigadai2013 の回答履歴

全381件中121~140件表示
  • デカルトはアウグスティヌスをパクッたのではないか?

     ふるい議論つまり 自然科学の歴史のなかでの一ページとしての議論に過ぎませんが アリストテレスの天体論をめぐって デカルトがこれに楯突いたとすればそれは すでに大昔にアウグスティヌスがおこなっていたのではないだろうか。という問いです。  つまり ルネくんは――そのいわゆるコギトの命題を やはりアウグスティヌスの《あやまつなら(欺かれるなら) われあり( Si fallor, sum. )》から取って来たように――やはり次の議論を成したアウレリウスをパクッたものと思われる。  どうでしょう。  ▲ (アウレリウス・アウグスティヌス:アリストテレスの天体論について) ~~~~~~  〔1〕 あの理屈屋ども――主は彼らの思いの空しきを知りたもう――は 神のこの大いなる賜物に反対して 元素の重さについて論じ立てている。彼らはむろんそれを師のプラトンから学び知ったのであるが 宇宙の両極にある二つの大きな物体(大地と天体)が中間にある空気と水の二つの元素によって結びつけられているという。  そこで彼らの言うところによれば 下から上へ向かって最初にあるものは土 次にあるものは水 三番目が空気 四番目が天の空気で ここには地上の物体は何ひとつありえない。なぜなら それぞれ元素が自分の重さにふさわしい場所を占めるようにと定められているからである。  ああ 何という論拠でもって その思いの空しい弱い人間が神の全能に異議を申し立てていることだろう。  空気は土から数えて三番目にあるが その空気のなかには多くの地上の身体があるではないか。神は地上の身体をもつ鳥どもに軽い羽と翼を与えて飛ぶのを許したのであるから この神が不死のものとなした人間の身体〔* これは《自然の身体に対する霊の身体》と呼ばれるものである〕に天の高きに住む力を与え得ないということがあろうか。  プラトン派の主張によれば 飛ぶことのできない地上の動物――人間もその一つである――は ちょうど水の動物である魚が水のなかにいるのと同じように地上に生活しなければならないとされる。しかし 地上の動物が二番目の水のなかだけでなく 三番目の空気のなかでも生活するようになったのはどうしてであるか。土に属しているものが土の上にある二番目の元素のなかで生きるよう強制されたならばすぐに窒息してしまい かえって三番目の空気のなかで生きることができるのだが これはどうしたら理解できようか。  そこでは元素の順序が狂っているのか。それとも 誤謬は自然界にあるのではなくて むしろプラトン派の議論にあるのか。わたしはすでに第十三巻で 重い地上の物体の多く――例えば鉛――が適当な形(* たとえば船)を与えられれば水に浮かぶことができると述べたが これを繰り返すのはやめよう。だがいったい 天に昇ってそこに住む能力を人間の身体に与えることは 全能の創造者に矛盾することなのだろうか。  〔2〕 わたしのいま述べたことに対して 彼らは自ら確信する諸元素の秩序について思いをめぐらし 議論を組み立てるが 結局 有効な反論は見出せないでいる。なぜなら 下から上へ向かってまづ土が 次に水が 三番目に空気が 四番目に天があるのだとしても 魂の本性はこれらすべての上にあるからである。  アリストテレスはそれを五番目の物体と呼んだ(* 『天体論』四・六.さらにキケロ『アカデミカ』一・七・26 『トゥスクルム論談』一・一〇・22)が プラトンは物体とは呼ばない。五番目のものがあるとすれば それは他のすべてのものの上になければならない。しかしそれは物体ではないのだから 他のすべてをはるかに越えているであろう。  ではそれは 地上の身体のなかでは何をするだろうか。他のどれよりも精妙なそれは この物体の塊のなかで何を働くだろうか。他のどれよりも軽いそれは この重いもののなかで何を働くだろうか。他のどれよりも速いそれは この動きのにぶいもののなかで何を働くだろうか。これほどすぐれた本性の能力によっても 自ら持つ身体を天にまで上げることはできないであろうか。現在地上の身体の本性が魂をこの地上にとどめ置くことができるのだとすれば 魂はいつかは地上の身体を上にあげることができるのではないだろうか。  (アウグスティヌス:『神の国』第22巻 第11章 泉治典訳( 1983 ))  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちデカルトの次のような議論をめぐっての問題です。  ◆ (【Q:ヒラメキとは 天使のことかなぁ。】回答No.8) ~~~~~~~  デカルトは[・・・]それまでのアリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていたのを地上の空間も天上の空間も、同じ一様で無差別な空間と考えることでニュートンの絶対空間の考えを先駆けてそれを地ならしした人なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  《五番目の〈物体〉――〈エーテル〉――》は 《地上の四層にあるそれぞれのもの》をはるかに超えているのであるからには その視点から見れば 《地上の空間も天上の空間も 同じ一様で無差別な空間と考えること》は オチャノコサイサイだったのではないでしょうか。  コギトのときと同じように だまってコピペーしたものと考えられますか?

  • 真理はあるか?分かれば我々は幸せになるか?

    私は真理はあると思って求めていますが。 本当に真理は在るのでしょうか? 在るとすればそれを理解すれば我々は幸せになれるでしょうか? 幸せというか 僕的には目的を実現することができるかどうかですが 宇宙も滅びるとすれば それも無理ですねえ。 真理を知って我々は滅びて雲散霧消するのでしょうか? それとも真理と言えるものは 本当はないのでしょうか? ご意見をお聞かせください。

  • デカルトの《明証性》って何ですか?

     デカルトの思想を批判します。当否を問います。  ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88  §3 思想  §3.1.2 方法  ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。    1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。  (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。  (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。  (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。  もういっちょう行きましょう。  ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  §3.2 形而上学  §3.2.3 神の存在証明  欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。  第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。    第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)  ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。  《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。  その神なる観念は  ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。  ☆ だろうか? 阿呆なことを。  《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか?  それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。  われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。  考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。  ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。  ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。  ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。  ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか?  (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。  (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。  なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?

  • 辛い事ばかりでもう死にたいと言う人に どう言うか?

    最近というかもう随分前から鬱病が増えました。自殺も少しは減りましたが まだまだ多すぎます。 メンタルトピでは「もう死にたいです」という人は多いようです。 そう言う人に、哲学の立場から 生きる事の意味をどう言いますか? なぜ死なない方が良いのか?死んで何故良くないのか? どう説得しますか? 貴方なら?

  • 永遠の愛

    永遠の愛ってありますか?

  • 霊って、現代の言葉で説明するとどうなるのでしょう?

    霊って宗教とかスピリチュアルではよく聞きますが科学や哲学ではあまり聞かないようですねえ 「霊」を哲学や科学の言葉で言い換えるとどうなるのでしょうか? 精神って霊の一種でしょうか?(生霊)「魂」もついでにどう言い換えられるでしょうか? 性質と同じ質だと思ってはいますが どうでしょう?貴方の語感、認識ではどうでしょう? 教えて下さい。お願いします。

  • ヒラメキとは 天使のことかなぁ。

     この質問は  【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html  の余滴です。  西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。  どうでしょう?

  • ヒラメキとは 天使のことかなぁ。

     この質問は  【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html  の余滴です。  西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。  どうでしょう?

  • ヒラメキは どこから来るのか?

     直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

  • ヒラメキは どこから来るのか?

     直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

  • ヒラメキは どこから来るのか?

     直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

  • ヒラメキは どこから来るのか?

     直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

  • ヒラメキは どこから来るのか?

     直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

  • 哲学者の頭の中から神が消えたのはいつ頃ですか?

    西洋哲学においてかつては神の存在が前提とされていたと思います。スコラ哲学や形而上学など神の存在抜きに考えることはできないと思います。しかし、現代においては哲学ももはや神の存在を前提にしていないと思います。西洋哲学において哲学者の頭の中から神が消えたのは歴史的にはいつ頃でしょうか? 1)年代的にはいつ頃でしょうか? 2)神など存在しないと言い出した哲学者は誰でしょうか?ニーチェでしょうか? 3)神がもはや存在しないと考えられるようになった背景(原因?)は何でしょうか? 4)もし、現代において神の存在を前提とする哲学論文を専門誌に投稿した場合に査読を通って掲載される可能性はありますか?

  • 精神は 神ではない。

     一口メモによる情報交換です。  精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。  しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。  よって 精神は 神ではない。  自由なお考えをお寄せください。

  • 精神は 神ではない。

     一口メモによる情報交換です。  精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。  しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。  よって 精神は 神ではない。  自由なお考えをお寄せください。

  • 精神は 神ではない。

     一口メモによる情報交換です。  精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。  しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。  よって 精神は 神ではない。  自由なお考えをお寄せください。

  • 物質はなぜ様々な形や性質をしているのか?

    性質とは何かと問うと  辞書には「事物の本来固有するもので、それにより他の事物特別されるもの」⇒質 とあります。 また性質という言葉は物事の属性と言う 付随しているものの様なイメージで使われています。 しかし私はここに宣言します! 性質はエネルギー・物質とは独立したものである エネルギーや物質は色んな形や態に変わるが 性質は心理の法則に完璧に従っているものです 真理は性質として現れるのです。そして性質はエネルギーや物質に在りながら フィードバックでエネルギーや物質に態を与えているのです。 そしてそのようなフィードバックの循環で存在を実現し存続と言われるもの(アイデンティティ?)を維持しているのです。 そのような性質を「存在性」と言います。 従って エネルギー・物質と性質は二元であると考えますが 如何でしょうか? これを世に問いたい。

  • 物質はなぜ様々な形や性質をしているのか?

    性質とは何かと問うと  辞書には「事物の本来固有するもので、それにより他の事物特別されるもの」⇒質 とあります。 また性質という言葉は物事の属性と言う 付随しているものの様なイメージで使われています。 しかし私はここに宣言します! 性質はエネルギー・物質とは独立したものである エネルギーや物質は色んな形や態に変わるが 性質は心理の法則に完璧に従っているものです 真理は性質として現れるのです。そして性質はエネルギーや物質に在りながら フィードバックでエネルギーや物質に態を与えているのです。 そしてそのようなフィードバックの循環で存在を実現し存続と言われるもの(アイデンティティ?)を維持しているのです。 そのような性質を「存在性」と言います。 従って エネルギー・物質と性質は二元であると考えますが 如何でしょうか? これを世に問いたい。

  • 善悪って相対的なもの?

    法定犯と自然犯って考え方があります。 殺人、傷害、窃盗など普遍的に悪いともいえますよね。 また倫理の科目編集ですが、人類が宗教や哲学などでつみあげたものとあるいはその文化で倫理としてきた事柄ってあると思います。 善悪を時代や文化で違ってしまうとすれば、なんでもよいことになったりするのでは? もしその場合でもある文化ではある倫理があるとして、それを大切にすべきなんでしょうか?