urigadai2013 の回答履歴

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  • 誰か「存在」を定義して頂けませんか?

    哲学ではよく使われる「存在」という言葉 しかしその定義 意味解釈は人それぞれ違うようです 存在とは何の事を言うのですが 私は 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・性質 と定義しました。 存在を定義するには何を単位?基準に存在とするかが問題だと思うのですが 実存主義でも唯物論でも何を持って存在とするかが違ってきます 例えば酸素分子は存在するのか?鎌やスコップは存在するか?動物は、人間は存在するか? 精神は存在するのか?宇宙は存在するのか? 存在はどう定義すればいいでしょうか?私の定義は間違っているでしょうか? エネルギー・物質の個性を単位にしたのですが。よろしくお願いします。

  • ショーペンハウアーのいう「精神的快楽」とは?

    漠然としていてよくわかりません。詳しい方回答お願いします。

  • 哲学の入門書推薦ください

    人生とはどうあるべきか なぜ人間は存在するべきかなど 宗教ではなく 哲学書を勉強はじめたいと思います 推薦図書ありますか。

  • 唯心論の心は性質、唯物論の物の性質 同じでは?

    もっと絞り込みます 私は唯心論の心・精神は性質で出来ていると考えるに至りました。 その性質とは唯物論で言う物質の性質と同じもの、同質のものです つまり脳という物質や脳波・神経などの電気信号等の現象の性質面が精神なのです。 この考えで唯物論と唯心論がつながって人間や世界が分かります 他にも色々考えがあるのですが 何処かおかしいでしょうか? にわかに信じがたいでしょうか?

  • 脳を持った体と脳由来の精神で人間?

    人間とは何か?と問えば 私は 人間とは精神であると考えています。 常識では人間とは体を持って心(精神)を持つもの と考えるかもしれませんが 体は猿でも持っています。猿なら色んな種類がありますし 交配不能なものもあるのでは? 人間とはその動物の猿の事ではありません。 経済社会、特に資本主義では猿山のような上下関係がありますが その様なものが人間ではありません、人間性ではありません 人間性とは猿の様にではなく 言葉を持ち、智慧を持ち、文化文明に浴して 己の理性と良心と感性で言動するものです。ユーモアやアイロニーを持ち 笑って握手して平和を望むものです。 人間性が戦争を望んだら 人間はおしまいです。 人間とはなんだと思いますか?異論・反論オブジェクション!?

  • 精神も性質も目に見えず、情報を持ったものです?

    精神も性質もセイシ まで一緒です。ひょっとして語源も? 僕が考えられる範囲で精神の存在を説明するとすれば 脳の脳内伝達物質やニューロンの電気伝達や、ホルモンゃ脳波や・・・ そう言った物質的、エネルギー的現象の「性質面」 その様な現象によって目に見えない性質の反応が複雑かつ組織的に起こり 我々の知る自我、我、意識、心、精神を実現していると考えます(後は言葉の問題) 異論のある方は持論を御提示下さい よろしくお願いします。 精神は何ものであるか?です。

  • 分かったつもりの比喩表現?

    日本人なら日常的にある比喩表現ですが 哲学で比喩表現だけで済ますというのは如何なものか? いや哲学でなくても比喩表現だけでは本当に妥当かどうか分からないのでは? 比喩表現の水掛け論になることもあります イエスも今は言っても分からないから比喩で話すのだと言っています 分かったつもりになるこの比喩表現 みなさんはどうも思いますか?

  • 18世紀以後の哲学者の思想の潮流について

    あまり、哲学の本など読んだことは無いのですが、興味があり少し研究してみたいと思っています。 一口に哲学者と言ってもいろんな切り口があり、また東洋西洋あって幅広いですが、私が 興味を持つのは神の存在を肯定するか否定するかの観点からです。 調べてみたところ、無神論ではニーチェ、サルトル、ハイデッガー、有神論では ヤスパース、キルケゴールなどが有名みたいです。 ニーチェは「神は死んだ」と書いたことで知られてますが、晩年発狂してしまいました。 別に神を否定した罰が当たったわけではないでしょうが。 私自身は神の存在を信じてますが、それは別として上記の人も含めて、哲学者(に近い思想家も含む)の範疇で、おおまかでけっこうですので、無神論者、有神論者の分類など教えていただきたいです。さらに、代表的な著作も紹介くださるとうれしいです。 両論を偏らず読んでみて、また考えたいと思います。よろしくお願いします。

  • 精神は性質で出来ている か?

    私は色々考えた挙句 精神は脳の物質反応による性質のハタラキによって出来ていると考えます。 それ以外に説明がつきません そうだと言う方 そうじゃないと言う方の精神の存在の説明をお願いします。 性質というのは物質にもあり、生命・生物にもあり 人間にもあるものです。 性質とはその存在が持つ力 によるハタラキ そしてそのシルシでもあると思います。 これは結構大きな問題です。精神とは何か? 性質で出来ているか? [勿論環境(文明文化とか)や食物なども精神には関わってきます]

  • 言語の生成

    こんばんは。 今回は、大上段に構えまして、失礼致します。 「(1)なんらかの「発信」があって、(2)それを受け取る(受け取ろうとする)側がある」 これが、基本ではないかと思いました。 ・・・つきましては、関連することであれば、何でもご回答ください。 よろしくお願いいたします。

  • 言語の生成

    こんばんは。 今回は、大上段に構えまして、失礼致します。 「(1)なんらかの「発信」があって、(2)それを受け取る(受け取ろうとする)側がある」 これが、基本ではないかと思いました。 ・・・つきましては、関連することであれば、何でもご回答ください。 よろしくお願いいたします。

  • 悟りについて教えてください。

    悟りを開くと趣味がなくなると聞きました。悟りを開く直前まで趣味はあるものなのでしょうか?

  • 無用の用? 無があって有があるのか?

    いま議論中ですが この世界、この宇宙は 無があって有があり得るのでしょうか? それとも有在るのみなのでしょうか? 無というものは無いのでしょうか? 無とは何でしょうか? 0とかヌルストリングスとか 現実にあるのでしょうか? それとも無は概念なのでしょうか?? ご意見をお聞かせください。教えてください。

  • 哲学科について

    哲学科で学ぶ人はよく、変わっていると言われます。 私には何が変わっているのか分かりません。 人が考える事は自然な現象だと思うのです。 ひとりひとり違うことを学んでいたとして、哲学科で学んでいた人だけ、変わっていると捉えられる現状を疑問に思います。 何を普通として考えているのでしょうか。 この世に同じ人間はいません。 善人、悪人ならば理解できます。しかし、普通の人ってなんですか。 何が変わっているのか教えて下さい。

  • サルトル「存在と無」第三部「対他存在」

    私は海外の大学で哲学を学んでおり、現在、サルトルの「存在と無」の第三部「対他存在」第三部「他者との具体的諸関係」の部分を英語で読んでいるのですが、とても難しいです。「存在と無」の内容全体ではなく、第三部の第三章について、日本語で詳しく教えてほしいです。また、「存在と無」のオンライン書籍があれば紹介していただきたいです。 私の英語力が全く追いついていなくて、困っています。時間がないので日本語の本を取り寄せる時間がありません。助けてください。

  • ヴィルヘルム・ディルタイ

    こんにちは。 ドイツの哲学者、 ヴィルヘルム・ディルタイについて 理解したいのですが、 参考になりそうな 入門書があったら教えてください。

  • 性質とはエネルギーの働き方、真理の現れである?

    性質はただの属性ではない エネルギー保存則も言ってみれば一つの性質です。 エントロピー増大も減少も一つの性質を表しています。 性質はただの物事の特色やそれによって種類を区別されるものではなく。 事物が本来固有する真理に法った働きであり 真理の現れなのです。 性質を独立させなければなりません それはあたかも女性が男性の付属の様に見られていた頃のごとく。 千変万化のエネルギーに対して性質は真理に則って変わらずに現れる エネルギーが真理に従っているのであります。 そのエネルギー(物質)が真理に従って働く働き方が性質なのです。 そして性質は精神を形成し我々自我と成ったのです。 精神の独立を言うならこの性質の独立を認識しなければなりません。 真か偽か?

  • 性質とはエネルギーの働き方、真理の現れである?

    性質はただの属性ではない エネルギー保存則も言ってみれば一つの性質です。 エントロピー増大も減少も一つの性質を表しています。 性質はただの物事の特色やそれによって種類を区別されるものではなく。 事物が本来固有する真理に法った働きであり 真理の現れなのです。 性質を独立させなければなりません それはあたかも女性が男性の付属の様に見られていた頃のごとく。 千変万化のエネルギーに対して性質は真理に則って変わらずに現れる エネルギーが真理に従っているのであります。 そのエネルギー(物質)が真理に従って働く働き方が性質なのです。 そして性質は精神を形成し我々自我と成ったのです。 精神の独立を言うならこの性質の独立を認識しなければなりません。 真か偽か?

  • 道元と親鸞の思想的共通点に関する文献を教えて下さい

    自力を重視する(ように見える)道元と, 他力を重視する(ように見える)親鸞ですが, その思想は,突き詰めていくと共通ないし類似している,という指摘を見たことがあります。 この「道元と親鸞の思想的な共通点」に言及した文献(新書,専門書,論文など)があれば,ご教示下さい。 作家や匿名の方が執筆したもの(例えば,五木寛之氏や立松和平氏)ではなく,研究者又は僧侶の方が執筆した文献をご教示頂ければと思います。 今のところ,ひろさちや『親鸞と道元―自力か、他力か』くらいしか見つかりません。

  • デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?

     コギトする《われ》というのは あたかも《霊我=アートマン》であったか? という問いです。その問いの内容についての確認です。  すなわち デカルトみづからが その《考えるわれ》は 《非物質的な実体(英訳ですが  an immaterial substance / incorporeal )》と書いたと言います。  これについて詳しい情報をお持ちの方がいらしたら おしえてください。  またこれだけの情報についてでも ご見解がありましたらお寄せください。けっきょく 《物自体》のようなものだと考えられるようではないですか? と問いたいといった意味合いになります。つまり アートマンです。神の霊です。  ▼ (デカルトは 《考えるわれ》は 非物質的なものだと書いた) ~~~~  Bruce W. Hauptli (2012):Appendices to Lecture Supplements on Descartes' Meditations  http://www2.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDescartes%27Meditations.html  On November 14, 1640 Descartes writes to Andres Covius, a Dutch Minister who brought Augustine’s argument to his attention:   (あ) you have obliged me by bringing to my notice the passage  of Saint Augustine which bears some relation to my “I think,  therefore I am.”    (い) Today I have been to read it at the library of this city [Leiden],  and I do indeed find that he makes use of it to prove the certainty   of our being, and then to show that there is in us a kind of image   of the Trinity, in that we exist, we know that we exist, and we love   this being and the knowledge that is in us.    (う) On the other hand, I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that is   incorporeal. These are two very different things….  (13a )   * 13a : From Rene Descartes: Philosophical Essays and Correspondence, ed. Roger Ariew, trans. Roger Ariew and Marjorie Grene (Indianapolis: Hackett, 2002), pp. 90-91.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) この(い)でデカルトが確認しているアウグスティヌスの議論については お手数ですが 次の質問の趣旨説明欄をご覧ください。   【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html  (2) 問いは 具体的に次の発言をめぐってになります。   (う) 《考えている〈われ〉は 〔ひとつの(?)〕非物質的な実体( an immaterial substance )である。つまり 〈形体が無い・霊的 incorporeal 〉という意味合いである。》  (3) なお細かいことですが 論者として挙げられているR.ソレンセンによると:    (大意) デカルトは前掲の(あ)で コギトをめぐるアウグスティヌスの関連する議論を知らなかったという態度を見せているが それは デカルトがカトリック系イエズス会のラフレーシュ学院を出ているからには 考えられない。    ( Descartes claimed that he had never heard of Augustine’s cogito. Descartes’s Catholic education at La Flèche makes this unlikely. ――Roy Sorensen, A Brief History of the Paradox (Oxford: Oxford U.P., 2003), pp. 170-171)  のだと言います。  以上 実りの多い情報交換ができればさいわいに存じます。