信濃路と真田一族

このQ&Aのポイント
  • 真田一族とは信濃路に根付いた小豪族で、彼らは歴史的な事件や戦乱を生き抜き、その名跡を後世にまで伝え続けました。
  • 信濃路は厳しい気候と地理的条件を持ちながらも、観光資源に恵まれた地域であり、安曇野、上高地、軽井沢など多くの魅力的な観光地が存在します。
  • NHK大河ドラマ「真田丸」では真田昌幸や真田幸村など真田一族の武勇とその手腕が描かれており、注目を浴びています。
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信濃路と真田一族

本州のほぼ中央に位置し8県と境を接する長野県ですが、この立地条件と険峻に囲まれた可住面積の少なさ故に、信濃と呼ばれた古来より大勢力の出現と蟠踞を許しませんでした。 当地を旅する時、関東の沃野とは明らかに違った風景を散見する事となる・・、そんな信州に育まれた小豪族の1つが六文銭で世に名高い真田一族。 さて年明け早々に始まったNHK大河 「 真田丸 」 、御存じ三谷幸喜氏脚本のドラマですが、彼の前作 「 新選組 」 は正直疑問符が付く出来栄えだった、さあ今回はどうだろう・・と2~3回観た感想を申し上げれば、どっこいこれが結構面白い、安易に笑いを取ろうとするのはまあ彼の癖でそれはいいとして、久し振りに1年間お付き合い出来そうな大河ドラマに出会えたとの印象です。 そんな当作でスポット・ライトを浴びる中の一人が幸村の父真田昌幸、まあこの昌幸という武将ほど食えぬお方も少なかった、ただ戦国期を通じ恐らく有数の局地戦の名人といって差し支えない、他方武田家滅亡後四方を大国に囲まれたあの状況下に於いて、上杉を欺き・徳川を翻弄し・北条を手玉に取った他、ありとあらゆる手立てを尽くして遂に本領を守り抜いた ( 勿論関ヶ原以前の話です ) 、その手腕は高く評価されて然るべきでしょう。 その一方で、武田2代・・特に落ち目となって以降の勝頼に尽くし抜いた忠義と、その後巡り合い終生その肖像画を拝んだとされる豊臣秀吉に見せた可愛げもまた、彼のもう一面を表す本当の姿だったろうと思います。 ところで何故真田ばかりが特別なのか・・、その疑問に私としてはこう答えたい。 1つには関ヶ原・大坂の陣を通じ今に至る歴史とロマンに名を遺した事、次いであの大乱世を生き抜き真田の名跡を遥か後世にまで脈々と伝え続けた点、言わば昌幸・幸村そして藩祖信之の分業であったそのどちらか一つが欠けても、或いは真田の高名は無かったのかも知れません。 そんな信濃路に思いを馳せる時、苛烈な気候・地理的条件の厳しさと同時に、神から大きな恩寵を受けた素晴らしい大地に或る種の羨望を禁じ得ない私もおりまして、ちょっと思い付くだけでも安曇野・上高地・軽井沢に木曽、それ以外にも数々のスキー場に温泉、これほど観光資源に恵まれた都道府県も少ないでしょう。 前置きが長くなりましたが、信濃路・真田一族に関し、皆様の御意見を賜りたいと存じます。

  • isoken
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質問者が選んだベストアンサー

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  • sqqrcxvx
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回答No.11

isokenさんこんばんは。 けっこう難しい題材です。(笑) >この立地条件と険峻に囲まれた可住面積の少なさ故に、信濃と呼ばれた古来より大勢力の出現と蟠踞を許しませんでした。 以前から思ってたわけではなく今ふと思ったのですが、日本のアフガニスタンではないかなと。 もちろん戦国の世の事ですが。大大名は現れようもなく、小勢力に別れ局地戦に終始している。 >当地を旅する時、関東の沃野とは明らかに違った風景を散見する事となる・ 雲が近いですよね。手を伸ばせば掴めそうな錯覚にすらおちいります。 >さて年明け早々に始まったNHK大河 「 真田丸 」 、御存じ三谷幸喜氏脚本のドラマですが、彼の前作 「 新選組 」 は正直疑問符が付く出来栄えだった、さあ今回はどうだろう・・と2~3回観た感想を申し上げれば、どっこいこれが結構面白い NHKの大河ドラマは随分長くご無沙汰。 そうですか・・久しぶりに観ようかなと言う気持ちになっちゃいます(笑)。 >そんな当作でスポット・ライトを浴びる中の一人が幸村の父真田昌幸、まあこの昌幸という武将ほど食えぬお方も少なかった、 昌幸がもし三英傑を生んだ濃尾平野か三河に生まれていたらどれほどの働きをしたでしょうか。そんな事も考えます。農業の収穫高が桁違いですものね。 司馬遼太郎の著作では、信之に徳川方へ行け、昌幸・幸村父子は豊臣方に付く、との父の指示。どう転んでも真田家は安泰だ、たはははは・・・となっているのですが(笑) 実際は兄・信之の知略に惚れ込んだ本多忠勝が婿にしたいと言い出し、家康が、それならいったん自分が忠勝の娘を養女にしてから婚礼させようと。 ここに信之の父・昌幸の意志意向がどれほど関与しているかでしょうね。 ただ敢て一族を二手に分けた昌幸の智謀。 つまりリスクをヘッジした訳で。これは日本初のヘッジファンドかな? 日本最古のヘッジと言いますか先物取引は大阪の米商人と言われていますが。秋に収穫されるコメの値段を春に指すわけで、これは難しい。陽照り・干ばつ・大雨・台風・病虫害・・何が襲ってくるかもしれない。 ましてや今より気象学も害虫対策も無いに等しい中で値を決めなくちゃならない。そこからヘッジと言いますか両建てが生まれ・・・ と思い込んでいたのですが、今回質問文を読むうちに、これは大阪商人よりも昌幸の方が元祖かも知れないと思い至りました(笑)あくまで、そうかも知れないと云う程度で(笑) >他方武田家滅亡後四方を大国に囲まれたあの状況下に於いて、上杉を欺き・徳川を翻弄し・北条を手玉に取った他、ありとあらゆる手立てを尽くして遂に本領を守り抜いた ( 勿論関ヶ原以前の話です ) 、その手腕は高く評価されて然るべきでしょう あの山・谷・峠・川で仕切られた複雑な地形は攻める側には難しいでしょうね。 上田城攻めにおいても、秀忠の大軍もやはり縦横に展開させるスペースがないとあまり意味を為さないのかなと思います。 上田には一回しか行った事がなく、よくは分からないのですが。 もちろん仰るが如く、昌幸父子の戦術が光りますが。 >その一方で、武田2代・・特に落ち目となって以降の勝頼に尽くし抜いた忠義と 勝頼は凡庸ではなく知略と武勇に優れた武将であったと思います。ただ信玄の庶子であり四男である事。加えて実母の出自からすれば云わば外様。信玄の直系の重臣から見るとう~~んと言う存在だったのでしょうね。 家臣団上層部の支持を必ずしも得られなかった・・そういう事だったのでしょう。

isoken
質問者

お礼

sq さん、おはようございます。 最近はどうもいけません、ウィーク・デーの夜は脳が全く機能しない且つ気の利いた文章も出て来ない、目には見えない疲労の蓄積があるのでしょうかねぇ、自分ではまだ若いと思ってるのですが・・。 ・・とまあ、お礼が遅くなった言い訳を滔々と述べておりますが、何卒御容赦下さい。 >以前から思ってたわけではなく今ふと思ったのですが、日本のアフガニスタンではないかなと。 戦国時代の信濃が甲斐武田・越後上杉、その他織田・徳川の草刈り場となった事を思えば、実に的を得た御指摘であろうと思います。 それにしても有史以来一体どれほどの異民族支配を受けたのでしょう、このアフガニスタンという国は・・・。 ざっと思い付くだけでも、アケメネス朝ペルシャ・アレクサンダー大王・モンゴル帝国にティムール帝国、そしてオスマン・トルコにイギリス。 確かに東西交易の要衝ではある、シルクロードの1大拠点でもありましたが、ただそれだけでは説明が付かない気がします。 実は学生時代にアフガニスタンを目指した事があります、2度ばかりパキスタンのペシャワールまで行ったのですが、ソ連の軍事侵攻後国境が閉鎖されまして、遂に諦めざるを得ませんでした。 そんな時代もありました、今振り返ればまるで夢の世界での出来事のようですが・・。 >もちろん戦国の世の事ですが。大大名は現れようもなく、小勢力に別れ局地戦に終始している。 現在のアフガニスタンは一般旅行者には無縁の土地ですね、一体どうなっているのやら皆目見当も付きませんが、長らく彼の地に潜伏していたウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタンで殺された5年前の GW 、私共夫婦はベトナムのホーチミンに滞在しておりまして、帰りのタンソンニャット空港は異例の厳戒態勢、イミグレと税関審査に3時間近くを要しましたが、それもこれも遥か昔の出来事のような気がします。 >雲が近いですよね。手を伸ばせば掴めそうな錯覚にすらおちいります。 信州で交差する中央道・上信越道・長野道といった高速道路は、当然の事ながらほぼ例外なく高地を走るわけですが、そこから遥か先に臨める槍ヶ岳他の大パノラマ、あの絶景は果てし無い平野が続く関東ではお目に掛かれません。 >NHKの大河ドラマは随分長くご無沙汰。 >そうですか・・久しぶりに観ようかなと言う気持ちになっちゃいます笑)。 kamejrou さんにも申し上げたのですが、エンターテイメントとして御覧頂ければ、それなりだと思います。 >昌幸がもし三英傑を生んだ濃尾平野か三河に生まれていたらどれほどの働きをしたでしょうか。そんな事も考えます。農業の収穫高が桁違いですものね。 織田信長という英傑に率いられはしたが、弱兵で名高かかった当時の尾張兵が、何故甲斐・越後の強兵に伍して戦えたのか・・、これはもう農業及び商業の先進地帯であった経済的な優位性が明確な兵農分離を可能にせしめた、その一点であったろうと思います。 後進地帯の兵卒といえば農家の次男坊三男坊が主ですから、大将といえども田植えや稲刈りの心配をしなくちゃならない、あの上杉謙信が12万もの大軍で小田原城を包囲したが遂に落とせなかった理由の一つは、その辺りにもあるのでしょうね。 ところが貨幣経済に移行し農本位制を捨て去った織田信長は、豊富な資金を背景に専従の兵隊というものを作り上げた、これはもう或る種の革命でありまして、故に5年もの長きに渡りあの本願寺を包囲出来た訳です。 その一方で経済の先進性は、地方ごとの気質を隔てる大きな分水嶺でもある、例えば秀吉などはその典型ですが、御存じの通りホップ・ステップ・ジャンプで一挙に天下人への階段を駆け上りました。 彼の場合先ず外交ありきですね、大きな投網で洗い浚い掬っちゃう、それでも尚駄目な場合にのみ軍事行動に移る、つまり遥か後年 クラウゼヴィッツ が唱えた 「 戦争論 」 が既にここで展開されております。 ところが地方の武将にはこの投機的なイマジネーションが無い、ただひたすら一砦・一城を地道に落とす作業に明け暮れた、つまり信長に始まり秀吉・家康に引き継がれた天下統一の大事業は、GDPが数倍に伸びたとされる応仁の乱以降の100年余りで、戦国期の経済成長が齎せた最大の果実と言えるんじゃないでしょうか。 その視点で申せば真田昌幸は誠に可愛らしい、離反と権謀術数の限りを尽くしはしたが、そんな彼が手にした領地が僅か10万石足らず・・、その辺りが彼の限界であったのかも知れません。 >ここに信之の父・昌幸の意志意向がどれほど関与しているかでしょうね。 そこに関しては、2つの視点があると思いますね。 東西のどちらが勝つか・・というよりもむしろ、どちらに勝たせれば最も真田の利益になるのか・・、先ずはその点で算盤を弾いたのでしょう。 ところが三成は甲信2ヵ国を提示して来た、つまり西軍が勝てばあの信玄がその生涯を掛けて切り取った版図に近い大大名に・・という欲が、怜悧な彼の目を曇らせてしまった。 加えて徳川とは悪い方に浅からぬ因縁がありました、故に家康が勝っても精々数万石の加増が関の山・・となれば、彼に迷う余地は露ほども無かったでしょう。 まさに情と欲との二人連れ、秀忠を喰止めた戦にはさぞや力が入った事でしょう、もっとも西軍はその種の空手形を濫発しておりましたが・・。 その一方で如何に利を食らわせられようと、負ける方に付く訳には行かない、主家が滅んだ惨めさを武田崩れで身を以って体験した昌幸は、 sq さんが仰る通りリスク・ヘッジに走った、それが東西に分かれた最大の理由でしょう、本多忠勝の女婿であるから云々は、もっともらしい後付の理由・・、私としては勝手にそう受け止めておりますが・・。 >勝頼は凡庸ではなく知略と武勇に優れた武将であったと思います。ただ信玄の庶子であり四男である事。加えて実母の出自からすれば云わば外様。信玄の直系の重臣から見るとう~~んと言う存在だったのでしょうね。 >家臣団上層部の支持を必ずしも得られなかった・・そういう事だったのでしょう。 世に言われるほど勝頼は愚かな大将ではなかった・・、私としても全く同感、少なくとも傲岸不遜な人ではなかったようです。 勝頼が有した出自こそが、武田内部で軽んじられた最大の理由だという御意見にも組します、これはもう慧眼であろうと・・ 例えば武田凋落の元となった長篠の戦に於いて、真田昌幸の献策もあり一度は撤退に気持ちが向きかけた、ところが穴山梅雪を始めとする親類衆の手前突撃せざるを得ませんでした、この点が鶴の一声でどうにでも軍を動かせた父信玄との最大の相違でしょう。 そこには信玄の没後起こった、武田内部の家政力学の変貌が見て取れます。 そもそも信玄の時代その帷幕で重きを成したのは 山県昌景・内藤昌豊・馬場信春 といった面々でありましたが、棟梁の交代で相対的に浮かび上がって来た親類衆から、出過ぎる事で叩かれるリスクを恐れた、故に真剣に勝頼を補佐しようという空気が感じられませんよね。 但し勝頼に問題なしとも言えません、先ずは優柔不断な性格ではありました、例えば信玄の時代に送られて来た織田の人質を安易に返してしまった点、これは大きな失敗でありましたね、その一事を以って信長は勝頼の弱気を察し、最終的に武田攻めを決意したようですから・・。 加えて比較の問題・・となれば当然信長 VS 勝頼、少しばかり酷な話です。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (13)

  • eroero4649
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回答No.3

「食えない人たち」ですね、はっきりいって・笑。別に真田一族に限った話ではないです。長野県民全体に対してそういう印象です。 長野県というのは、全国で唯一「淫行条例がない県」なんですよ。なんだか理由は分かりませんが、「そういうのを県条例であーだこーだやるのはそぐわない」のだそうです。じゃあロリコン天国なのかというと、実は県内にソープランドが一軒もない県でもあります。他の風俗店もほとんどないとかで、スケベを求める県民はわざわざ峠を越えて県外まで出張するんですって。 観光資源も豊富なのに、それを利用して儲けようとも歓迎しようとも思わない気質。30年くらい前は、「長野にスキーに行くときは、ふりかけを持って行け」っていわれたのです。食事は美味しくもなければ量も少ないからご飯にふりかけをかけて腹を膨らませるしかないと。最近はさすがに昔に比べればそういうのは聞かないですが、当たり外れの振れ幅は相変わらず大きいです。 田中康夫氏を県知事に招聘して、そのくせ大反発してこれといったスキャンダルや失政もなかったのに結局引きずり下ろす。長野市民と松本市民の間では「どっちが長野の中心地か」で内心激しく対立しているのですが、正直他県民からすると「どっちも同じ程度にしか思えないけどなあ」と思ったりします・笑。 つまり、やっぱり「食えない人たちだなァ」と・笑。

isoken
質問者

お礼

eroero さん、こんにちは。 >「食えない人たち」ですね、はっきりいって・笑。別に真田一族に限った話ではないです。長野県民全体に対してそういう印象です。 自分の短くはない人生を振り返りますと、長野県出身の方と深くお付き合いした事がありません、つまりその県民性に関してはほぼ先入観が無い。 他方我が国有数の教育県だとは、何かで聞いた事があります。 >長野県というのは、全国で唯一「淫行条例がない県」なんですよ。 初めて知りましたが、そもそもちょっとした常識さえあれば不要な条例ですよね、肯定的に捉えてもいいんじゃないでしょうか。 もっとも性悪論の立場に立てば、転ばぬ先の杖と抑止力は必要なのかも知れませんが・・。 >実は県内にソープランドが一軒もない県でもあります。 以前ちょっと調べたのですが、京都を含む8府県にはソープが無いみたいです。 >他の風俗店もほとんどないとかで、スケベを求める県民はわざわざ峠を越えて県外まで出張するんですって。 下半身の疼きと県民性との因果関係は恐らく存在しないでしょうから、道徳観に依る呪縛という事なんでしょうか。 さて以下余談ですが、カリマンタンの北部、東マレーシアのサラワク州に周囲を囲まれたブルネイという小国があります。 御存じの通り石油と天然ガスの輸出に依り、一人当たりのGDPが45000ドル近いアジア有数の豊かな国家ですが、所得税を始めとする個人に掛かる税金がほぼ免除されている為、実質購買力は恐らく我が国のそれを遥かに上回るでしょう。 ところがどっこいこの国はイスラムの戒律がとっても厳しい、つまり金はあるが酒は飲めない性風俗も無い為、ともすればフラストレーションが溜まってしまうんです、特に若者はそう。 独身男性は当然SEXだってしたい・・ではどうしているのか、週末になるとシンガポール辺りに飛んじゃうんですね。 ガーデン・シティなんて呼ばれて臭い物に蓋をしてはおりますが、シンガポールに性風俗は掃いて捨てるほどあります、勿論ソープだってある、ただみんな知らないだけです。 1980年代の後半、私はシンガポールのとある酒場でブルネイ人と知り合い、以降何度かブルネイを訪れる事となりますが、長野県のそんな話を伺って、ふとあの国を思い出してしまいました。 悪い癖で余談の余談・・、現在我が国は年間600万トン超のLNGをブルネイから輸入しておりますが、その輸入を一手に握っているのが三菱商事。 1960年代の後半、この我が国有数の総合商社は社運を賭けて大博奕を打った、彼の地でガス田を発掘したシェル・グループとJVを組んで、 「 ブルネイ・コールド・ガス 」 及び 「 ブルネイLNG 」 というアップ・ストリームの生産・輸出会社を作り株の配当で大儲けすると同時に、ダウン・ストリームでは、輸入元の東京電力・東京ガス・大阪ガスの輸入代行者として莫大なコミッションを今も尚得続けている、まさに坊主丸儲けの世界です。 >観光資源も豊富なのに、それを利用して儲けようとも歓迎しようとも思わない気質。30年くらい前は、「長野にスキーに行くときは、ふりかけを持って行け」っていわれたのです。 それは知らなかった、日本のブータンさながら幸福度と長寿は日本一との事ですから、粗食は健康にいいのかも知れませんねぇ。 >田中康夫氏を県知事に招聘して、そのくせ大反発してこれといったスキャンダルや失政もなかったのに結局引きずり下ろす。 田中康夫さんはどうなんでしょう、個人的には身震いがするタイプでして、どうも好きになれない。 さて彼が行った経費節減とリストラに依る財政改革は、確かに一時的に長野県の累積債務の減少・財政の健全化に寄与しましたが、一方で税収を著しく減少させてしまう為或る意味諸刃の剣なんです。 つまり安倍内閣で言うところの第3の矢 ( もっとも安倍内閣の第3の矢も曖昧模糊として私には理解出来ませんが ) が必要なんですが、その種の方法論が無く結局対案無き秩序破壊に過ぎなかった。 結局地方財界としてはクリーンで鏡張りの県政よりも、中央にパイプを持ち金を咥えて来てくれる知事の方がいいのでしょう、依って長野財界がこぞって対立候補支援に回りああいう結果になった・・、私としてはそう認識しておりますが・・。 回答ありがとうございました。

回答No.2

イソケンさんこんにちわw 真田丸面白いですよね。生き残るための知謀策謀と人間ドラマが描かれていて、いつものやたらと壮大なスケール感ばかりを出そうとする大河ドラマと違って、戦国時代をより実感できますね。 上田合戦では民衆も上田城に立て籠もって戦い、秀忠の軍勢を返り討ちにした事もあってか、今でも上田の人達は土地に対する愛とプライドがすごく強いそうです。秀忠が上田合戦に手こずって関ヶ原に間に合わなかったせいで、東軍はギリギリの勝利となってしまい、その後の徳川体制に大きな影響を与えました。それがなければ徳川が強すぎて267年後の明治維新は成らなかったかもしれませんねw 上田はじめ、長野のマンションや温泉旅館なんかの広告の仕事はよくやるので、さんざんストリートビューでは行ってるんですが、実際に旅行した事は2・3度しかありません。 諏訪湖の間欠泉センターに遊びにいった記憶があります。そのすぐ近くに、クォーツ腕時計を開発したセイコーエプソンがあります。プロジェクトXでやってましたが、生糸が廃れた時に、時計店店主が商店街の人々や失職した生糸女工を集めて味噌蔵で始めたんだそうです。ここでも生き残りをかけた戦いと結束があったんだなぁと。 細田守監督アニメ「サマーウォーズ」の舞台は上田市、舞台となるヒロインの祖母の家は真田氏と上田城がモデル。この作品も、地球を守るために上田の人々が結束して戦うストーリーです。 そういった長野の人達の根性と結束力は、厳しい自然と歴史的背景から育まれたものなんでしょうね。 ・・・あんま関係ないですけど、長野がらみの笑い話をひとつ。 若い頃、群馬から山梨へ行くため、信濃路を一人で車で行く事があったんですが、途中コンビニで道を尋ねたら、「この先のサクを越えたら・・・」と言われて、長野には車で越えられる柵があるのか、でもこの車で越えられるんだろうか、と不安に思いました・・・

isoken
質問者

お礼

mikasa さん、おはようございます。 >真田丸面白いですよね。生き残るための知謀策謀と人間ドラマが描かれていて、いつものやたらと壮大なスケール感ばかりを出そうとする大河ドラマと違って、戦国時代をより実感できますね。 全く仰る通りで、久し振りに面白い大河に出会ったとの印象です、信州という土地柄も興味深い。 ずっと以前は、NHK大河ドラマの舞台となった土地を、後追いで嫁さんと旅したものですが、それも止めちゃいました、直江兼続の生涯を描いた 「 天地人 」 ⇒ 米沢 が最後でしょうかねぇ、何せ最近の大河はつまらなかったですから・・。 さて古来より坊主の嘘は方便・武士の嘘は武略と申します、武家の棟梁たる者にとって、何よりもお家の存続が最優先事項であるはず、つまりその為には如何なる権謀術数・嘘偽りも許される・・とまあ私は解釈します。 そもそも滅び去れば味噌も糞も一緒、これはもう無能の一言で括られちゃいますが、例えばドラマ冒頭の武田の滅亡もそうでしょう、偉大過ぎた信玄の不肖の息子 = 勝頼 という相も変らぬステレオタイプで語られてしまう、そこには如何なる言い訳も許されません。 ところで三谷さんは当脚本を手掛ける以前に、新田次郎氏著 「 武田勝頼 」 を読んでおられたんじゃないかと勝手にそう感じておりまして、というのもドラマの中の勝頼の人となり・・それ以上に勝頼と昌幸との交わりが、驚くほど新田次郎さんのテイストに似ているからです。 まあ当ドラマは小豪族のサバイバルが切り口の一つでその延長線上に真田昌幸がいる、反面その生臭さを消す清涼剤が信之・幸村の二人の息子・・という構図なのではないでしょうか。 >上田合戦では民衆も上田城に立て籠もって戦い、秀忠の軍勢を返り討ちにした事もあってか、今でも上田の人達は土地に対する愛とプライドがすごく強いそうです。 真田に関する本質問をする際、実は mikasa さんの地元 上州・沼田にも触れたかったのですが、長くなる為に割愛してしまいました。 昨秋北陸からの帰路、沼田インターの出口が大渋滞してて驚きましたが、あそこには関東でも有数の人気を誇る 「 道の駅 」 があるそうですね、加えて「 真田丸 」 の影響もある、今年はうんと賑わうんじゃないでしょうか。 さて真田はそれ以前にも2度ばかり、徳川の精鋭に苦汁を舐めさせておりますね、今川家から自立して以降の徳川軍があれほどの敗戦を喫した例は、三方ヶ原を除いて恐らくなかった。 元来勝負事に於いて、この心理的優越性は大きいものです、徳川の大軍を眼前にした昌幸の目には、むしろその大部隊が持つ脆弱性の方が鮮明に映った、一方の徳川は何となく腰が引けてた・・とまあそんな感じでしょう。 地縁・血縁以外にもそんな共通体験があったとするなら、地元の方々としても、真田という豪族に対する一体感と愛着を感じない訳には行きませんね。 回答ありがとうございました。

回答No.1

 「信濃では 月と 仏と おらが蕎麦」  善光寺は行きましたが、田毎の月とそばの花を見てみたい。  そして美味しいおそばが食べたいです。  真田一族の事 知りたかったのでよく解りました。 有難うございます。  大河ドラマも楽しみにしたいと思います。

isoken
質問者

お礼

purimuro-zu さん、おはようございます。 >「信濃では 月と 仏と おらが蕎麦」 恥ずかしながら、この句は初めて聞きました。 そう言えば、東京には信州出身のお蕎麦屋さんが多いとは聞きます、 「 更科 」 なんて屋号はそうなんでしょうか。 >善光寺は行きましたが、田毎の月とそばの花を見てみたい。 >そして美味しいおそばが食べたいです。 私も大好物・・、ただ蕎麦を食べたいそれだけの為に、我が家から約250kmの道のりを3時間掛けて、時折信州まで車を飛ばします。 善光寺付近のお店で家内がいつも七味を買ってるみたいですが、あれも名物なんでしょうか。 >真田一族の事 知りたかったのでよく解りました。  >大河ドラマも楽しみにしたいと思います。 私としては、草刈正雄さんが演じる幸村の父 真田昌幸に注目して御覧頂きたい。 若い頃はただ見てくれがいいだけの大根役者だった彼も、中々どうして味がある且つ今尚ハンサムでもある、 「 三日会わざれば刮目して見るべし 」 ですね・・。 回答ありがとうございました。

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