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祈る事に意味はあるのだろうか?

仏教のある僧侶がシャカの本当の仏教とはとても科学的合理的なのだといった。 シャカは死後の世界については何も語らなかったし、体験してない事はわからないとした。 現代日本の仏教は葬式仏教になってしまい、死後の魂の安らぎを願うという。 これに対して、この僧侶は魂も死後の世界も存在しない、現代日本の仏教はゴミまみれになり本当の仏教ではないという。シャカの本当の仏教とは悩みの解決法でたあり、いかに欲を無くして生きていくかを問うている。 この僧侶は以前テレビで葬式のお経は全くの無意味。お経というのは昔の中国語で悟る方法が書いてあるだけで、聞いてる方は全く意味が解らない、解らないから有り難いのだろうと勝手に解釈してるだけ。 ここで質問です。 お経が全くの無意味で魂も死後の世界もないなら、それが事実からなぜ日本の仏教はお経が無意味だと知りながら お布施を払わせるのでしょうか? 無意味な事に対してお金を払わせるのは一種の詐欺ではないですか? 私は専門家ではないですが、祈るという行為には意味があるような気がします。 それは自然に対して抱く畏怖の年や人間以外の何かに対して。つまり、科学技術が発達した現代ですが゛謙虚さやが先祖に対する感謝の気持ちが大切なのでは、私の中では完全科学主義ってなんか怖い感じがします。 結局、この話は神様を信じるかどうかになるような気がします。 この僧侶に言わせると現代日本の仏教が良くなる為には、シャカの仏教をちゃんと普及させて、葬式やなにやらでボロ儲けしてる坊主がもっと儲からなくなれば、日本仏教も ましになっていくといいます。 皆さんはどう思われるますか?

noname#217235
noname#217235

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10484/32979)
回答No.7

日本人のほとんどはあまり宗教というのを意識しないで生きているのですが、それってつまるところ幸せなんだと思うんですね。滅多に外国が攻めてくることもないし、お米を作っていれば飢えることも少ない。つまり無理やりよその民族から略奪しないと生きていけないというわけでもない。さらに現代は病気になることも少なく「死」は日常にほとんどありません。最近は生まれてから成人するまでの間に身近な人の死は飼ってた犬が死んだくらい、という人だって少なくありません。 だからつまり、宗教に心の救いを求めないとやってられないということがないのだと思います。 これがユダヤ人辺りとなると、イスラエル(パレスチナ)っていうのはエジプト文明とギリシャ文明とチグリス・ユーフラテス文明の交差点になるような場所にあってつまり異民族が行き来する。しかも死海みたいなとんでもないところもあって砂漠だらけでその所々にあるオアシスにしがみつくように生きてるわけです。だからカリスマティックな神様でも使って民族を束ねないとすぐに異民族にやられてしまうなんて背景を持った人たちもいるわけです。 仏陀の説く初期仏教に関しての知識はあまり詳しくないのですが、仏陀は元々インド人ですから我々とは根本の価値観が違います。インド人にとってカースト制度は今も残る強烈なものですが、日本人も身分差別はありますがカースト制度ほど強烈じゃありません。そうすると輪廻転生(すなわち命の平等感)の感じ方が根本から違うんですね。 だから仏教自身も日本に入ってきて日本人に広めるために日本人向けのアレンジをしてきて、それで今の形に落ち着いているというのもあると思います。そして「今の教団のあり方は間違っている。教祖様が唱えた初期のスタイルに戻るべきだ!」というのは古今東西どこの宗教でも一定のリズムで起きていることです。 あの激烈なユダヤ教でも、ときどき人々の信仰が揺らぐ時期があって、その度に神の言葉を託された預言者が現れて「原点に戻れ」と神の怒りを伝えています。神はソドムとゴモラの町を滅ぼしましたが、その理由は信仰を忘れて堕落した暮らしをしていたからです。 ユダヤ教史上最大の宗教改革運動がイエスによるものでした。イエスはユダヤ教のラビ(お坊さんみたいなもの。教師と訳されることもあります)で、宗教改革を説きまして、これがキリスト教の誕生に繋がります。 そのキリスト教も度々原点回帰運動は起きていて、プロテスタントが生まれたのも「今のカトリック教会がやってることはイエスが言っていたことと違う」からでした。 あのイスラム過激派の運動もある種の原点回帰運動ですね。コーランに「偶像崇拝はいかん」とあるのでせっせと仏像や昔の神殿を破壊して回っているわけです。 そして日本仏教が単なる儀式宗教と化している点ですが、よくよく考えてみたら日本古来の宗教(?)である神道は教祖もいなければ経典や教えさえなく、単なる儀式だけが存在する儀式宗教です。そして仏教は日本に入ってくるにあたり神道との衝突を避けるために神仏習合をしました。そんな歴史的経緯があるので、仏教が単なる儀式になってしまったのは、日本人が扱うと自然にそうなる流れになってしまうような気もします。

noname#217235
質問者

お礼

ありがとうございます 勉強になりました

  • smi2270
  • ベストアンサー率34% (1640/4699)
回答No.6

世界にはいろいろな 宗教・宗教的儀式・悪魔祓いがあります。 それらを批判するのは誰にも出来ない事だと思います。 質問者様が「日本の仏教はお経が無意味だと知りながら お布施を払わせるのでしょうか? 無意味な事に対してお金を払わせるのは一種の詐欺ではないですか? 」と、お思いなら 御自分の遺書に 「葬儀はしないでくれ。火葬時もお坊さんはいらない」と、 お書きになれば宜しいのではないでしょうか。

回答No.5

 >これに対して、この僧侶は魂も死後の世界も存在しない、   現代日本の仏教はゴミまみれになり本当の仏教ではないという。   シャカの本当の仏教とは悩みの解決法であり、   いかに欲を無くして生きていくかを問うている。< 一つだけ訂正します。 いかに欲を無くして生きて行くかを問うている            このいかに欲を無くしての無くしては            そのままの意味でなく(無くすのではなくということです。)            実際はこの無くしては 顕かに観るという事だと聞きました。            いかに欲を顕かに見てこの世を生きて行くことだそうです。            ですから欲を無欲にするのではなく顕かに見て             その為に生きて行きていくという事です。 それが釈迦の言いたい事ではないですか そして その教えをどのようにして広めていくかですね。 最後の >この僧侶に言わせると現代日本の仏教が良くなる為には、      シャカの仏教をちゃんと普及させて、      葬式やなにやらでボロ儲けしてる坊主が      もっと儲からなくなれば、日本仏教も ましになっていくといいます。<      その通りだと思います。      でも祈りという事は大切ですね。祈りなくては 帰依はできませんから。      自分で祈るという事です。      何に・・それは自分で考えるか、信頼する人にお聴きすることですよ

noname#217235
質問者

お礼

ありがとうございます

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3443)
回答No.4

「日本の仏教はお経が無意味」仰る通りです。このような日本の仏教の形を作ったのが、「法然」なのです。鎌倉時代の僧、「日蓮」は「後鳥羽院上皇が治めていた時代に、「法然」という僧があった。そして「選択集(せんちゃくしゅう)という書を作り、この書によって釈尊一代の仏教を破り、一切衆生を惑わしたのである。ここに時代は末法に至り、皆それぞれに法然の邪義のたぼらかされて迷いの暗い道に入り、成仏への直道を忘れてしまっている。悲しむべき事に誰もこの迷妄を打ち破る者も無く、痛ましい事に人々はいたずらに邪信を増している。しかるを、法然の選択集によって人々は娑婆世界の教主たる釈尊を忘れ、西方の阿弥陀仏を尊び、仏の付属をなげうって、天台、伝教の建立した東方の薬師如来をさしおき、四巻三部からなる浄土の経典をもっぱら信仰して釈尊一代の聖教(しょうきょう)をむなしくなげうってしまった。」(立正安国論より)

noname#217235
質問者

お礼

勉強になりました ありがとうございます

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.3

>これに対して、この僧侶は魂も死後の世界も存在しない、現代日本の仏教はゴミまみれになり本当の仏教ではないという。シャカの本当の仏教とは悩みの解決法でたあり、いかに欲を無くして生きていくかを問うている。 個人の信念や思想は(お互いに)尊重するべきです。仏教に対する考え方は様々あるし、今の日本仏教がシャカの思想とは異なっている部分もあるのは当然だと思います。 このひとはいわば原理仏教とでもいうべき過激思想であり、私見では世間を混乱させる部分があると思います。 私は、祈りは人間のまだ完全には理解できていない(そして将来も絶対わかることがないであろう)世界へ対する謙虚な学びの態度であり、意味のないことではないとおもいます。

noname#217235
質問者

お礼

ありがとうございます

noname#210109
noname#210109
回答No.2

祈るという行為には意味があるような気がします」←祈る事の違いに依り 答えが変わります・・ 自身の幸せを祈るのか 他人の無事を祈るのか・・・ 其処がキーポイントです・・

noname#217235
質問者

お礼

ありがとうございます

  • monchi17
  • ベストアンサー率29% (367/1234)
回答No.1

日本の仏教は本来のするべきおこないに戻ったほうがいいと思ってます。 お布施やお葬式はお金がある人からの徴収ですから会社経営となんらかわりないなと思っています。 お坊さんにお葬式で払った金額は100万円はかかりました。(場所代など民間の葬儀代は別です) 田舎のしきたり、代々付き合いがあるお寺、檀家だったということ、そういうこともよく分からずの葬式でした。 お坊さんはメモ帳をやぶり、手書きで○○代20万円とか書いてわたすだけです。 (領収書は発行できないと言われました。) そのお坊さんとは全く付き合いもないし、お経あげた墓の前で、付き合いがある人とプレステ3の話をしてたのが驚きました。 気持ちが落ち着た頃、疑問だらけです。田舎の風習や付き合いが絡んでるのでどうしよもないです。 まだ坊主バーとかの方が世のためになってるんじゃないかと思います。

noname#217235
質問者

お礼

体験からの意見 ありがとうございます

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