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(シベリア抑留)収容されていた収容所の調べ方

どなたかお願いします。 祖父がシベリアに抑留され、帰還の途中(船中かは不明)で、亡くなりました。 (遺骨も、戻ってきていないと思います) そのためか、死亡者名簿などでも、祖父の名前を見つけることはできておりません。 祖父が収容されていた収容所が、シベリアのどこにあるのか、調べようはあるのでしょうか。 (わかれば、訪ねていきたいと思っております) よろしくお願いいたします。

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 僕は直接は知らないのですが、妹の夫が樺太からシベリアに移送され、強制労働を何年かさせられたため多少のことは聞いています。  先月の四月はじめの『読売新聞』の受け売りですが、成蹊大学の名誉教授、富田 武氏に伺ってみるのも一案だと思います。  北朝鮮の興南にあった「第53送還収容所」から、ナホトカの「第380送還収容所」へ、などの番号からも察せられるように今分かっているのは氷山の一角だと思います。  出所も、旧日本軍の兵士、軍属、看護婦、など軍関係のほかに一般市民もあり、お祖父様のご職業、所属されていたしていた部隊などが重要な手がかりになると思います。  キリル文字で書かれたウォッカスゲ•ハツエから、若杉初枝にたどり着くのは、目の前にお祖父さんの名前があっても、かなり困難な作業と思います。ご幸運を祈ります。

lovemomonga
質問者

お礼

詳細なご回答をありがとうございました。 >先月の四月はじめの『読売新聞』の受け売りですが、成蹊大学の名誉教授、富田 武氏に伺ってみるのも一案だと思います。 探してみます。 >出所も、旧日本軍の兵士、軍属、看護婦、など軍関係のほかに一般市民もあり、お祖父様のご職業、所属されていたしていた部隊などが重要な手がかりになると思います。 祖父は満州鉄道に勤めており(軍人ではなかったようです。満州鉄道での職種は不明です)、ハルビンで働いていたようです(母がハルビン生まれです)。 舟(どのくらいの大きさかも不明です)を所有していたそうで、その頃は裕福だったそうです。 恥ずかしながら私は、母の兄弟の存命中に祖父の抑留について話を聞き出す努力をしてきませんでしたので、それ以外の情報はありません。 >北朝鮮の興南にあった「第53送還収容所」から、ナホトカの「第380送還収容所」へ、などの番号からも察せられるように今分かっているのは氷山の一角だと思います。 多くの方が、大変な思いをされたのだと、改めて想像させられます。 収容の後に帰還が叶った方も、収容され帰還が叶わなかった方も、それを待っていた家族の方にも、本当に気の毒な時代だと感じます。 ごく近い身内に抑留された人(祖父)がいながら、これまでずっと、抑留され帰還が叶わなかった方々がどんなに苦しんで亡くなっていったのかということに、少しも思いを馳せることをしてこなかった自分を情けなく感じます。 少しでも祖父の供養になればと思い、これから祖父の軌跡を追いたいと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • hamazo2004
  • ベストアンサー率27% (292/1068)
回答No.4

お礼コメントを見ました。自分のルーツを知りたくなる気持ちは分かります。私のように内情を知るものにとって日本政府のシベリア抑留者への対応は最低です。

lovemomonga
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。 帰国された方々は、共産思想に影響されているなどの疑いがもたれていた、という話を聞いたことがあります。 それも、帰国者の集まりを開こうとしたときに、警察(?)がやってきたなどと・・ 苦労されてやっと日本に戻ってこられて、そのような待遇をされていたなど、ほんとうに言葉がありません。 そのような事実を、二度と繰り返さないための反省としてできるだけ詳細に記憶していくしか、後の世代の私にはできることが見つかりませんが、私個人でできることとして、身内の最期を今からでも見届けたいと思います。 ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.3

 #1です。補足です。  四月二日の『読売新聞』から  厚生労働省は、ロシア政府から入手した抑留者の個人資料を遺族の申請があれば、日本語訳を添えて無料で提供している。とあります。  申請方法は郵送。「ロシア政府から受領した日本人抑留者に関する個人資料の提供希望」と明記し、(1)申請者の氏名、住所、電話番号、抑留者との続き柄 (2)抑留者の氏名、生年月日、出生地を記載する。  添付書類として(3)申請者の身分証明書か運転免許証、保険証、などの写し (4)戸籍謄本など、抑留者の死亡と申請者との続き柄が確認出来る書類 (5)申請者の住民票(請求日前30日以内)を付ける。  郵送先は、〒100-8916 東京都千代田区霞が関1の2の2、厚生労働省社会•援護局援護•業務課調査資料室、 問い合わせは(黒電話)03-3595-2465(直通)だそうです。

lovemomonga
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。 新聞の掲載情報につきまして、詳細にご教示くださり、とても助かりました。 祖父は帰還途中での死亡(出国済み扱いだったのかもしれません)ですが、抑留者であったことには変わりないので、問い合わせてみたいと思います。 ご親切に教えてくださり、お礼申し上げます。

  • hamazo2004
  • ベストアンサー率27% (292/1068)
回答No.2

厚生労働省の中に擁護局というものがあって、「戦没者遺族等への援護」として「~ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について~資料の一覧や死亡者名簿が閲覧できます」の中に死亡者以外の名簿もありますが、ごく一部です。先日もロシアの中央アジアのある共和国で名前が別で登録されていた日本人が見つかりました。厚生労働省擁護局に直接確認してみたらどうですか。

参考URL:
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/
lovemomonga
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 リンク貼っていただいたページはとても参考になりました。 まだ全部見ている途中ですが、埋葬場所ごとにも記録があるとは存じませんでした。 しかし、「死亡者名簿」の中には祖父の名前はありませんでした。 帰還途中の死亡だから帰国者扱いになり、死亡者名簿には載らないのでしょうか? つい先日新聞に掲載された、抑留死亡者名簿の中に、送還のための中継所での死亡者リストがありました。 しかしその中にも祖父の名前はありませんでした。 すべて方のお名前に目を通したのですが、祖父の名前や、祖父の名前に音(おん)が似ているお名前はありませんでした。 「抑留時の死亡者」としてみなされてなかったから、資料の対象にならなかったのでしょうか。 ありがとうございました。

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