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情報公開の時代は、所見に悪いことは書けない?
少々冷静さを欠いて質問しております。 現在、子どもたちの通知表に、所見を書いております。 なんでも情報公開の時代なので、なんともならないようなマイナス面は、書かないようにという指導を、いつも受けます。 悪いことばかり書くような所見では、確かにまずい。 万引きした子がいたとして、「万引きがありました」などと書くほど無神経な先生は、まずいないでしょう。 しかし、悪かったところ、短所の指摘を、あまりにぼやかしていては、こちらの真剣な願いが通じないような気がしてなりません。物はとらえよう、書きようですが、「こんな、オブラートに包むような書き方で、親が真剣に子どもに立ち向かえるものか。」と思うことがしばしばです。 指導要録や、内申書など、その最たるものです。 人を困らせたこと。力が育っていなくて、まだうまくできないこと。事件を起こしてしまったこと。公式文書には、書きにくいことばかりです。 これは、あくまでもその年の児童生徒の姿でしかないのに、書いてしまったら、その子の一生に悪影響を及ぼしてしまうのでしょうか。 こういう所見を書くようになって、はや十数年がたちますが、いまだに釈然としません。まあ、今回もオブラートに包んでがんばりますが、やはり書くのはまずいでしょうか。
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もう教員をやめてしまったものですが・・。 本来、保護者や次の指導者にその生徒のひととなりを伝えるという意味での所見は、もう滅んだと考えるべきですね。 人間のいい面だけ、否定的なことは一切書くなという、今の文部科学省の指導に従えば、そうなるでしょう。 だいたい所見などというものは、主観でしか書きえないし、そういう欄を作っておいて、後で内容にいちゃもんをつけるなんていうのは、本当に馬鹿らしい話だ思っていました。 まぁ、根っこには、それをもとに裁判を起こしたりする風潮もあるし、一方教員側にも、「内申書に書くぞ」といって、もともとたいした影響力のない、所見というものを、指導の道具にしてしまった責任があるのでしょう。 ですから、私は指導要録における所見というのは意味のない儀式なのだと思ってわりきっていました。実際知り合いのなかには当たり障りのないひな形を5つくらい用意して使っている人もいましたし、現状ならそれで何の問題もないと思います。 一方内申書における所見は単純に担任が生徒のセールスポイントを書く欄だと思っていましたので、誠心誠意その生徒をほめるように心をを砕きました。そう考えれば、それは受験する生徒への教員側からのはなむけだといえるとおもいます。 思うに世の中に向けて、所見などというものに左右されて人生が決まることなど、皆無なのだと、もう少し実体を知らせるべきだと思うのですがね。
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それは、あいがとうございました,保育園から半分こないという理由で全くご覧にならない学校もありましたので、使っていただけたなら、うれしいです。 幼稚園からだと、障害の表現に苦慮ししてますけどね。彼を障害者というジャンルで書くか、健常児として書くかとか。 失礼しました。
お礼
aozoraxさん、ありがとうございます。 読んでない学校も、きっとあると思います。あれを作るのには、本当に涙の出るような苦労をするのに。時々、まったくむなしいと思いたくなるときもありますよね。わかります。所見って、いったいなんだろうって。
補足
この場を借りて、改めて皆さんにお礼申し上げます。変なことを申し上げますが、質問を立ち上げた自分が言うのも何ですが、今回の問いかけでは、もう少し多くの方が、何か感じてくれるのではないかと、へんな期待(?)をしてしまったところがあります。 通知表を見る保護者の皆様って、いったいどんな気持ちで所見欄を読んでいるのでしょう。私は同業者のためか、わが子の通知表も、○の数より、所見の文を見てしまうのです。 でもこの文が、時には、本当に先生が言いたいことではなかったりするのですよね。 なかなか、割り切って書くのはストレスのたまる作業です。ありがとうございました。
あまり、深く考えないでも良いのでは無いのかなあ? 大体、小学校では、幼稚園から送られてきた指導要録を、何通受け取りましたと校長名で、受領書を書きながら、即、綴って、倉庫行きでは無いですか。 幼稚園の先生は、若い先生が多いので、必死に気を使って書いているのにね! 絶対評価、相対評価の問題もあるし、タイムカプセルで20年後に通知表を本人が見たとき、結構、担任の先生も、俺のこと、解ってたんだなあ。と、同窓会で話せる程度に書くのが一番かなあ?本人が一番わかるからね。
お礼
aozoraxさん、再びありがとうございます。 いや、実は、もう書き終わった後ですので申しますが、それなりに、私なりに誠意を持って書いたつもりのものが、何度も、書き直し指導をされていたのです。この年になっても。 「良くも悪しくも、本人の成長を願ってのメッセージ」そうあるべきですよね。結果的におべんちゃらみたいにならざるを得なかった所見欄を見て、私は今日も自己嫌悪です。 ちなみに、私は、幼稚園からの所見欄を、穴が開くほど見ました。少しでもその子を知るための資料にならないかと。活用しましたよ。
正直に書いた手製のものと、あたりさわりのない指導要録と2本立てで行くより仕方ないでしょうね。子育て用の手製のメッセイジと情報開示用の記録事務文書ということでしょうか。どんなつもりで書いても、両親、祖父母、教育委員会と立場の違う人から、苦情をつけようと思えばつけれますからね。本人との間なら理解しあえる言葉でも・・・。
お礼
aozoraxさん、ありがとうございます。 私は若いころ、所見とは、担任がとらえた、その子の「おそらく客観的には、この子はこういう子ですよ」という姿を、できるだけ正確に伝えるものだと思っておりました。そして、伸ばすところ、改善させたい指針を示すところであると。 でも、そうではないようですね。 とすれば、親は、所見欄を見て、いったい何を思うのでしょう?きっと私も、aozoraxさんのおっしゃるような考え方で割り切っていかなければならないと思います。が、気の乗らない話です。
- PAPA0427
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そうですね。文書を書く先生にとっては、その場限りのお話でしょうが…。書かれた方にしてみれば一生残るわけですよね。 親から、何かあるたび「あんたは、あの時は!」っていわれちゃうわけですね。ましてや公文書に書かれた場合は…。 事実を書けばいいというものでもなさそうじゃないのかな?と考えます。 親の本当に伝わるか?親書でご連絡されたら如何でしょう?生徒の事が本当にご心配ならそういう方法もあるのではないかと思いますが。
お礼
PAPA0427さん、ありがとうございます。 まあ確かに、親が、または本人が、「それを見るたびに腹が立つ」というような所見は、望ましくないかもしれません。まして、それが、担任の主観であって、客観性がなかったとすれば。 親書。多くの先生方は、やっていることでしょうね。(もちろん私もしています。)やはり、所見で書けることは、限られている、と、割り切るしかないのかもしれません。ありがとうございます。
お礼
terupeさん、回答ありがとうございます。 terupeさんのご回答、お気遣いに感謝いたします。私もようやく、少し笑いながら、「そうだ、そのとおりだ!」と、振り上げたこぶしの下ろしどころを見つけたような思いです。 通知表、要録の所見は、(特に大きな課題を抱く子にとっては)無意味に等しい! でも、そのことを、世の保護者には、知ってもらわないといけませんよね。重大なことなのに。