• ベストアンサー

他の弟子は、何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?

katyan1234の回答

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.37

すごく難解な質問、疑問にあたってしまいましたね~ はっきり言ってよくわかりません。 そこよりイエスが言ったことが成就した。としか考えてないからね。それより一緒に飯が食えることに目がいっていたのかもね。最後の晩餐になるとも知らず楽しくほかの事を考えていたと思いますよ。 だから誰も何も言わなかったのでは? わいわいと食事していたと思うけどね。 ルカには書いてないのかな? なぜでしょうね。

noname#130082
質問者

お礼

お礼が遅れました。申し訳ございません。 まあ、素人目にも難しい問題だとは思います。 >イエスが言ったことが成就した。 そうなんですよねえ。私は日本人的な感覚で「何でユダをここで止めないんだ!?」という感情があるので、こういう質問になってしまいましたが、イエスは既に自分が十字架にかけられると預言していますから、これは成就されなければいけない。だから、ユダをここで止めてはいけないわけで。それじゃあ何でここまでイエスはばらすの?という疑問もあります。 >楽しくほかの事を考えていた かもしれませんが、ここまではっきり示してしまうと、さすがに気がついてしまうかもしれません。やばいじゃないですか。 ところで、その~~。ちょっと言いにくいことなんですが(^^; 回答者様はクリスチャンのようにお見受けしますが。 >ルカには書いてないのかな? 回答者様は、聖書はお持ちでないのでしょうか(^^;;;;;

関連するQ&A

  • ユダの福音書の何が注目されるのか

     その意義が飲み込めません。おしえてください。  ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが  そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。   ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8  (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、  (2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですが (1)の事項は もし  ( a )《誰よりも賢い》ことであるなら   ● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。  ☆ ですから  特別のことではないでしょう。もし  ( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。  次に(2)の事項についてですが   ( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては   ( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば   ▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80#cite_ref-11  スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。  けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから  ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」  ☆ と言われていますから。  よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。

  • ユダの福音書のキリストの復活について

    最近ユダの福音書について興味を持ち、色々調べているのですが、不明な点があったので質問させていただきました。 まず、ユダの福音書ではキリストの死について 体という牢獄の中から死ぬことによって解放されるという考えがなされています。 そのためユダはキリストに命じられ、キリストを裏切り、殺すわけですが、そこでなぜわざわざキリストが復活したのかがわかりません。 使徒であるユダにわざわざ命令して牢獄から解き放たれたはずなのになぜ戻ってきたのでしょうか?ユダの福音書自体、ユダがキリストを裏切るシーンで終わってしまっているため、続きは考察するしかありませんが、どうなったのかが検討つきません。 また、ヨハネ、ルカ、マタイ、マルコの福音書ではユダがキリストを裏切った直後、なんらかの形で命を落としているよう(事故や自殺など)なので死んだことは間違い無いと思うのですが、そうなれば死んだキリストと死んだユダの入れ違い(ユダが天の国に行けた場合)が起こると思いました。 もしそうならばユダはキリストに会うことなく死んでしまうことになると思います。 そもそもユダが死んだ理由(特に自殺)もよくわかりません。キリストに命じられたため裏切ったのに、なぜ自殺してしまったのでしょうか?周りの批判に耐えかねたのでしょうか。 もしも天国から我々の国にキリストが帰ってこられた時1番信頼していた弟子が自分のせいで自殺していたらどんな気持ちだったのでしょうか…(考え難いほど酷い話ですが) まとめると質問の要点は ・キリストは復活する意味があったのか(ユダの福音書において) ・また復活した理由は何か ・ユダが死んだ理由は何か ・(追加ですが)キリストはユダの死についてどう思ったか 僕自身キリスト教では無いので専門用語や詳しいことは知らないので分かりやすく教えていただけると嬉しいです。ご自身の意見でもいいのでみなさん教えて欲しいです。

  • 「ユダは裏切り者じゃない!?」先日見たニュースより

     哲学・宗教関係の本が好きだったことがある一般人です。  先日NHKの昼のニュースで 「弟子でありながらイエス・キリストを売り渡し、その後裏切り者といわれるようになった(新約)聖書に書かれているユダが、実は売り渡したのはイエス・キリストによる指示によるものであった」 というのが流れていました。  気になったので自分でちょっと調べてみようと思って検索かけてみたのですが、最近の話だからなのか私のほしい情報が手に入りませんでした。(検索の仕方が悪いだけなのかもしれませんが…)  そこでこの件に関して詳しい説明が書かれているような情報やサイトを知っている方教えていただけないでしょうか?具体的な内容としては解読したと言っていた文献についてや、その解読内容・信憑性、どのような影響(論争?)が起こると考えられるのか等です。  ちなみにそのニュースの中で「イエス・キリストがユダについて弟子の中でもっともよく私の言葉?教義?を理解していた者であったと言っていた」そうです。私見になりますがそうなると、聖書の別のところでイエス・キリストがユダについて「生まれてこないほうが彼のためによかった」いうのがあったはずですが、単なる自分を裏切ったこと対する哀れみの言葉でなく、生まれてこなければこんな苦しい重荷(裏切り者のレッテル)を背負わせてしまう事もなかっただろうにという優秀な弟子を持ったがゆえの苦悩のような気持ちが見えてくるのですが?

  • 【(イスリオテの) ユダの福音書】 (史上最大のミステリー)

    御承知の通り、 (新約)聖書の中で福音書(イエスの言行を報告 するという形式をとった文書) というイエスの生涯を扱ったものには 新約聖書の序章にあたる 「マタイ福音書」「マルコ福音書」 「ルカ福音書」「ヨハネ 福音書」 というイエスについての異なる(しかも それぞれにおいて矛盾している)4つの物語 がありますが、  【ワシントン4月6日共同通信】よりますと (「異端の書」として破棄されたとされる) 新たな「福音書」とされる (タダイのユダではなく) 【(イスリオテの) ユダの福音書】 の写本を解読したと発表したそうですが、 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060407-00000301-yom-soci http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060407i301.htm  ****更には放射線炭素による年代測定で (今から1700年前の)約3、4世紀の本物の 写本と鑑定されたから大問題。 とすると、 翻訳書の一部は 「キリストは、自分を人間の肉体から 解放する手助けを、教えの本当の意味を 理解していたユダに頼んだ」と訳される そうなのですが、 もし仮にこの翻訳をベースにすると  これまで培ってきたキリスト教&新約聖書 の根幹を揺るがすことにもなりかねないので、 何ゆえ安易に解読発表が 認められたのか不思議でなりません。 おそらくイタリアのローマ教会等、世界各国の 様々な所から 今後、抗議&圧力がかかるであろうと予想 できるような気が致しますが、 「史学」と「宗教」とがまさしく激しく対立 した場面ともとれ心にものすごい葛藤を 感じます。  更には「表現の自由」と 「宗教的プライバシー権(とも言える)」 激しい対立とも とれなくもありません。  皆さんはどうお考えになりますか? 率直な感想をお聞かせ頂けましたら幸いです。

  • この世界は わたしたちのものではないのか

     ▲ (ヨハネ福音書15:18~19)~~~~~~~~~~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわた    しを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内とし    て愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。《イエスに属する者は この世に寄留して 人生をおくり まっとうする》という意味合いになると考えるのですが 果たして それで よいでしょうか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書1:10-11) ~~~~~~~~~~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。でしたら この世界は 《わたしたちのところ》なのではないでしょうか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか? どうかおしえてください。

  • この世界は われわれのものではないのか?

     ▲ (ヨハネ福音書 15:18-19 )~~~~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、     あなたがたを憎む前に     わたしを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、     世はあなたがたを身内として愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。  《イエスに属する者は この世に〈寄留〉して人生をおくり これをまっとうする》といった意味合いになると考えるのですが 果たして それでよいか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書 1:10-11 ) ~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。  そして、世は彼によってできたのであるが、  世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、  自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。  でしたら この世界は 《われわれのところ わたしたちの庭》ではないのか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?  おしえてください。どう考えればよいか。  何だか 遠慮しているという感じがあります。遠慮は 必要ないのではないか? です。

  • ヨハネ

    映画「ダヴィンチ コード」が話題になっています。 「最後の晩餐」の絵の中で、キリストの向かって左に 座っている使徒ヨハネはそういえば女性らしく 見えなくもないですが、マグダラのマリア説には ちょっと賛同しかねます。 そこで、ヨハネはなぜ他の弟子たちに比べ、 穏やかな顔つきで描かれているのでしょうか? 聖書に詳しい友人は 「ヨハネはキリストのお気に入りの弟子だった、 他の絵画でも美しく描かれている」 と言っていましたが、本当ですか。

  • アガペーとフィリアはそんなに違いがありますか?

     ヨハネによる福音の次のくだりで アガペーないし動詞のアガパオーとそして フィリアないし動詞のフィレオーが使い分けられているのでしょうか? その解説をしてくださる方は いますか。  すでに死後において復活したイエスが ペテロらと話しています。ペテロに向かって 《わたしを愛しているか》と三度たずねています。二度目までは《アガパオー》を用い三度目には《フィレオー》で表わされているようです。  ちなみにペテロは 三度ともフィレオーで答えています。  この事情について何か特別なことがありましょうか?  ▲ (ヨハネ福音21:15-17) ~~~~~  15: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/15   食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、   「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛している( ἀγαπᾷς με アガパース メ)か」  と言われた。ペトロが、   「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε フィロー セ)ことは、あなたがご存じです」  と言うと、イエスは、   「わたしの小羊を飼いなさい」  と言われた。  16: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/16  二度目にイエスは言われた。   「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( ἀγαπᾷς με )か。」  ペトロが、   「はい、主よ、わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことは、あなたがご存じです」  と言うと、イエスは、   「わたしの羊の世話をしなさい」  と言われた。  17: http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=21&t=KJV#conc/17  三度目にイエスは言われた。   「ヨハネの子シモン、わたしを愛している( φιλεῖς με フィレイス メ)か。」  ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。   「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛している( φιλῶ σε )ことを、あなたはよく知っておられます。」  イエスは言われた。   「わたしの羊を飼いなさい。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  まとめ: イエス・・・・・・・・・・・・・ペテロ     _________________  一度目:ἀγαπᾷς με―― φιλῶ σε       lovest thou me ――  I love thee       (KJV)      わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している(新共同訳)  二度目:ἀγαπᾷς με――φιλῶ σε       lovest thou me?――  I love thee      わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している  三度目:Φιλεῖς με――φιλῶ σε        Lovest thou me?―― I love thee      わたしを愛しているか――わたしがあなたを愛している  ☆ 質問者に成案はありません。したがってたたき台はありません。  分からないなりに思うことは:  ( a ) 三度問いかけることが重要なのではないか? 内容が確立する〔ため〕という意味において。  ( b ) だから アガパオーとフィレオーとはどちらでもよいのではないかという見方ですが それにアガペーは 人間のチカラでおこなえる愛ではないとすれば なおさら どちらでもよい思われます。  ( c ) でももしふたつの語に違いがあるのなら キリスト・イエスは そのことについて何らかのかたちで留意するようにとうながす意味で使い分けた恰好になっているのかも知れない。  ( d ) ただし イエスらが実際にはギリシャ語で話すことはなかったであろうから あくまで物語として聖書記者はそのように表現の使い分けをおこなった。  以上ご教授ください。

  • この世界は われわれのものではないのか

     ▲ (ヨハネ福音書15:18~19)~~~   ――・・・世があなたがたを憎むなら、     あなたがたを憎む前に     わたしを憎んでいたことを覚えなさい。     あなたがたが世に属していたなら、     世はあなたがたを身内として愛したはずである。     だが、あなたがたは世に属していない。     わたしがあなたがたを世から選び出した。     だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~  ☆ これは かのイエスの言葉です。  《イエスに属する者は この世に〈寄留〉して人生をおくり これをまっとうする》といった意味合いになると考えるのですが 果たして それでよいか?  あるいは つまり  ▲ (ヨハネ福音書1:10-11) ~~~  彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。  そして、世は彼によってできたのであるが、  世は彼を知らずにいた。  彼は自分のところにきたのに、  自分の民は彼を受けいれなかった。  ~~~~~~~~~  ☆ とあります。  でしたら この世界は 《われわれのところ わたしたちの庭》ではないのか?  《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?  おしえてください。どうすればよいか。  質問者の答えは 《人間(現実)が変わる》という・或る種の自然史過程としての・ただし突然変異のごときどんでん返ししか思いつきません。あとは・つまり基本は 生活日常を地道に生きるというかたちにて。

  • イエスが水をワインに変えた動機は?

    ヨハネによる福音書2「カナでの婚礼」で、 マリアとイエスは結婚式に出席していました。 婚礼に欠かせないワインがなくなると、マリアが、 「ワインがなくなりました」とイエスに言いました。 イエスは、「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。 わたしの時はまだ来ていません」と言いました。 それにも関わらず、イエスは水をワインに変える奇跡を行いました。 これはイエスが最初に行った奇跡だそうです。 イエスはどうしてこのようなことをしたのでしょうか? マリアのいいつけだからですか? 主賓が困っていたのを憐れんだためでしょうか? 弟子に奇跡を見せるためでしょうか? 全く必要がない奇跡のようにおもいました。 ワインはキリスト教にとって特別な意味があるようですね。 よろしくお願いします。