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映画『CUBE』の一場面について。
数年前、『CUBE』を観てから引っかかっていたのですが、 登場人物たちが、CUBEの中に閉じ込められている 自分たちの状況を認識したときに、 二コール・デボア(数学の才能のある少女)が 「閉じ込められたのは自分の罪のせいだ、 私にはずっと罪の意識があった」 と言うシーンがあって、とても印象に残っています。 この「罪」というのを捕らえきれませんでした。 「罪深い」といったようなニュアンスで使われる「罪」のように、 キリスト教的な思想から出てくるものなのでしょうか? いきなり理不尽で極限の状況に置かれたとき、自分の罪を 考える・・・というのが私には想像しきれなく、 とても気になっています。 同じシーンを覚えている方がいたら、 考えを聞かせていただけるとうれしいです。
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それ以外にも自分が何者かも判らない状態に追い込まれているのも 原因しているのではないでしょうか? 判っているのは自分の服に書いてある名前だけで、本当に自分の 名前かどうかも思い出せないほどの洗脳状態にあるので 自分が何者か?=良く判らない=善人か悪人かもわからない 閉じ込められている=ここは刑務所?=自分は悪いことをした? 私=悪人? という風に感じたのではないでしょうか? また罪の意識があった気がするという程度ですから、それこそ 母親といつも喧嘩していた、でも本当は自分が悪い気がする 友人に嘘をついた、悪いなぁと思っていた・・・ その程度のことが心の奥に残っているが、自分が失った記憶を 思い出そうとするたび、何か過去に悪い事をした気がするぞ? 何だっけ?これって罪の意識? というイメージになってしまったのではと考えました また、シリーズ中で神がかり的なシチュエーションが無いことから 人間が罪深い生き物だからとかって壮大な話にはならないと思います 閉鎖空間における人間同士の恐怖という所が言いたいのでは? DVDにはCUBEの元となったエレベーターという作品が収録されており これが作品の根本かも知れません CUBE→CUBE2→CUBE_ZEROで物語の背景がわかるかも知れませんよ
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- shunji888
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これはCUBE ZEROを見れば分かりますよ ネタバレするといけないのでこれ以上は言いません。
お礼
ご回答ありがとうございます!!! CUBE2は観たのですが、監督・脚本を手がけた人が違うということで 設定を借りているものの、なんだか別の作品のように感じ、 CUBE ZEROは観ていないままでした・・・。 CUBE ZERO、観てみますね!
お礼
ご回答いただきありがとうございます!!! なるほど、そういう風に考えられるんですね~~ 「罪の意識」という字幕をみて、自分が社会の悪いこと(?) に加担したり、無関心だったりする罪・・・?、 とあれこれ考えてしまってましたが、 和訳の日本語の語感に引きずられすぎだったのかも。 エレベーターという作品、ぜひ見てみます!