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手紙はかならず宛先に届く

これは、ことば遊びではありませんか? 質問に不審な方は、HNをクリックして、コメントを見てください。 以下余白

みんなの回答

noname#15641
noname#15641
回答No.7

#3です。 権利はないが自由はあるといいたかったのです。

noname#15238
質問者

お礼

あれ、 「自殺する権利はないが自殺する自由はある」 という事ですか、 私たちは自然と他人とのかかわりの中でしか生きられないとすれば、自由は色あせてしまいますね。 誤解したようで申し訳ありません、有難うございました。

noname#15641
noname#15641
回答No.6

#3です。 fishbowl66さんのように「ひきちぎる事も、つき返すこともないから」から手紙は届いたのです。 fishbowl66さんには「そこから後ずさりして「そんなつもりじゃなかった!」などと言う権利はなかった」 ということです。

noname#15238
質問者

お礼

mineosanさん、私を肴にして遊んでますね。 そして、その事に文句をいう権利はないと釘をさしている。 う~む、私の自由は何処へ行ってしまったのでしょう? 再度のご回答有難うございます。

回答No.5

この質問の意味がわかりません。(笑)それは、僕に手紙が届かなかったということでしょうか? >因果関係の多くの部分が単なる偶然の誤認ではないのか 偶然と必然の違いは何でしょう?結局のところ、自我が予測できない範囲外であれば、それを偶然といい、わかりきっている範囲であれば必然というのではないでしょうか?どっちにしろ、結局、自我に縛られたの狭い世界だと思います。つまり、必然であると同時に偶然でもありえると思うんです。偶然にしろ、必然にしろ、その人が決めることであって、同じことだと僕は思います。

noname#15238
質問者

お礼

手紙は届いたはずです、届かなければ、このご回答もないでしょう。 ありゃら、これ五階・五戒・誤解じゃないかな? 先日、このサイトで、他の方の質問に「意識とは何んだろうか」という本をご紹介していた回答者様が見えました。 早々パクらさせていただき、読んだのですが・・・ ロボットの亀(光と接触センサーを持ち互いに光源を持つ二匹?の亀)を使用して、実験すると、お互いの亀がまるで意識をもったような行動を取るということです。 つまり、われわれの意識そのものが、偶然の所産に、勝手な意味付けをしているのでは・・・あくまでも仮説ですが。届きました、外れたかな(笑。 おっと忘れていた、ご回答有難うございます。

回答No.4

手元に本がないまま、以前本を読んだときのノートをもとに回答します。 必ずしも正確な記述ではない可能性がありますので、ぜひスラヴォイ・ジジェクの『汝の症候を楽しめ ハリウッドvsラカン』(筑摩書房)という本をお読みください。 「手紙はかならず宛先に届く」というのは、ラカンのテーゼです。 ラカンは「『盗まれた手紙』についてのセミネール」という論考のなかで、エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』を素材として扱いつつ、フロイトの『快感原則の彼岸』の注解をおこないます(『汝の症候を楽しめ』では、すぐれたラカンの読み手であるジジェクが、おもにヒッチコックの映画を素材として、ラカン思想の読解をおこなっている、という構造になっているわけです。この章ではヒッチコックではなくチャップリンの『街の灯』ですが)。 ものすごく粗雑な説明をしますが、この「手紙」とは、「抑圧」ということです。 「抑圧」というのは、フロイトの『精神分析入門』では、「ふたつの部屋の間の番人」という比喩で説明されています。 無意識とは、その中で多くの心的興奮が右往左往しているような大きな控え室。 その隣には、もっと小さな、きちんと整頓されたサロン。それが「意識の部屋」です。 このふたつの部屋の間には番人がいて、個々の心的興奮を調べ、検閲して、気に入ったものだけを「意識の部屋」にいれます。 このとき、「意識の部屋」からは、この番人の存在は見えません。 番人が検閲している、ということ自体、「意識の部屋」の住人は、知ることができないのです。 こうして「抑圧」された無意識、意識の領域に入り込むことができなかった無意識は、夢や妄想、神経症といった「症候」として再帰する。 まず、「手紙」「手紙が宛先に届く」という言葉の背景には、このような意味があるんだということを、理解しておいてください。ここまでは、ジジェクの本には出てこなかった部分です。 デリダはこのラカンのテーゼを批判します。これを言い出すと終わらなくなってしまうし、わたしもちゃんと一次文献を読んでいるわけではないので、デリダは「郵便は宛先に届かないこともある」と批判した、ぐらいにしておいてください。 それを受けて、デリダを批判するジジェクは「必ず届く」というのです。 これまた大胆に端折ってしまうと、つまり、手紙が宛先に届くのは、届いた先が宛先だから、なのです。 ジジェクはこんな例を引いています。 『千夜一夜物語』にもこんな話がでてくる。 砂漠で道に迷った主人公が洞窟に迷い込む。するとそこには三人の老賢者がいて「とうとうやってきたな、三百年間、おまえのことを待っていたのだ」という。 なぜ主人公はその洞窟にたどりついたのか。奇しき運命のなせるわざか。 そうではないのです。その場所にいる、というまったくの偶然的事実によって、主人公が「待っていたおまえ」になる。その時点で、主人公がそこにいる意味が遡及的に築き上げられるのです。 こうして手紙は宛先に届いたのです。 難破船から助けを求める手紙を瓶に詰めて海に流す。そんな手紙こそ、確実に「届く」。それは、届いた先が宛先になるからです。 これがどのように「抑圧」ということと結びついていくのか。 ジジェクは同書のなかでこのように説明します。 たとえばあるヒステリー患者が、自分は他人に利用されてばかりいて、悲惨な現実に適応できない、と言ったとする。 これに対し、「虚しい夢を見るのはやめなさい、人生は悲惨なものです、それをそのまま受け容れなさい」というのは、精神分析の立場からの答えではない。 ----------(p.33からの引用) 「あなたの嘆きや不平不満はみんな嘘です。なぜなら、あなたはそれらのおかげで利用され搾取されているという現実に、適応しすぎるほど適応しているのですから」……この答えは「美しき魂」に、自分が世界の邪悪なあり方にいかに関与しているかを直視させることによって、コミュニケーションの円環を閉じる。この答えによって、主体/発信者は受信者から自分のメッセージを真の形で受け取る。つまり自分の嘆きや不平の真の意味を受け取る。言い換えれば、この答えによって、主体が回路のなかに投げ入れた手紙は「宛先に届く」、宛先は最初から発信者自身だったのだ。手紙は主体がやっとのことで自分の行為の結末を引き受けたときに、宛先に届く」 ---------

noname#15238
質問者

お礼

いつもお世話になります。 今回も、ご丁寧なご回答有難うございます。 それにしても、さっぱり判らない。 >こうして「抑圧」された無意識、意識の領域に入り込むことができなかった無意識は、夢や妄想、神経症といった「症候」として再帰する。 >自分が世界の邪悪なあり方にいかに関与しているかを直視させることによって、コミュニケーションの円環を閉じる。 前者では、そもそも無意識が「抑圧」されるとはどういうことか?「抑圧」されるものは、何らかの意識ではないだろうか? 後者では、円還を閉じてしまって、自身が結末を引き受けるとしても、他者が存在する現実の中で手紙という「行為」は、他者に影響を与えている、この事実を過小評価していないだろうか? そして、最大の問題は、一番の疑問が以上の記述の中にはないということです。 困った困った。 皆様にお礼をしてから、補足入れますからよろしくお願いします。

noname#15238
質問者

補足

もし、お暇がありましたら、お付き合いください。 「手紙はかならず宛先に届く」これはラカンのテーゼです。 デリダは「手紙は宛先に届かない事もある」と批判します。 この批判に対してジジェクは、原始的・常識的批判で、矛先を間違えているとラカンを支持するのですが、 ヘーゲルの格言を理解する上では、私のような凡人にはデリダの言説の方が理解しやすいのです。そして、やはり最大の問題は、ラカンやフロイトやカントではなく、またしてもデリダの言葉を借りれば「著作権のない明らかに正しい事」とはなんなのか? 哲学の世界では「ヤボ」な質問なのでしょう。 ただ、私たちは、評論家でも解説者でもなく、日々決断を迫られている・・・引きたくもない線を引いては、理解したつもりになって安心して眠りにつくのです。 私に足りないものは多すぎますが、たとえば、ソシュールが、アナグラムの研究に嵌まりすぎたとすれば、どこかで線を引かざるをえないと考えるのですが、如何でしょうか、判りにくければご指摘ください。

noname#15641
noname#15641
回答No.3

手紙の受け手(どなたかは知りませんが)には全てが許されている。 それをひきちぎる事も、つき返すことも。 しかしそれを知っている受け手はそんなことはしないであろう。 ちゃんと手紙は届きました。

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 手紙が届いたから、こうしてお礼を書いているわけですね。 ひきちぎる事も、つき返すこともないから手紙を出したのでしょうか?「手紙はかならず宛先に届く」は、この後、まだまだ分析が続くのですが、私は、本を放り投げてしまいました。それでも、本の表紙が、語りかけてくる、気になるんですね(笑。

  • giyuu818
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.2

そしてそこには'郵便受け'がある。

noname#15238
質問者

お礼

ヘーゲル的格言に従えば、郵便受けがあつても、手紙は届かない事もある。 こちらのほうが解かり易い、凡人です。 ご回答有難うございます。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.1

原因があるところには、必ず、結果が生じるからだと想います。 「エネルギーの交換」が行われるからだと想います。 「作用・反作用の法則」というのがありますが、 例えば、台車を「押す」と、台車には「押される」という反作用が生じます。 「押す」という「+のエネルギー」と同じ大きさで「押される」という「ーのエネルギー」が生じます。 原因があれば、必ず、結果が出るように、この宇宙は出来ているんです。そして「エネルギー保存則」により、それは作用したのと同等のエネルギーの反作用として現われるからだと想います。(因果応報)

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 なるほど、なるほど、因果応報ですか。 瓶に入れられた手紙は、海に投げられた瞬間、宛先に届く。 主体の表象世界や、鳥瞰的視野から見ても、作用反作用の法則は成立するでしょう。ただ、ここでは他者の意図が欠落するような気がしてしまいます、逆に、私には手紙が届いたのだろうか?理解できたのだろうか? 因果関係の多くの部分が単なる偶然の誤認ではないのか、 あるいは、コメント欄の見事な使われ方、勉強になります。

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