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新旧憲法の教え方

社会科の先生にご意見を伺いたいのですが、よろしくお願いします。よく中学校の社会科の教科書では、大日本帝国憲法と日本国憲法の違いとして、前者は天皇主権であり、後者は国民主権であるといったことが書かれています。しかし、以前、家庭教師をしていたとき、これは変だなと思ったものです。というのは、大日本帝国憲法下であっても天皇は実質的な主権者ではないからです。(極端な言い方をすれば、満州国の皇帝と同じような傀儡でしかありません)。つまり、前の憲法下であっても、現在の憲法の下であっても、実質的には、天皇は日本統合の象徴だったのだと思います。(天皇機関説というのは、実態を正確に述べただけのものですよね)。しかし、中学の教科書には、タテマエ論だけが書かれていたのです。 さて、ここまでは、常識的な考察です。問題は、こういうややこしい問題を、生徒にどのように説明するかということです。あるいは、タテマエ論で通しておられるのでしょうか。中学高校の先生は、どのように教えているのでしょうか。私ならば、頭の悪い生徒相手には、建前論かなとは思います。他方、センスの良い生徒ならば、どんどん教えてしまうでしょう。はたして、教育の実態は???

みんなの回答

回答No.5

 失敬。美濃部博士のお名前を間違えました。「達吉」が正しい。亮吉はご子息の都知事です。

mon03
質問者

補足

大人相手でも、これだけ、話が混乱するのですから、中高生にするのは、もしかしたら無理なのかなというふうに思うようになりました。私は、単純に、天皇と王権の違い、あるいは、日本に立憲君主制の特異性を、どうやって教育課題としてとりあげていくかを、皆さんに問いかけただけのつもりなのですが。

回答No.4

 美濃部亮吉博士の天皇機関説は戦前の代表的な憲法論のひとつですが、決して天皇主権を否定したものではありません。天皇の統治権、統帥権を各機関に代行させる、という発想によるもので、統治権統帥権の淵源はあくまで天皇にあるとする説です。その行使を自然人としての天皇が行うのではない、という部分にポイントがあるのは事実ですが。  また、美濃部博士と並んで憲法の大家であった上杉慎吉博士は、自然人としての天皇が統治権を行使すべきとする説を立てています。大正期になるとやや傍流になりつつありましたが、そういう発想によって説をなし、そういう社会が理想であると考える人もいたことは事実です。  憲法は、いや、憲法にかぎらず法は「こうあるべきだ」「こうあってはいけない」という建前を定めるものです。法があり、それにしたがって現実の政治が構築される。それが法治主義の大原則です。ですから憲法の「建前」の部分を問題にすることは法学的にも、また歴史学の上でももっとも重要な視点であるといえます。  明治憲法が「建前上」天皇主権であったことは「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」との定めがあります。現実として戦前の日本は天皇独裁にはならなかったけれど、この憲法は使いようによってはそういう社会を可能にする根拠となりうる。天皇機関説にしろ、上杉博士の天皇主権説にしろ、基盤となっているのは上記第四条そのほかの天皇の統治大権の規定です。つまり両者は一見正反対の方向を向いているように見えるが、天皇機関説はある程度のところまでゆきつくと歯止めがかかるようになっている。「第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」などという一条によって(治安維持法などの法的根拠のひとつはこの条文です)、非天皇主権的な方向性はゆきどまりが設けられているのです。  一方で天皇主権説的な解釈は、たしかに「第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」のような歯止め措置を設けてはいるが、それが実効力に欠ける(協賛という行為の規定がないし、協賛を得られない天皇の意思は第三条規定によって無理に通すことができる。たとえば緊急勅令や戒厳令がこれに相当します)。すくなくとも、天皇主権説的な解釈の「ゆきどまり」は天皇機関説的な解釈の「ゆきどまり」よりずっとずっと遠いところにあるといえる。――これが「天皇主権」という「建前」が、現実とかならずしも一致しないにもかかわらず、しかし明治憲法を考えるうえで重要になってくる理由のひとつであるといえます。  法学の常識として、このように法の本質的構造と現実的運用のあいだに乖離がある場合、法そのものの性格を述べる必要性がある際には前者につくのが通常だと思います。  たとえば現在の刑法は「第百八十五条〔賭博〕 偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者ハ五十万円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス但一時ノ娯楽ニ供スル物ヲ賭シタル者ハ此限ニ在ラス」と定めています。しかし実際に賭け麻雀くらいではつかまらないし、つかまったとしてもよほどの悪質なものでなければ起訴されたりはしない。しかし実際にそうだからといって、日本国内で非公営の賭博が認められているわけではない。  この場合、日本の現刑法の賭博に関する性格をひとことで説明するのならばやはり「賭博は禁止されている」となるのがふつうではないでしょうか。「建前」と「現実」は法にあってはそういう関係にあるものだと思います。  なお、中高校の日本史では天皇機関説問題は近代史のひとつのハイライトとしてひととおり説明されています。明治憲法も運用の方法によっては民主的な面影を持ちうるものであったこと、しかしそれとは逆の性格、あるいはそのような性格をゆるす寛容さも潜在的に持っていたこと(それゆえ機関説が排除された)。機関説問題はこうした憲法に対する二つの見方が交錯した瞬間であったこと、などはどこの学校でも教えているはずですし、多少くわしい教科書なら掲載しているはずですが……。

mon03
質問者

補足

> 中高校の日本史では天皇機関説問題は近代史のひとつのハイライトとしてひとと > おり説明されています。明治憲法も運用の方法によっては民主的な面影を持ちう > るものであったこと、しかしそれとは逆の性格、あるいはそのような性格をゆる > す寛容さも潜在的に持っていたこと 私の説明がごく簡単だったので誤解されたのだと思いますが、天皇機関説だとか法学的側面が話題の中心ではないのです。どちらかというと、公民よりも歴史の分野のテーマだと言えます。 つまり、近代天皇制には独自の権力が欠如しており、むしろ象徴的あるいは傀儡的性格であることをどう説明するかということ。あるいは、西欧と日本における王権と天皇の違い、西欧と日本における憲法の相違を明らかにするという課題です。イギリスやフランス革命と、明治の王政復古との違いを説明すると言っても良いだろうと思います。 問題は、こういう比較歴史社会学的なアプローチと、憲法の法学的アプローチとでは、かなり異なった議論になる可能性があり、高校生には混乱をもたらす恐れがあると言うことです。教育的配慮として、こういう複雑な議論はしないほうが、良いのでしょうか?

  • mark-wada
  • ベストアンサー率43% (273/633)
回答No.3

社会科の教職課程を受け、塾講師の経験もある者です。法律は専門ではないですが、質問者さんの見解は納得できます。 私も受験勉強で何の疑問もなく 「天皇主権」 → 「国民主権」 と習い、実際それが試験での正解でした。 しかし、歴史と法律をキチンと学ぶと大日本帝国憲法が天皇主権というのは言い過ぎだと思います。 ここまでは質問者さんのおっしゃる  >常識的な考察  としていいと「私は」思います。 ただ「法律の専門家」の間では、かえって少数意見なのかもしれませんが。 (ま、法律論は深入りせず教育論として) 難しいですね。現実に「教科書」にそう書いてあって、「試験」でそれが正解とされる以上、そういった「用語」を使う、教えざるをえないです。かなり >センスの良い生徒 なら、こういう建て前だけど、実態はこうだったのでは、と教えた方が本人に(後からも)喜ばれる気がします。ですがそうでない生徒だと...、 「テキストにはこう書いてあるけど、実際はどの程度だったのか、興味があれば調べてみるのも面白いかも。」と説明するのはどうでしょう? 余裕のない生徒ならテキストを丸暗記するだけで終わり。でも興味のある生徒なら自分で調べてみるきっかけになる、ということで。

mon03
質問者

お礼

レスありがとうございました。 >私も受験勉強で何の疑問もなく 「天皇主権」 → 「国民主権」 と習い、 やはり、そうでしたか。もしかしたら、こういう問題は、大学入学以降に問いかけるべきなのかもしれませんね。そのあたりは、私はよく分かっていませんが。 >難しいですね。現実に「教科書」にそう書いてあって、「試験」でそれが正解とされる以上、そういった「用語」を使う、教えざるをえないです 大学ならば、立憲君主制という概念とのからみで、比較史、比較歴社会学、比較政治学などの学問で学べばよいことなのでしょう。しかし、たしかに、普通の生徒には難しすぎますよね。やっぱり、普通の高校生ならば、さらっと流すのがよいのでしょうね。

  • sgm
  • ベストアンサー率60% (375/618)
回答No.2

1です。 >どういう点で混乱があるのでしょうか。 ある憲法がどのように主権者を規定しているか、という事と、その憲法下の政治状況の実相がどのようなものであったのか、という事は全く別の問題であって混同してはいけないと思います。主権者は誰か、という事はつまり憲法に従って立法施行される法律や政令、また政策決定などの正当性や拘束力の淵源がどこにあるのか、と問うているのです。仮に明治憲法下で、それらの法律や政策決定が、自然人としての天皇の意見と著しく相容れないものであったとしても、法的に正当な手続きを経ている限り、憲法の定める天皇の主権を何ら損なうものではありません。  もう一点。あなたのいう「実質的な主権者」としての天皇像というものがよくわからないのですが、絶対王政のようなものを想像されているのであれば、近代立憲君主制下の天皇を捉えるイメージとしてはナンセンスではないでしょうか。「天皇機関説」は別に天皇主権を否定するものではありません。

mon03
質問者

補足

>ある憲法がどのように主権者を規定しているか、という事と、その憲法下の政治状況の実相がどのようなものであったのか、という事は全く別の問題であって混同してはいけないと思います 憲法とその機能を区別するというのは、誤った建前論に導く恐れがあります。 なお、明治憲法は、建前上は、立憲君主体制でしょう。しかし、憲法制定以前の段階において、天皇は恣意的な権力を持っていたわけではないのです。憲法によって天皇の権力の恣意性が制限されたのではないのです。(そもそも天皇を担ぎ上げたものたちが、天皇を憲法を制定したのである)。要するに、西洋の立憲君主体制とは全然異なったものなのです。 あなたの議論こそ、ナンセンスだと思います。いずれにせよ、教育論として、成立しませんから、これ以上レスしないでください。

  • sgm
  • ベストアンサー率60% (375/618)
回答No.1

ご質問の文章の前段「常識的な考察」の部分には論旨の混乱があるように思います。何を問題にされているのか、率直に言って判然としません。 後段のどのように生徒に説明するのか、という点については、立憲の精神として天皇主権か国民主権かという視点で説明する事になると思います。特にややこしい問題ではないと思います。

mon03
質問者

補足

>「常識的な考察」の部分には論旨の混乱があるように思います どういう点で混乱があるのでしょうか。 >立憲の精神として天皇主権か国民主権かという視点で説明する事になると思います。特にややこしい問題ではないと思います。 もしかしたら、私の議論が常識的考察ではなく、多少ユニークな考察なのかもしれませんね。(私には、明治憲法における天皇主権というのを文字通りに受け止めることはできません。天皇は実質的には象徴もしくは傀儡なのですから。(また、仮に昭和天皇に本当に主権者だとしたら、戦争犯罪人として絶対に死刑にしなくてはならないでしょう)。

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