arayata333 の回答履歴

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  • 狂気とは?

    狂気とはどのようなものでしょう?詳しくお答えください。 例えばいきなりの無差別な殺人など社会的狂気でしょうか。 いろいろあると思いますのでご自由に。 できたら、なぜいかにして起こるかもお答えください。

  • この世界に信じるに値するものは何か

    質問に先立って前置きです。 悪は概念のみであり空絵ごとです。 罪もまたそうです。 欲望は私には正体不明です。 「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。 脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。 夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。 夢の中に閉じこもっているのです。 現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。 現代人はそれこそが愛であると学んでいます。 そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。 後者は信仰でなくとりすがりです。 一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。

  • 他人に親切を心掛けている方、ご回答お願いします。

    現在保育士の資格取得のために社会福祉を学んでおります。 他者を助けようとする意図についてふと疑問が浮かびましたので教えてください。 世界の歴史を振り返ると、弱者への救済には政治的な意図(自分の権力を定着させるため)や、宗教的な意図(キリスト教的には、自分の罪滅ぼしや、死後救われるための善行目的も含む)があったとのことです。 また、国内においては江戸時代に、儒教の朱子学に基づく救済論が説かれたそうです。(ウィキぺディアで調べましたら、儒教は宗教ではないという捉え方が一般的だそうです。) 私は長らく宗教的な動機で他人に親切にしてきたのですが(周りが皆そうだったこともあり、動機が定着すればあとは惰性でできるというか、それが当たり前というか自然に行動指針となっている感じでした)、現在は無宗教のため、特に理由はないけれど人当たりは悪くないほうだと思います。 親しみを感じる人には仲間意識と言うか一体感がありますので、相手が喜ぶと自分も嬉しくなるので優しくしたいと思って優しくできます。 でも、(無宗教になってから、)初対面の人・義理での付き合いの人や、赤の他人(冷たい表現かもしれませんが)で困っている人に親切にしたいという気持ちはあまりなくなってしまいました。 駅等での共同募金の呼びかけ等にも、素通りできるくらいになってしまいました。ニュースを見ても、困っている人が世の中にいるという現実にも心が痛まなくなってしまいました。 社会問題に対する自分の無力さを知ったことも一因だとは思いますが、主な原因としては他人に無関心になったように思います。 そこで皆様に質問です。 <他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。> ※ただ、人に親切にすると気持ちがいいから、という理由では不足な気がします。皆がそうであるわけではありませんから。身内への情誼でさえ「面倒臭い」という人もいます。 この質問の意図は、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>ということを知りたいからです。 儒教的思想だとそうでもないような気がしますが…(感情よりも理性に基づいた社会学のようなイメージです。) また、他人(身内や友人以外)に親切にするのは人間だけなのだろうか?ともふと思いました。動物は、家族や群れでは助け合いますがあくまでも身内同士での共生だと思うからです。 もちろん、身内に十分に親切にするだけでも、大変というか大切なことです。家族を疎かにしてしまうことだって珍しくないと思います。 だとすると、<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?> 「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」 これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。 でも、年月が流れ、自分に余力があっても、自分から人を意識的に助けに行くことはなくなりました。ボランティアをしたいとか思わなくなりました。ずいぶんと器が小さくなってしまったのでしょうか。 それとも、見知らぬ土地へ嫁ぎ、(遠距離だった相手と1年半前に結婚しました)家族を第一に守らないと、と意識するようになったからかもしれません。 <宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。> 自己弁護というか自問自答な部分もありますがご容赦ください。 <>内の疑問に関する皆様のご意見や経験を教えてください。すみませんがよろしくお願いします。

  • 他人に親切を心掛けている方、ご回答お願いします。

    現在保育士の資格取得のために社会福祉を学んでおります。 他者を助けようとする意図についてふと疑問が浮かびましたので教えてください。 世界の歴史を振り返ると、弱者への救済には政治的な意図(自分の権力を定着させるため)や、宗教的な意図(キリスト教的には、自分の罪滅ぼしや、死後救われるための善行目的も含む)があったとのことです。 また、国内においては江戸時代に、儒教の朱子学に基づく救済論が説かれたそうです。(ウィキぺディアで調べましたら、儒教は宗教ではないという捉え方が一般的だそうです。) 私は長らく宗教的な動機で他人に親切にしてきたのですが(周りが皆そうだったこともあり、動機が定着すればあとは惰性でできるというか、それが当たり前というか自然に行動指針となっている感じでした)、現在は無宗教のため、特に理由はないけれど人当たりは悪くないほうだと思います。 親しみを感じる人には仲間意識と言うか一体感がありますので、相手が喜ぶと自分も嬉しくなるので優しくしたいと思って優しくできます。 でも、(無宗教になってから、)初対面の人・義理での付き合いの人や、赤の他人(冷たい表現かもしれませんが)で困っている人に親切にしたいという気持ちはあまりなくなってしまいました。 駅等での共同募金の呼びかけ等にも、素通りできるくらいになってしまいました。ニュースを見ても、困っている人が世の中にいるという現実にも心が痛まなくなってしまいました。 社会問題に対する自分の無力さを知ったことも一因だとは思いますが、主な原因としては他人に無関心になったように思います。 そこで皆様に質問です。 <他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。> ※ただ、人に親切にすると気持ちがいいから、という理由では不足な気がします。皆がそうであるわけではありませんから。身内への情誼でさえ「面倒臭い」という人もいます。 この質問の意図は、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>ということを知りたいからです。 儒教的思想だとそうでもないような気がしますが…(感情よりも理性に基づいた社会学のようなイメージです。) また、他人(身内や友人以外)に親切にするのは人間だけなのだろうか?ともふと思いました。動物は、家族や群れでは助け合いますがあくまでも身内同士での共生だと思うからです。 もちろん、身内に十分に親切にするだけでも、大変というか大切なことです。家族を疎かにしてしまうことだって珍しくないと思います。 だとすると、<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?> 「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」 これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。 でも、年月が流れ、自分に余力があっても、自分から人を意識的に助けに行くことはなくなりました。ボランティアをしたいとか思わなくなりました。ずいぶんと器が小さくなってしまったのでしょうか。 それとも、見知らぬ土地へ嫁ぎ、(遠距離だった相手と1年半前に結婚しました)家族を第一に守らないと、と意識するようになったからかもしれません。 <宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。> 自己弁護というか自問自答な部分もありますがご容赦ください。 <>内の疑問に関する皆様のご意見や経験を教えてください。すみませんがよろしくお願いします。

  • この世界に信じるに値するものは何か

    質問に先立って前置きです。 悪は概念のみであり空絵ごとです。 罪もまたそうです。 欲望は私には正体不明です。 「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。 脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。 夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。 夢の中に閉じこもっているのです。 現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。 現代人はそれこそが愛であると学んでいます。 そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。 後者は信仰でなくとりすがりです。 一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。

  • この世界に信じるに値するものは何か

    質問に先立って前置きです。 悪は概念のみであり空絵ごとです。 罪もまたそうです。 欲望は私には正体不明です。 「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。 脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。 夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。 夢の中に閉じこもっているのです。 現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。 現代人はそれこそが愛であると学んでいます。 そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。 後者は信仰でなくとりすがりです。 一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。

  • この世界に信じるに値するものは何か

    質問に先立って前置きです。 悪は概念のみであり空絵ごとです。 罪もまたそうです。 欲望は私には正体不明です。 「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。 脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。 夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。 夢の中に閉じこもっているのです。 現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。 現代人はそれこそが愛であると学んでいます。 そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。 後者は信仰でなくとりすがりです。 一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。

  • 幸福ってなんすか?

    ふと思いました   幸福って何だろうって     幸福ってなんすか?  

  • 道徳を守る理由

    こんばんは。 道徳を守る理由を教えてください。 よろしくお願いします。

  • 幸福ってなんすか?

    ふと思いました   幸福って何だろうって     幸福ってなんすか?  

  • 哲学と言葉

    哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね? 頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。 けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。 私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。 歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。 数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね? 漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。 はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。 どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。 酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。

  • 親鸞再考

     《信仰》という一点に絞ります。次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。  ▲ (《歎異抄》 第一章) ~~~~~~~~~~~~~~~~  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。  そのゆゑは、罪悪深重(じんじゅう)・煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと 云々。 http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/ (検索で最初に出ているので) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一番の知りたいところは   (A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。  ☆ です。言いかえれば   (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。  ☆ です。《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。   (C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。  ☆ と疑われます。なお   (D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。  ☆ と単純に受け取ります。

  • 親鸞再考

     《信仰》という一点に絞ります。次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。  ▲ (《歎異抄》 第一章) ~~~~~~~~~~~~~~~~  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。  そのゆゑは、罪悪深重(じんじゅう)・煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと 云々。 http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/ (検索で最初に出ているので) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一番の知りたいところは   (A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。  ☆ です。言いかえれば   (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。  ☆ です。《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。   (C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。  ☆ と疑われます。なお   (D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。  ☆ と単純に受け取ります。

  • 地頭をよくするには・・・

    私はどうしても思慮に欠けがあるというか、後から見ればここはこうしていればもっとスムーズにいったのに、、とか、猪突猛進というべきか、淡々と自己分析ができないというか・・・ うまくいえないのですが、考えても考えても不透明な部分があって、そこが一番重要だったりするのに、そのときにはそこまで手が届かないということがあって後の祭りになってから、ああこうだったのかと落胆することが多々あるんです。というかそればっかりで・・ 非常にもどかしいです。主知主義なんていう言葉もあるように、知識を増やすことで補えるものなのえしょうか・・?それとも地頭が悪いせいか、地頭をよくすればいいのでしょうか・・? もしよかったら、その方法も教えていただけるとありがたいです。

  • 現代の黙示録

    ネットの動画で衝撃を受けました。 インドネシアのポソという街での宗教戦争の様子を収めたものです。 動画中でとくに痛ましいのが、残虐に殺戮された幼い子供たちの遺体を親たちが取り囲む凄惨なシーンです。彼らの悲痛な嗚咽や虚ろな表情をもう僕は忘れられそうにはありません。 質問です; (1)宗教が現代もなお神の名の正義のもとに、このような残虐な殺戮をもたらしたことについてみなさまはどうおもわれますか(特に何か信仰されている方)? (2)こうした殺戮をなくすには宗教の何を変えなくてはいけないとおもいますか?

  • 吉本隆明の思想について

     次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。

  • 「人生で一番大事なのは金である」を論破していただけないでしょうか?(するにはどうしたらよいでしょう?)

    こんにちは。 「人性で最も尊ぶべきものは?」という議題において、持論の確立の為に金だという答えを論破したいのですが、どうもうまいことまとめられません。どうしたらよいか、皆様ならどうするか、お聞かせいただけないでしょうか? ただし、「金が一番大切ならば金は使えない」というのは無しでお願いします。 なぜなら、金の価値というのはそれがあれば多くのモノを手に入れることができる普遍性にあると考えるからで、つまり金とはなんらかのモノに使う前提があっての存在だと思うのです。 では、お願いします…

  • 吉本隆明の思想について

     次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。

  • アイデンティティの問題ではなく、自分とは何か

    私は私の頭で考え、私の記憶をたどり、私の意志で行動します。それは私の脳の働きによるものです。他人にも同じように同じ仕組みの体や脳があります。 私が以前から疑問に思っているのは、人間はみんな同じ仕組みなのに、なぜ「私」は私であるか、ということなのです。 他人はこの世に大勢います。他人は「他人」が動かしています。 それならば、私も「他人」として生まれてきてもよかったはずです。私の体も脳も同じなら、考え方や感じ方も同じはずですから、この世に何の影響もないでしょう。 しかし、なぜ「私」は私の感覚を受け取れて、「私」が意志を決定できるのでしょう。 私の感覚を受け取っている「私」とは何なのでしょう。 うまく説明できていないかもしれません。伝わらなかったらごめんなさい。 このようなことは研究されたりしているのでしょうか? また関連する文献などはありますか? もしご存知の方がいましたら教えてください。

  • 吉本隆明の思想について

     次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。